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谷昌恒さんはこんなことを⑩-「ひとむれ」第6集 谷昌恒 評論社 1991年(3) / 「元旦」 Nさん  『A高校1年学級便り』より 2014年1月【再掲載 2014.8】 [読書記録 教育]

貝原益軒
 「小児を育つるのは三分の飢えと寒とを存すべし」と古人いえり





今回は、8月12日に続いて、わたしの教育ノートから、
「谷昌恒さんはこんなことを」の紹介 10回目です。


「ひとむれ」第6集の要約の3回目。





出版社の案内には、


「今日の教育からはじき出されつまずいた少年たち―。厳しく温かい愛で彼らの傷ついた
 心に迫り変革しようと願う教育の姿を伝える、感動のエッセイ集。」


とあります。



今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「愛のゆえに願う 山口瞳『けっぱり先生』 桐朋学園・生江校長」

- 浪人生活の頃、この本を読み教職志望に変更しました。
  教員の良さを教えてくれた本です。


・「暖衣飽食は子供を損ねる  三分の肌と寒 五分では子供は飢えていじけてしまう」


・「流汗悟道」


・「一人を亡ぼすこと、是より大きな社会的損失はない。一人を生かすこと、これに勝る
国益はない。」





もう一つ、再掲載となりますが、古くからの友人NFさんの
「元旦」を載せます。
Fさんがその夏、届けてくれた、彼の学級便りの中の文章です。
同じように浪人して、同じ河合塾に通っていたわたしは、
せっかく合格したのになぜ浪人したのだろうと思っていました。
いかにも彼らしい真っ直ぐな文章でした。
彼もわたしも教員生活最後の一年を送っていますが、
この40年間を短く感じています。



どこにも出かけなかった今年の夏。
宿題をやるはずでしたが、妻と近場、静岡に出かけました。
浅間神社の広さに驚きました。
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駿府城発掘の大がかりな様子に感心しました。
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県庁別館、21F展望室からの眺めの良さを楽しみました。
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慌ただしく出かけて、慌ただしくかえってきましたが、楽しめました。






☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。

浜松ジオラマファクトリー





☆谷昌恒さんはこんなことを⑩-「ひとむれ」第6集 谷昌恒 評論社 1991年(3)

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◇障害者千人の父

 いわき福音協会創始者
   大河内一郎先生

 昭和27年9月30日




◇愛のゆえに願う
  
 山口瞳『けっぱり先生』

  桐朋学園・生江校長




◇全国児童福祉会議

 貝原益軒
 「小児を育つるのは三分の飢えと寒とを存すべし」と古人いえり



 小児に味良き食にあかしめ、きぬ多く着せて温め過ごすは大いに災いとなる

= 暖衣飽食は子供を損ねる

三分の肌と寒

五分では子供は飢えていじけてしまう




◇収穫を祝って

全国 小学校25000校 小学生1200万人

中学校10900校 中学生 570万人

高校 5400校 高校生 480万人


 流汗悟道






<1988年>

◇帰省を前にして  

 福田恵子『ビルマの花』




◇慈善家の資格

 明治31年1月「基督教新聞」753号 留岡幸助


「慈善家の資格」

1 無欲の人でなければならない


2 せっかちではダメだ 悠久持長

愛すること 信ずること 待つこと


  3 慈善事業の知識なくんばあるべからず


  4 是と見しことは勇往直進せよ
    

  5 物質を与えるに先立って自らの心を与えよ




◇人生読本

 留岡幸助
  明治24年 空知集治監に教誨師として赴任

 
 千人の囚人に
  「不倒翁(クルマ)になってほしい」

 ※ 一人を亡ぼすこと、是より大きな社会的損失はない。一人を生かすこと、これに勝
  る国益はない。


 明治34年 巣鴨に家庭学校 → 大正3年 北海道遠軽に分校設置


 明治8年 感化院 → 救護院


「不幸に負けた少年たち」大人への不信、反発


 不幸が不幸を生み次々と連鎖のように因となり果となっている














☆「元旦」 Nさん  『A高校1年学級便り』より 2014年1月【再掲載 2014.8】




 私の元旦の風景は毎年同じです。


 15歳の元旦、25歳の元旦、35歳の元旦がどうであったかと問われても特別な記憶
はありません。



 しかし、1980(昭和55)年、19歳の元旦の朝は忘れません。



 私は浪人生活を送っていました。


 その日の朝は夜明け前に家を出て自転車で高塚駅に向かい、乗客がまばらな下り電車に
乗りました。


 河合塾豊橋校に通う浪人生には大晦日も正月もありません。


 これだけ早く起きて行ったのに、私は前から2番目の席しか取れませんでした。


 「みんな本気だ」そう実感しました。


 隣には、現在市内の中学校で美術を教える友人が座りました。



 高校3年の冬、担任の先生との三者面談で私は浪人生活をすることを宣言しました。


 自分の家が貧しいと思っていた私は、私立大学は一切受験せず、国立大学一本で行くこ
とを伝えました。



「国立に落ちたらどうするんだ」



「浪人します」



「誰が決めた」



「僕が決めました」


 無学で大学受験のことなど何も分からない母は隣でただ黙って聞いているだけでした。


 家庭の経済的なこととか、私立大学の受験をどうするかなど私は一切親と相談したこと
はありませんでした。


 その年、ある地方の国立大学教育学部に合格した私は結局大学に入学辞退の葉書を送り、
母に30万円もらって河合塾の入学手続きに行きました。


 このことも私は一切誰にも相談せず勝手に進めていました。


 随分筋の通らない、誰にも理解されない滅茶苦茶な高校生でした。


 もっと素直に誰かに迷いを聞いてもらっていたら、いえ、もっと家族と将来について言
葉を交わしていたら、もう少し真っ直ぐな道があったはずです。


 自分で自分を持て余していた私ですが、自分で決めた以上は責任はすべて自分にある、
それだけは肝に銘じていました。


 こんな子供を持って両親は随分戸惑っていたと思います。


 高校受験の時も、両親は最後の最後に、担任の先生からの電話でわが子の受験希望校を
知ったという有様でした。両親は不安で心配でたまらなかったと思います。



 この年齢になって今やっとその時の両親の気持ちに思い至ることができました。


 一浪して受かった「ケンロクエンニサクラサク」という合格電報を読んだ父が、ひとり
で小さく万歳をしていた姿が頭をよぎります。


 私は人としてとても未熟でした。とても勝手な人間でした。



 皆さんの身の上には、これから様々なことが起こります。自分のことは自分で決めてい
くしかないのですが、その側らでいつも心配している人がいることを忘れないでほしいの
です。


 さあ、新しい年の始まりです。一緒に頑張りましょう!


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tyuuri

 今年は本当にどこにも出かけなかった夏季休業でした。家人が新型コロナを恐れて外に出たがらないのです。わずかに土・日に食材の買い物に出るだけ。ガソリン代がずいぶん浮きました。
by tyuuri (2020-08-22 04:41) 

ハマコウ

tyuuriさん ありがとうございます。
夏休みに遠くに出かけることは少ないのですが、今年は例年よりさらに出かけませんでした。わたしも土・日に妻と食料品を買いに行くくらいでした。おかげで数年前の台風で潰れたビニルハウスの片付けが進みました。
by ハマコウ (2020-08-22 05:43) 

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