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「言葉の力」 内田樹 神戸女学院大学 (『教師のチカラ』日本標準より) [読書記録 教育]

今回は、『教師のチカラ』誌より、内田樹さんの
「言葉の力」を紹介します。



『教師のチカラ』は季刊の教育雑誌です。




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☆「言葉の力」 内田樹 神戸女学院大学 『教師のチカラ』より

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 もはや旧聞に属するが、数年前文科省が「ゆとり教育」の看板をおろしたときに、それ
に代わって「青葉のカ」を指導者の基本理念に置き換える決定を下したことがある。


 直前の国際学力調査で、「学習や職業に対して無気力な子ども」が増えつつあることを
指摘されたことを受けての政策転換である。


 論理的思考力や表現力が足りないから、これを選択的に涵養しなければならないという
文科省のねらいはわからないではない。


 だが、果たしてこのような政策を起案している当の官僚たちや政府委員たちの「言葉の
力」は適切に機能しているのかどうか、それがひどく不安になったことを覚えている。


 というのは、同時期に朝日新聞が「言葉のチカラ」についての奇妙なキャンペーンを展
開したからである。そこにはこんなコピーが使われていた。



「音楽は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラ
 を。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」



 私はこれを駅貼りポスターで一読したときに肌に粟を生じた。


 このようなコピーを平然と書く人間と、それを「気持ちが悪い」ということを感じない
で天下に告知するマスメディアの人間たちの「言葉の力」の衰えに恐怖に近いものを感じ
たからである。


 この短い文のうちには、言葉についてのつよいイデオロギー的な予断が含まれている。


 それは「言葉は道具だ」という言語観である。


 まず主体がいる。


 言語が発される以前にすでに言語運用の主体が権利上存在する。


 その主体には、言語以前にすでに感情があり、他者への害意があり、権力意志がある。


 言語は、その主体の「すでに内在する感情」や「他者への害意」を現勢化するヴイーク
ルにすぎない。


 そして、言葉が「ときに無力である」という言い方から推論するに、言語の力はどうや
らそれがもたらす現実変成の成果によって考量されるようである。


 発語者の意図のとおりに現実を変える言葉は「有力」であり、そうでない言葉は「無力」
である。



 何よりコピーライターがここで「力」ではなく「チカラ」というカタカナ表記をあえて
選んだことに私はむしろ興味を惹かれた(本稿が寄稿されている媒体も「チカラ」をカタ
カナ表記しているが、そこには共通する選好があるのかも知れない)。



 コピーライターはたぶん学習指導要領が用いる「論理的思考力」とか「表現力」とかい
うときの「力」では弱いと思ったのだろう。


 そういう「力」はふつう潜勢的なもの、内在する資質について用いられる。


 だが、「チカラ」はそうではない。


 それは現勢化したもの、外にかたちを表したもの、その効果や価値を数値的に考慮し、
別の「チカラ」と強弱や優劣を比較できるものである。たぶんそういう理解でよいと思う。


 「コノテーション」(言外の含意)をつよく指示する意図がなければ人間は表記を変え
ない。


 だが、人間のもつさまざまな「力」は、必ずしも外形的・数値的に考量できる「チカラ」
ばかりではない。


 むしろ、表に出ることなく、潜勢態のまま、発現される機会を待っている「力」の方が
ずっと本質的なもののように私には思われる。


 たとえば「胆力」というのは、つよいストレスに遭遇したとき、その危地を生き延びる
上で死活的に重要な資質だが、それは危機的状況にあっても「ふだんと変わらぬ悠揚迫ら
ぬ構え」をとることができるという仕方で発現される。


 つまり、外形的に何も変わらない、何も徴候化しないということが胆力の手柄なのであ
る。


 だから、「チカラ」をもっぱら外形的な数値化できる成果や達成によって計測すること
を望む人の眼に「胆力」はたぶん見えない。


 当然ながら、彼らは「胆力を練るための教育プロセス」というようなものについては考
えない。そのようなものがありうるということさえ考えない。



 「生命力」も同じである。


 「生きる力」とは平たく言ってしまえば「何でも食える」「どこでも寝られる」「誰とで
も友達になれる」というベーシックな三極の能力にほぼ尽くされる。


 要するに、与えられた場に適応し、手持ちの有限のリソースを最大限活用する能力であ
る。



 無人島に漂着するとか、最前線に送られるとか、ぎりぎりの環境を生き延びるためには
必須のものだが、現代の学校教育には、そのような能力を育てるための体系的プログラム
は存在しない。




 「学力」も同じである。



 ほとんどの人はこれを「成績」と同義語で、点数化し、優劣を比較できるものと思って
いる。


 けれども、学力とは「学ぶ力」のことである。


 それはたまたま外形的に成績や評価として表示されることもあるが本来はかたちを持た
ないものだ。


 というのは、「学ぶ力」とは「自分の無知や非力を自覚できること」、「自分が学ぶべき
ことは何かを先駆的に知ること」、「自分を教え導くはずの人(メンター)を探り当てるこ
とができること」といった一連の能力のことだからだ。


 これらの力は成果や達成では示されない。


 学ぶ力は「欠性態」としてのみ存在する。


 何かが欠けているという自覚の強度のことを「学ぶ力」と呼ぶからである。

 「おのれの未熟の自覚」、「ある種の知識や技能についての欠落感」、「師に承認された
いという欲望」といったものは存在するとは別の仕方で私たちの生き方に深い影響を及ぼす
のである。


 「学ぶ力」は欠性的にしか存在しない。


 だが、それを励起し、支援し、開発するための実践的プログラムはもちろん存在する。


 経験を積んだ教師はそのことを知っている。


 悪い方の例だけを挙げるが、例えば「成績が悪いと社会下層に格付けされる」という恐
怖心は学習の動機づけとして間違いなく有用である。


 この「恐怖心」は実際には「未来において自分が失うかもしれないものについての欠落
感の先取り」という複雑な心理操作を子どもに要求している。


 そして、経験が教えるのは、恐怖心の強い子ともほど高い確率で「ガリ勉」になるとい
うことである。


 この子どもの「学ぶ力」の中核にあるのは「恐怖心」である。


 「先取りされた喪失感」もまたある種の欠性態であることに違いはない。ただ、それは
同学齢集団内の競争で相対優位をめざす以上の目標を持たない。


 だから、「恐怖心の強い子ども」は自分の成績を向上させるのと同じ努力を(場合によ
ってはそれ以上の努力を)競争相手の戌槙を下げるためにも注ぐことになる。


 私はそのような努力を「学ぶ力」とは呼びたくない。



 「言葉の力」という本題に戻る。


 私が長い迂回を通じて言いたかったことはもうだいたいおわかりいただけたと思う。



 私が言いたいのは、人間的な意味での「力」は、何を達成したか、どのような成果を上
げたか、どのような利益をもたらしたかというような実定的基準によっては考量されない
ということである。



 「言葉の力」も同じである。「言葉の力」はそれが達成した成果やそれが発語者にもた
らした利益によって計測されるのではない。


 そうではなくて、「言葉の力」とは、私たちが現にそれを用いて自分の思考や感情を述
べているときの言葉の不正確さ、不適切さを悲しむ能力のことを言うのである。


 言葉がつねに過剰であるか不足であるかして、どうしても「自分が言いたいこと」に届
かないことに苦しむ能力を言うのである。
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