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「楊子町で声張り上げたひばりと川田晴久」『東海展望』1959年8月号 [読書記録 一般]

昨日は 久しぶりに学校へ
今週からぐらいしか 休みをとれないため
学校に来ている職員は非常に少なく
いつもと違った様子

文書棚の文書を確かめ
この間 やり残した 備品整理を再び…
わたしの担当で見つからなかった備品5点のうち
3点を見つけることができました

間をとることが有効でした
しかし あと2点… 何とか見つけ出します

今回は 郷土の昔の雑誌『東海展望』より
「楊子町で声張り上げたひばりと川田晴久」を紹介します

川田晴久さん、ご存じですか
昭和の初めごろ

「あきれたぼういず」「ダイナブラザーズ」のリーダー

「地球の上に朝が来る、その裏側は夜だった…」
で知られています
美空ひばりさんのお師匠さんとも言われています
川田さんが楊子町の林泉寺に滞在していたとき
ひばりさんが見舞いにやってきて
白脇小学校で歌を歌ったことを かつて聞きました
そのころの話です

林泉寺にはわたしが大変お世話になった
大先輩がいらっしゃいます
大先輩にお会いするたびに
この記事を思い出してしまいます






☆「楊子町で声張り上げたひばりと川田晴久」『東海展望』1959年8月号

1.jpg

 浜松市楊子町の古刹林泉寺の境内にある毘沙門天は花柳界の守り本尊である。

 毎月3日の縁日にはいろいろの願いごとを胸に畳んだ綺麗どころの一団で百
花が妍を競う。
 ことに4月3日は縁日中の縁日で咲きこぽれる桜の花が文字通り錦上華を添
えるのである。

 今から12、3年前まだ終戦政府の混乱も跡を絶たず、一方娯楽に飢えた国
民によって素人の村芝居などが機会あるごと俄かづくりの舞台で幕をあけたり
閉めたりしたころ、やっと甘味がかすかに舌の先にのこる綿菓子を片手で頬ば
り乍ら,飛入りで集うみすぼらしい少女があった。

 色褪せたつんつるてんのスカート、小指の飛び出したズック、どうみても、
闇米で肥えふとった農家の娘たちよりは貧相な身装りの女の子だった。

 然し綿菓子をほうばりほうばりの片手間にロからとび出す並木みち子のヒッ
ト曲「林檎の唄」を真似る声はスカートやズックとは似ても似つかぬ素晴らし
さで喝釆の嵐浴びていた。


◇重症カリエスで来浜

 歌謡漫談の一座「ダイナブラザー」のチーフ川田晴久が重症の脊椎カリエス
を療養するため文子夫人を同伴して林泉寺本堂に身を寄せたのは22年春先き
だった。

 両足がつって歩行さえもまゝにならぬという最悪の症状にいた川田晴久はこ
こで大河内仁三郎さんの灸療法をうけるために来ていた。

 川田晴久の脊椎カリエスはほとんど固疾といってもよい程の持病になってい
た。
 いま北寺島町で大河内温熱療院を経営している仁三郎さんが子供の時の大火
傷から両手両足が変型し整型外科治療をうけるため信濃町の慶応病院に入院し
た昭和17、8年当時隣室のベッドで脊椎カリエスの療養を続けていたのが川
田晴久だった。大河内さんは全快し、川田も小康を得てそれぞれ退院してから
も入院中培った二人の友情はそれ以来一昨年6月川田晴久が死ぬまでの十年間
兄弟以上のよしみとして続けられた。


 鴨江で戦災をうけ水窪に疎開していた大河内さんは戦火が消えるとともに市
中に引き揚げ家を新築するまで檀家寺にあたる林泉寺の一室を借りこゝで灸点
を始めた。

 そこへ終戦前後の過労でまたぶり返した持病の相談を川田晴久からうけた大
河内さんは自分の手許に呼んで灸療法でいくらかでも治やしてやろうという
ことになった。

 しかし物堅いお寺にとって芸人が間借りするということはちょっとした問題
であった。芸人とは世間の常識から一歩外れた日常生活を階級と考えられてい
たのだから問題にされたのも当然だった。


◇綿菓子片手に歌う小娘

 然し林泉寺に来た川田の常住座臥は謹直そのもゝ、前身が女優の婦人がモン
ペはきで遠くから炊事の水を運び男下駄で買物に行く地味な姿と共隣隅近所の
人々をびっくりさせた。

 健康な時には野菜はおろか飯もくわず肉ばかりを貪り喰うといった極端な偏
食も批処に来てからは大河内さんや文子夫人の忠告を守ってせっ生を続けた。

 近所の青年たちが来れば布団の上に起き直ってギター、ウクレレを教えた日
もあった。

 そんな日常のつれづれを慰めるかたわら彼に歌をおそわりに横浜から度々訪
れて来るみすぼらしい少女があった。

 名前は加藤和枝といった。来る時はいつも母と一緒だった。当時流行し始め
た素人のど自慢で笠置しず子そっくりのおませな真似をして歌謡界から注目し
始められた加藤和枝を将来が楽しめそうだと期待をかけたのが川田晴久だった。


 和枝はその真似ぶりを見込まれて藤尾純、伴淳三郎、日暮里子らが組織して
いた新風ショーに子役として出るようになった。しかしあくまでも人真似の彼

 女の喉は本格的な歌謡歌手という訳にはゆかなかった。川田晴久は一人前の
歌手として成長させるために当時まだ小学校5年かそこらの彼女を頻繁に林泉
寺に呼んで本格的な練習をつませた。部落の人たちを集めてその前で歌わせ舞
台度胸をつけさせることも修業の一つだった。
 綿菓子をほうばり乍ら歌った少女がこの加藤和枝だったのである。


◇灸療師と3人の歌手

 昭和23年6月横浜の国際劇場で開かれた歌謡大会で笠置しず子と揃って出
演した少女歌手美空ひばりはあたかも笠置と競演という皮肉な結果になり笠置
はひばりのためにジャズ歌手の王座から引きづり下ろされ、ひばりが大きく流
行歌手としてクローズアップされるに至った。

 浜松市外の片田舎で色褪せたスカートに指の出たズック、綿菓子片手に身ぶ
り手ぶりで謳った加藤和枝が美空ひばりと名のり五彩のライトを満身に浴びて
の晴れの舞台姿だった。


 23年暮大河内仁三郎氏の友情をかけた治療によって頑固な脊椎カリエスも
癒えた川田晴久は大河内氏、林泉寺、そして地元の人々の熱い情けに幾度も感
謝の頭を垂れて東京に引き揚げて行った。


 一昨年初め、舞台の階段でつまずいて赤坂の前田外科に入院したが治療中腎
臓結核を併発、6月20日遂に50歳で病苦の生涯を閉じた。会葬通知の友人
総代に名を連ねていた

 美空ひばりの成長ぶりは川田晴久にとって何よりの嬉びであり供養だったに
違いない。美空ひばりによって王座から蹴落とされた笠置しず子も昭和19年、
まだ花月劇場といった頃の浜松座に出演中急性リユウマチで大河内さんの許に
はこばれたこともあったというから大河内さんを取巻く因しき三人歌手の因縁
ともいえよう。


 いまスランプにあるといわれる美空ひばり、東京で旅館「川田」を経営する
文子未亡人、吉本興行の御曹子との間に出来た一人粒しつましく生きている笠
置しづ子、近づく楊子六所神社の夏まつりを前にそれぐ思い思いの追想を浜松
の空に馳せていることだろう。

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