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「これで安心医療体操」足助次朗 足助 照子 太陽出版 2003年 ③(最終) / 「宮沢賢治の亜流」 宮本常一   『宮沢賢治 修羅と救済』KAWADE夢ムック 2013年 より【再掲載 2014.2】 [読書記録 一般]

今回は、8月13日に続いて、わたしの教育ノートから、足助次朗さんの
「これで安心医療体操」3回目の紹介 最終です。





出版社の案内には、


「東洋医学が目的とする、大病を小病に変え、生命を完全燃焼させて自然安楽死に導く技
 法『足助式体操』を紹介。内臓の働きを高め、ストレスを解消し、活力が湧いてくる…
 寝ながらできる、医者が学ぶべき歴史的治療法。」



とあります。





やってみたいと思った運動は…

・「足を浮かす  腹筋を鍛える」


・「足首を持って膝を脇の下に付ける」


・「上体を反らす運動」


・「足をもって歩く運動」



もう一つ、再掲載となりますが、宮本常一さんの
「宮沢賢治の亜流」を載せます。
わたしは、ようやくこの頃、宮沢賢治さんの作品のよさに気づくようになりました。



昨日、浜松市中区の最高気温は39.7℃とのことでした。
わたしの住む区はそれより少し低いようですが、かなり暑く感じました。
サツマイモの毛をむしったり、洗ったりの作業をしましたが、
疲れたのか、よくうとうとしてしまいました。
今日も暑いようです。無理せず過ごします。




☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」




ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。

浜松ジオラマファクトリー









☆「これで安心医療体操」足助次朗 足助 照子 太陽出版 2003年 ③(最終)

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◇基本となる運動(2)

5 足を浮かす  腹筋を鍛える

  仰向け両手下げ

  → ○ 両足そろえて5-10° 無理なく

○ 片方ずつ行うと負担かからず

○ 腰痛、腰の固い人は行わない

 



6 寝たまま走る運動  

 脳の癒着をはがす 筋肉の活動を促す 便秘改善 腰痛予防

 仰向け両膝立て

→ 左手で左足指をつかみ 右手を左膝に当て胸に引き寄せる


  → 勢いよく右足を伸ばすと同時に膝が曲がらないように右手で左膝を押さえながら
   左足を伸ばして頭の方に引き寄せる


  → 左右を変更して行う


 ※ 膝が伸びきらない人は膝に当てた手をゆっくりと押しながら足の後ろの筋肉を伸ば
  しきる

 



7 足首を持って膝を脇の下に付ける  

  腎の融和


  仰向け両手で両足の裏を持つ

  → 両足を曲げる 蟹のように


→ 膝頭を両脇の下に付くように曲げる

 



8 足を上げる運動  

  大腸部の軟化 S次結腸の改善


  仰向け
 
   → 左足をできるだけ上に上げる  

     20回 → 100回と…

 



9 腸の運動(快便予備運動)  

  腸の働きを良くする


  仰向け両膝を立てて左右に90°開く 手は少しななめバンザイ

   
   → 片方の膝を内側に倒してから戻す 


   → もう片方の膝を内側にして戻す

 



10 快痛快便運動(膝の上下運動)  

  腸の働きを良くする 肩胛骨の硬化防止


  正座したまま上体だけ仰向けに倒す 両手はバンザイ
  
    → この姿勢で両膝を上げたり下げたりする 

 



11 お尻たたき  

  便秘の改善


  うつぶせ寝 

  → 左足のかかとで左腰 右足のかかとで右腰を交互にたたく
 

   → うつぶせ 右足で左臀部 左足で右臀部を足を交差させてたたく

 



12 上体を反らす運動  

  胸椎・頸椎の矯正


  うつぶせ

  → 両手の平を床に着ける
 

   → 両手を床に着けたまま上体を反らし徐々に手を腰に近づけていく


   → その姿勢のまま背中と頭を2,3回後ろに振る

 



13 横向き足上げ  

  股関節の動きを良くする 


  右半身下に横向き寝 

  → 左足をできるだけ頭の方に向かって近づける
 

   → 反対も

 



14 横向きで前後に足を振る  

  内臓の働きを良くする 


  横向き寝 上側の肘を胸につける
  
   → 上側の手を曲げ足の甲をつかみ後ろに曲げ反らす

 



15 足をもって歩く運動  

 全身の血行をよくする 


















☆「宮沢賢治の亜流」 宮本常一   『宮沢賢治 修羅と救済』KAWADE夢ムック 2013年 より【再掲載 2014.2】

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 宮沢賢治のアメニモマケズという詩はひどくすきで、終戦後「デクノボウ」という小さ
い同人誌を出していたことがある。



 いつの間にかしりすぼみになって消えていったのであるが、自分のことは勘定に入れな
いような仲間があつまって、いろいろの仕事をやってみたいと思っていた。



 自分のことだけ一所懸命になって生きることもいいだろうが、どこかの片隅で息をひそ
めて生きている人も少なくはない。


 そういう人たちといっしょに歩いていくことも大切なことではないかと思った。



 慈善とか恩恵というようなものではない。


 自分自身すらがたえず誰かに助けをもとめたい気持でいる。


 そういうものが集って肩を寄せあって生きていくことこそ、人が人を信頼する最初の段
階ではないかと思った。




 宮沢賢治の書物をよむようになったのはいつ頃であったかはっきりおぼえていないが、
昭和の初頃のことであっただろう。


 その不思議な表現力に心をひかれて詩を読み、童話をよみ、全集が出ると買いとって読
んだ。



 戦争の終ったあと、日本は荒れはてた感じであったが、野に生きている人びとの多くは
決して暗く絶望してはいなかった。


 アメニモマケズ生きているという感を深くしたのであった。


 そういう者が手をたずさえて前向きになって歩いてゆけば、そこに新しい天地がひらけ
て来るとも考えた。


 失望しない、また怒りもしない。


 そして自分の足でしっかり大地を踏みしめながら歩いてゆく。


 そういう歩き方をしようとする若者たちもまた少なくなかった。






 しかし昭和35年ごろから世の中の様子は大きくかわって来た。


 人びとが滔々として都心に集るようになり、工業生産が異常な発展をとげる日が来ると
素朴なロマンティシズムはいつの間にか影のうすいものになっていった。


 私自身すらが賢治の作品をよむこともなくなって20年という歳月を経て来ている。


 ただ、雨ニモマケズに見る素朴なヒロイズムとロマンティシズムにはまだ多分にひかれ
ている。



 ではどうして賢治的なものを忘れていったのだろうか。



 一つには自分自身を凝集させる力を多分に失っていったためである。

 周囲のことに対して気が散りやすくなり、また周囲に集っていた若い人も散っていった。

 夢を大切にすることよりも、食うことの方に力をそそぐようになったといってもいい。


 自己が自己を凝集し、主張し、自己の世界をきずきあげてゆくということと、デクノボ
ウとよばれてほめられもせず苦にもされない人として生きてゆくということは本来一つの
ものであるが、実は容易なことではない。


 これを少しでも容易なものにしようとすれば、同類が仲間をつくることである。


 人がおちつかなくなり、自分がおちつかなくなったといっても、まだ多くの同類はいる
ものである。


 そういう者が手をとりあい初心を失わないように生きていくということは不可能ではな
い。



 私に一人のすぐれた友がいる。



 高校を出て大学へゆきたかったが金がない。


 そこで東北のある農場に働いて入学資金をためて岩手大学の農学部に入った。


 そしてアルバイトをしながらそこを出たのだが、そのかたわらある山村に入って社会教
育活動などにたずさわった。


 大学を卒業して、東京の大学の大学院で勉強し、その後東北山村の定時制高校の教師に
なった。高校は小学校の教室を間借りしていた。


 彼はそこで30人ほどの生徒を相手に他の先生たちと教育にあたった。


 そしてその高校に学ぶ者をふやしていった。


 そうすることが、そこに住む人たちを仕合せにする道だと考えた。


 そしてやがて全日制にした。村人たちの視野も広くなった。



 そうした中にあって、村人の真の相談相手になるためにはどのような生きざまを人びと
に教え、また指し示すべきかを考えさせられた。


 そのことについて、今日までの日本の教育のあり方が正しいかどうかに疑問を持ち、伝
手をもとめてアメリカにわたった。



 一年ほどで帰って来ると言って出ていったのだが、もう三年になるけれどもまだ帰って
来ない。


 私は彼に第二の宮沢賢治を期待した。



 第二の賢治であるためにはもっと豊富な知識と将来への見通しがなければならぬ。


 デクノボウとよばれても、それが単なる愚直を意味することはゆるされない。


 しかしデクノボウは必要なのである。


 そのデクノボウは賢人であることを要求される。


 そしてデクノボウがどの地域にも一人や二人はいるようになることによって日本の地域
社会にも将来への方向と明るさが見出されようになるのではないかと思う。



 彼もそのうちアメリカから帰って来るだろう。



 私は勤めをやめて自由の身になった。


 もう一度デクノボウクラブを作ってみうかと思っている。              

                                 (民俗学者)
                 
                 (『ユリイカ』臨時増刊「宮沢賢治」1977・9月)

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