SSブログ

キーワード「新津」⑩ [読書記録 郷土]

今回は、10月16日に続いて、わたしの教育ノートから、
キーワード「新津」10回目の紹介です。


次の三つの資料からの紹介です。
・「ふるさと新津」
・「静岡県の地名」
・「土のいろ」 新津村の地名伝説」(三影) (1)




今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「今の浜松の発達以前は,或(ひ)は此の付近が,東海道の宿駅として町並(み)の中
  心となっていたのではなかろうかといふ考え方」


・「浜津郷の位置は
   旧版『静岡県史』では米津町・田尻町・法枝町付近
  『大日本地名辞書』では浜松町・浅田・伊場付近」


・「寿福寺の住職某の作といふ『倉松由来和讃』は,此の間の消息を要領よく歌っている。」
- 寿福寺近くの畑では、農作業中、多くの土師器や須恵器が見つかります。
  土錘を拾ったときには驚きました。
DSC_0435.JPG



<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
13.JPG



☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」




ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。





<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。







☆キーワード「新津」⑩


◇「ふるさと新津」
 
□田尻湊  宗良親王 1338年 白羽湊に漂着

 位置がはっきりしない 田尻湊


 法枝町に「舟付」地名あり


 ◎ 田尻の東のはずれを流れる明神野川に掛かっている田尻橋より南に行ったところに
  深くえぐれたままの低地がある


 鈴木実「倉松考」


 昔の大天竜(広瀬川・馬込川)







◇「静岡県の地名」
 
□馬込川  

 名称 東海道渡河点の馬込村に由来

戦国期の渡場は船越一越村


 古くは天竜川の一部
天竜川との分離を決定づけたのは17世紀の彦助堤築造

それ以前は水量豊富で水運盛ん
 


□浜津郷  

 旧版「静岡県史」米津町・田尻町・法枝町付近


「大日本地名辞書」浜松町・浅田・伊場付近






◇「土のいろ」 新津村の地名伝説」(三影) (1)
        
 今日の新津村は,浜松市の西南郊外で,槇垣の多い農村であるが,今の浜松の発達以前
は,或(ひ)は此の付近が,東海道の宿駅として町並(み)の中心となっていたのではな
かろうかといふ考え方は,地形図を静かに眺めてもうなづき得るので,現在では,西から
来た東海道は浜松を貫く為北上し,更に南東にそれから東の方向をとって走ってゐる。


 城下町となったため,東海道をわざわざ北へ曲げて城下を通過せしめたものだろう。


 だから,北へ曲げない前を想像するならば,恐らく新津村付近に宿駅が出来て居ても,
何等差(し)支へはないことになる。



 伝説によると,今の新津村は,嘗(かつ)て堤千軒と呼ばれる程の賑(にぎ)やかな町並(み)をととのへ,その中に勘助町・土器町・新船町・松尾町・天神町といふ五つの町があって,大変繁盛であったといふことである。


 ところが,海寄りの町であるため屡々(しばしば)津浪の襲来を受け,殊に文亀二年一月二十日の夜
の,大風に由(よ)る津浪のため町全体が流失し,死者は三百五十人もあったといふことで,町
の人々は他の土地に移転し,その後七十余年の間,荒廃地となった。


 漸(ようや)く永禄十二年に,堀江の彦左衛門といふ人が永い年月をかけて開墾し,多くの人々
が入(り)込むやうになって,今日の倉松の聚(しゅう)落が新田開発村として成立した。


 それで後に,新津村の大部分が浜松城主の領地となってゐたのに,此の倉松だけは堀江
の殿様の領地となった。



当地の土器町は,今は土器塚という地名になってゐる。恐らく土器類を販売した家が多
かったので,土器町といふ名が出たのであらう。
 

 尚(なお)一説には,或(ひ)は土器を製造してゐた所といひ,或(ひ)は遠州灘を土器を積ん
で航海してゐた船が,大風のため難破して土器の塚を築いたであらうとともいひ,堤千軒
の町ではなくて,浪よけ堤が一千間も続いてゐたのであらうともいふ。



 堤千軒の町が東海道の宿駅として繁盛してゐた時,一つの川が町を流れてゐて,往来の
人を小舟で送り迎えをしてゐた。


 ここを小沢の渡(し)と呼び,今では倉松の一地名として小沢渡の名が残っている。


 船を待つ人を相手の小売店が渡(し)のほとりに出来,音羽といふ媼(ばば)が住んで居た。


 或時どこからともなく,一羽の鶴が一本の松をくはへて来り,音羽媼(ばば)さんの店の前で松
を振りながら川で洗った。


 舞ひ上(が)る時はその松を置いて去ったので,その川を松振川と名づけたといふこと
である。


 今では訛(なま)ってマツリ川といふ。しかしその川も,地形の変化によってなくなった。



 寿福寺の住職某の作といふ「倉松由来和讃」は,此の間の消息を要領よく歌っている。    



  そもそも遠つ海の国

敷智郡の南なる


  倉松村の由来をば

   ここに遙かに尋ねるに


  その上今の浜松を

引馬の宿と云ひしとき


  今この倉松の地は

  東海道の通路なり


  その時この地は町並の

  人家十町に及べりき


  海のほとりに近き故

  屡々うしほ押しかける


  文亀第二酉の秋

  八月二十日の夜のなかば


  はからず大潮来りてぞ

  町家すべて流しける


  寿福院の本尊の

  阿弥陀如来の本像は


  松にうつり飛びしかば

  阿弥陀松とぞ名付けける


  その時溺死の人数は

  三百五十余人なり


  残りし人々皆共に

     他国へ住居をうつしける


  その跡広き野となりて

  町の名のみぞ残りける


  勘助町に土器町

  天神前と呼びし跡


  鳥居の柱残りき

  中の宿に松尾町


  新船町のその間

  松尾明神の石垣と


  阿弥陀松より一町余

  東の方にあたりては


  浄光院のその跡に

  耳なし塚の松のみぞ


  その後永禄十二年

  堀江村の彦左衛門


  初めて此の地に来りてぞ

  天正年中に開発す


  近郷の人諸共に

  彦左衛門新田と呼びけるが


  つひに大沢高家より

  倉松村とぞ名づけらる





 今でも倉松に,新船という地名がある。これは昔の新船町の名残であらう。


nice!(139)  コメント(0) 
共通テーマ:学校

nice! 139

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。