SSブログ

「『児相』虐待からの再生-この十数年になにがあって、児相はなにか変化したのだろうか…」 団士郎 立命館大学大学院・応用人間科学研究科教授 『少年育成』より ①(前半) [読書記録 教育]

今回は 『月刊少年育成』(号数不明)より団士郎さんの

「『児相』虐待からの再生-この十数年になにがあって、児相はなにか変化したのだろ
 うか…」

を 紹介します

『少年育成』現在休刊中ですが
大坂補導協会より出されている大変読み応えのある教育雑誌でした



団士郎さんは 同誌に 『木陰の物語』という連載を書かれていましたが
それも大変考えさせる内容でした



※一般社団法人 大阪少年補導協会 公式HP 
 http://www.osaka-hodoukyokai.or.jp/index.html

※同上 少年育成手帳・月刊少年育成のページ
 http://www.osaka-hodoukyokai.or.jp/techo.html




※浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー
 ものづくりの街 浜松
 行くたびに新しい感動が得られる 山田卓司さんの世界
 詳しいことはホームページをご覧になってください
 ホームページにも魅力がいっぱい詰まっています
 なお 現在ボランティアスタッフ募集中とのことです
浜松ジオラマファクトリー








☆「『児相』虐待からの再生-この十数年になにがあって、児相はなにか変化したのだろうか…」 団士郎 立命館大学大学院・応用人間科学研究科教授 『少年育成』より ①(前半)

1.jpg


 児童相談所(以下児相)を外から見ていて、そしていくつかの地域の児相に継続的に
関わっていて思うことを書いてみる。


 ただ断っておくが、児相こうあるべしなどと言いたいわけではない。感覚、感想の類
だと思っておいてもらうのがよい。


 児相職員として現役であった頃から私は、児童福祉法や心理学的理論などをベースに
発言や行動を起こすことは少なかった。

 それよりも時代の流れから感じる必然性や違和感、どこかで決定されて降りてくる施
策に対する疑問などがきっかけの方が多かった。これは今もそれほど変化はない。



 現職で児相の渦中にいたのは、もう十年以上も前の事である。

 当時、人事異動で児相を離れるのは私には耐え難いことだった。「昇格人事だから…」と労働組合の役員にいわれても、なお公務員退職も天秤にかけてしまうほど、未練の残
った精神薄弱者更生相談所(現知的障害者更生相談所)への異動だった。
                    (退職したのはこの5年後のことである)

 それが十数年経った今、長く勤務した人が異動で児相を出ることになった時、静かに
去ってゆき、戻りたいとあまり言わなくなっていると聞く。

 旧知の中にも「もう児相はいい…」とバットを置いた人がある。この十数年になにが
あって、児相はなにか変化したのだろうか。




◇児童虐待以前

 十数年前といえば、阪袖大震災のPTSDも、オウム信者の子ども達を機動隊が取り囲
んだ一時保護所で抱え込んだりする状況もまだ現れてはいない。


 児相のワイドショーデビューになった児童虐待も、まだ養護ケースの一部に含まれて
いる程度の認識の時代だった。


 その一方で、不登校相談は累積滞留をきわめていた。学校は児童・生徒の各家庭に立
ち入るのは、教育の限界を越えていると認識していた。

 だから、登校したら対応はするが、来ないものは学校としては致し方ない、そんなこ
とを言っていた時代だった。(それが今では、スクールカウンセラーの全中学校配置や
適応指導教室、こころの相談員だのなんだのと、校内には非常勤専門家があふれかえっ
ている。そして教師の半分が辞めたいと思ったことがあるという)

 大雑把ではあるが、さらにもう十年遡った児相を思い出してみよう。

 たまたま手元に1984年の心理判定業務日誌がある。そこには連日のように地域の発
達相談への出張が記入されている。


 1970年代から世を挙げて隆盛になった就学前の発達保障、療育活動が児相の量的業
務の中心だった。明けても暮れても発達検査をおこない、保健婦(現・保健師)と一
緒に母子への助言を繰り返していた。

 しかし現在、これらの仕事はほとんどが市町村に委譲された。より生活エリアに近い
単位の場で、きめ細かにおこなわれる仕事になっていった。


 そもそも戦後の浮浪児対策にスタートした…などと大昔を振り返らなくても、児相は
いつもこんな風に、時代の要請の中で業務の中心を変えてきた。


 それはある意味で真っ当な公的機関であったればこそだと言える。

 だからこんな風に時代のニーズに合わせて、付け焼き刃ながらも「子ども・子育て・
家族」に向けてのサービスを展開してきた。


 乱暴な言い方だが児相は同じ仕事を十年していたことのない機関だった。

 これが専門性・専門家という言葉に、ずっと脅かされ易い体質を持ち続けた要因の一
つである。


 さらに全国のあちこちにあったに違いないこんな側面も、私の経験から述べておく。

 ある時期、京都府児相においては、発達障害相談旋風が吹き荒れた。

 これは主にその時期に中心的存在であった人物(心理職)のなせる技だった。

 心理セクションの児相内における影響力は、全国各地においても、多かれ少なかれこ
ういう構造を持っていた。

 そのあおりを食ったのが、1970年代からコンスタントにあった「登校拒否・不登
校相談」だった。

 地域の親たちや学校教員は、児相はもう不登校問題は相談にのってもらえないのだろ
うと相談をひかえてしまった。そしてそれまで経過のあった不登校の親などは、異動で
他部門の仕事に就いていた元職員を頼って、個人的に訪ねるような事態 が起きていた。


 時代の風と、その時に配置された職員に属する専門性に翻弄されやすい児相、これが
戦後50年以上にわたって繰り返されてきた歴史だ。





◇児童虐待

 こんな中で巡り会ったのが「児童虐待」である。

 これが児相を変えたのは事実である。児童虐待防止法が民法や児童福祉法の従来の解
釈や運用慣行に比べると、「対策を講じなかったことの責任」を強く意識させるものに
なったことで、仕事は傍目からも明らかに変わった。

 今や児相に対する世間の期待は、ろくでもない親から子どもを護る正義の代理人である。

 そしてその正義は、人権や差別撤廃をうたうスローガンのように、正義であるが故に
論議の余地なさをあからさまにしている。


 中で働く人は、「あれこれ論じているうちに、もし何かあったらどうする!」という
世間の強迫に対抗できない事態になっているのだろう。


 処遇意見よりも児童福祉法の条文が頻繁に飛び交う児相など、かつて一度もなかった
姿である。これまで児相で繰り返されてきた変化に比べて、今回の変化が根が深くたち
が悪いと思う要因がここにある。


 法を掲げて果敢に実行する、実のところこういった仕事の仕方はそれほど習熟度が求
められるものではない。そして関わった親子の未来に関しては、霧の中のまま次のケー
スに向かわなければならない毎日になっている。


 長年働いてきた人にとって以前と比べると、充実感は少なく疲労感の大きい仕事にな
ってきていることだろう。


 かつては存在した、親からの「ありがとうございました」「おかげさまで」の感謝は
消え去った。

 このような日々では、異動希望のサイクルが短くなるのもやむを得ない。そして職員
の顔ぶれの変化の早い行政機関が、自己防衝的で内省に乏しくなるのは今更言うまでも
ない。

 気がついたら、三年が限度とか、貧乏くじなどと噂される職場になっていたりするの
かもしれない。


 虐待ブームで近づいてきた人たちが、ぼつぼつ離れ始めているのは結構なことである。

 虐待の噂に騒いで、親から隔離するところまでにしか関心の持続しない正義漢が飽き
るのは当たり前で、それをどうこう言っても仕方がない。

 だが現実はやっと、親子分離の後どうするかの議論が切実になってきたところだと思う。

 家族再統合など、まだお題目にすぎない状況だろう。


 長く児相に関わってきた人なら虐待ケースでなくても、「施設措置した子を家庭に戻
したら元の黙阿弥…」、こんな経験は既にあっただろう。


 そこで、「あの家庭では仕方がない、あんな親ではどうしようもない…」とつぶやい
た記憶のある人も多いはずだ。


 児童虐待問題の展開は同じ図式である。だからこれは新たに始まったものなどではな
い。児相の業務パターンの繰り返ししである。


 だから今、児相に、いや私たちの社会に、何をするのかが問われている。      
nice!(217)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

nice! 217

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0