キーワード「新津」⑲-「ふるさと新津」新津婦人学級 昭和57年3月5日発行(4) / 『灯し続けることば』大村はま 小学館 ⑥ 2004年【再掲載 2012.6】 [読書記録 郷土]
今回は、11月25日に続いて、わたしの教育ノートから、
キーワード「新津」19回目の紹介です。
新津婦人学級による「ふるさと新津」3回目の紹介です。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「道幅12尺(3.6m)当時6尺が基本」
- 道理で、少し入ると幅2mくらいの狭い道が多いはずです。
・「倉松は浜松藩ではない = 罪人,思想犯,政治犯が隠れやすい」
- 江戸時代、倉松は大沢藩であり、飛び地のようになっていました。
犯罪者が逃げやすい場所だったと言われています。
・「 明応7(1498)年8月大津波 この津浪で枯れた大松が所々に残る」
- この津波で新津地区は大きな被害を受け、住めなくなったと言われています。
そのときの名残でしょうか、少し強い雨が降ると、畑に土器片が浮いた状態になって
いるのを、しばしば見かけます。
もう一つ、再掲載となりますが、大村はまさんの
「灯し続けることば」⑥を載せます。
「上手にやりなさい」と言って上手になるなら、そんなに楽なことはありません。
「いじめはしないように」と言っていじめはなくなりません。
どのように言えばよいのか、教員として考える必要があります。
一昨日も、昨日に続いて午前中、充電式バリカン・ノコギリを使って生け垣を刈りました。
西側の一列をざっとやりました。わたしが刈って、妻が片付けをしてくれました。
農業用コンテナ10杯分くらいになり、
浜松の「みどりのリサイクル」収集所に持ち込みました。
少しすっきりしました。まだ上部に、前回手を抜いたための大きな枝が残っています。
また、内側も。来週、頑張ります。右腕に湿布、明日、楽になることを願っています。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆キーワード「新津」⑲-「ふるさと新津」新津婦人学級 昭和57年3月5日発行(4)
◇新津の人々の暮らし(2)
3.暮らしの発達
(1)電燈
浜松 - 明治28(1985)年10月石炭・火力発電 480燈
新津 - 大正3(1914)年4月22日より点燈
大正5・6年には一般家庭にも普及
一燈 5燭(6~7ワット)か10燭(12~13ワット)
それまでは石油ランプ
(2)電話
浜松 - 明治41(1908)年3月
新津 - 大正7(1918)年開通-織物家
昭和9(1934)年増楽局
昭和39(1964)年有線電話 新津地区1183戸
昭和45,46(1970)年頃から公社電話の普及
(3)道路
□県道竜洋舞阪線(掛舞線)
古くから大切 大正中期まで「篠原掛塚往還」
大正9(1920)年浜名郡道篠原掛塚線改良工事(~昭和4年)
道幅12尺(3.6m)当時6尺が基本
□浜松米津浜線
昭和4(1929)年高射砲第一連隊 射撃場が米津浜
新道を作った - 高射砲道路
□国道一号浜松バイパス
昭和44(1969)年
(4)乗合自動車
大正12(1923)年浜松市内に乗合自動車
新津地区 昭和初 山内蒙斎医院までの「野崎行き」
昭和5・6年 「倉松行き」
夏の間だけ「米津浜行き」
海水浴客でにぎわった
しかし,運賃が高く皆歩いていった
◇町名の由来
1.新橋町
沼田池~高塚池 蓮田
その間の瓢箪型に沼地がくびれたところに橋を架けた
それを里人が「新橋」と呼んだ
鎌倉時代より「新橋」郷
一部は野崎村
2.小沢渡町
高塚池 明治30年
「東西23丁,南北4丁,周囲1里18丁,面積56町2反」
(1丁は約109m)
昭和10年 海軍4発飛行艇が不時着
※ 町の北側に小さな沢が多かったところから「小さな沢を渡る」
3.米津町
「遠江風土記伝」内山真龍
米津に漁猟場
餘祢津(湊=港)舟溜まり
「米=砂。津は船出入り物質集積するところ」
= 砂浜に囲まれている港 加藤鎮毅
土地の人は米の集積場 戦国末期より
4.倉松町
堀江藩 大沢家 旗本「高家」
吉良家と同じ
明治時代 華族
倉松の庄屋
名主代官 苗字帯刀が許され 年貢を取り立て納めた
年貢米を入れる百俵倉が松林の中にあった → 倉松
※ 倉松 浜松藩ではない
= 罪人,思想犯,政治犯が隠れやすい
・井上藩の賄役 大原要之進の話
・上杉の倉松十番斬りの話
鎌倉期 北野神社文書 「鞍松」郷 蔵松も
「永禄12(1569)年大沢高家(基胤)の身寄りの話である。堀江村の彦右衛門が一
族と共に,そのころ大津波により廃村同様になっていた倉松に移り住んだ。」
↓
※ 下位彦右衛門が土地開発 しばらくは「彦右衛門新田」
↓
昔の名前通り公式に大沢高家より「倉松村」
『下位家過去帳』
「正徳6(1716)年下位彦兵衛,茂右衛門が南海沿芝地を切り開き,個々に新田を
開発す」
彦右衛門から150年後
[新田開発]
親村の倉松 - 内方平野面
子村 倉松新田 海岸方向に発達して漁業化
浜蔵新田,野分新田,沖新田,沖新新田
本田から新田が派生 - 密接な関係
<山村,中村,水野,下位>姓 親戚関係
|
◎慶応元(1685)年 村入用帳
「6日山崎渡船新居宿渡船…」
渡海のため助船を供出
5.堤町
最初の防波堤が築かれたところ
堤千軒 ~ 千間の堤
延宝8(1660)年 家22軒,村高24石
明応7(1498)年8月大津波
※ この津浪で枯れた大松が所々に残る
- 一直線・昔の地図
一昔前までは殆どの屋敷が1m程の土手に囲まれ竹やぶに覆われていた
= 天竜川の洪水,地震津波に備えて
6.田尻町
田の尻
現在3か所に分断 = 馬込川が天竜本流だった頃の地形の複雑性
7.法枝町
3か所に分断
法枝
法 = 仏法 → 仏教が栄えたところか?
8.卸本町
従業員に募集
☆『灯し続けることば』大村はま 小学館 ⑥ 2004年【再掲載 2012.6】
◇「裾を持ちなさい」
子どものころ、私たちは夏には浴衣を着て寝ました。
朝、その浴衣をそのままにしておいてはいけません。
畳んで置いておくのですが、私はいくらやってもきちんと畳めませんでした。
「もう少しきちんとしなさい」
と言われないように、四苦八苦していたんです。
でも、どうやってもうまくいかなかったときに、通りがかった母が、一言
「裾を持ちなさい」
と声をかけてくれました。
浴衣には両脇にわき縫いというのがあります。
そこの裾を持ってから肩のほうを持つと、ぴ-んと長方形になります。
裾を持たずに上だけ持っても、だらしなく斜めになるだけです。
母のこの一言で、たちまち私は、浴衣をきれいにきちんと畳めるようになりました。
教師になって、私は子どもたちに 「ああしなさい、こうしなさい」という立場になり
ました。
そのとき、私は
「きちんと畳みなさい」
と言うのではなく、
「裾を持ちなさい」
と言える教師でありたいと思っていました。
「姿勢をよくしなさい」
「よく読みなさい」
と言うのではなくて、自然にそうなっていくようにするのです。
姿勢をよくしなければならないのなら、自然にそうなるような一言をかけたい。
「きちんと畳みなさい」
は、棘のあるような、人を責めるような言い方ですし、では、どうすればいいのと言いた
くなります。
でも
「裾を持ちなさい」
と言われたら、誰だって裾ぐらい持てますし、そして確実にきれいにきちんと畳めます。
小言でなく、具体的で必ず成功できることを適切に指示できてこそ、教師ではないかな
と思いつつ暮らしてきました。
キーワード「新津」19回目の紹介です。
新津婦人学級による「ふるさと新津」3回目の紹介です。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「道幅12尺(3.6m)当時6尺が基本」
- 道理で、少し入ると幅2mくらいの狭い道が多いはずです。
・「倉松は浜松藩ではない = 罪人,思想犯,政治犯が隠れやすい」
- 江戸時代、倉松は大沢藩であり、飛び地のようになっていました。
犯罪者が逃げやすい場所だったと言われています。
・「 明応7(1498)年8月大津波 この津浪で枯れた大松が所々に残る」
- この津波で新津地区は大きな被害を受け、住めなくなったと言われています。
そのときの名残でしょうか、少し強い雨が降ると、畑に土器片が浮いた状態になって
いるのを、しばしば見かけます。
もう一つ、再掲載となりますが、大村はまさんの
「灯し続けることば」⑥を載せます。
「上手にやりなさい」と言って上手になるなら、そんなに楽なことはありません。
「いじめはしないように」と言っていじめはなくなりません。
どのように言えばよいのか、教員として考える必要があります。
一昨日も、昨日に続いて午前中、充電式バリカン・ノコギリを使って生け垣を刈りました。
西側の一列をざっとやりました。わたしが刈って、妻が片付けをしてくれました。
農業用コンテナ10杯分くらいになり、
浜松の「みどりのリサイクル」収集所に持ち込みました。
少しすっきりしました。まだ上部に、前回手を抜いたための大きな枝が残っています。
また、内側も。来週、頑張ります。右腕に湿布、明日、楽になることを願っています。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆キーワード「新津」⑲-「ふるさと新津」新津婦人学級 昭和57年3月5日発行(4)
◇新津の人々の暮らし(2)
3.暮らしの発達
(1)電燈
浜松 - 明治28(1985)年10月石炭・火力発電 480燈
新津 - 大正3(1914)年4月22日より点燈
大正5・6年には一般家庭にも普及
一燈 5燭(6~7ワット)か10燭(12~13ワット)
それまでは石油ランプ
(2)電話
浜松 - 明治41(1908)年3月
新津 - 大正7(1918)年開通-織物家
昭和9(1934)年増楽局
昭和39(1964)年有線電話 新津地区1183戸
昭和45,46(1970)年頃から公社電話の普及
(3)道路
□県道竜洋舞阪線(掛舞線)
古くから大切 大正中期まで「篠原掛塚往還」
大正9(1920)年浜名郡道篠原掛塚線改良工事(~昭和4年)
道幅12尺(3.6m)当時6尺が基本
□浜松米津浜線
昭和4(1929)年高射砲第一連隊 射撃場が米津浜
新道を作った - 高射砲道路
□国道一号浜松バイパス
昭和44(1969)年
(4)乗合自動車
大正12(1923)年浜松市内に乗合自動車
新津地区 昭和初 山内蒙斎医院までの「野崎行き」
昭和5・6年 「倉松行き」
夏の間だけ「米津浜行き」
海水浴客でにぎわった
しかし,運賃が高く皆歩いていった
◇町名の由来
1.新橋町
沼田池~高塚池 蓮田
その間の瓢箪型に沼地がくびれたところに橋を架けた
それを里人が「新橋」と呼んだ
鎌倉時代より「新橋」郷
一部は野崎村
2.小沢渡町
高塚池 明治30年
「東西23丁,南北4丁,周囲1里18丁,面積56町2反」
(1丁は約109m)
昭和10年 海軍4発飛行艇が不時着
※ 町の北側に小さな沢が多かったところから「小さな沢を渡る」
3.米津町
「遠江風土記伝」内山真龍
米津に漁猟場
餘祢津(湊=港)舟溜まり
「米=砂。津は船出入り物質集積するところ」
= 砂浜に囲まれている港 加藤鎮毅
土地の人は米の集積場 戦国末期より
4.倉松町
堀江藩 大沢家 旗本「高家」
吉良家と同じ
明治時代 華族
倉松の庄屋
名主代官 苗字帯刀が許され 年貢を取り立て納めた
年貢米を入れる百俵倉が松林の中にあった → 倉松
※ 倉松 浜松藩ではない
= 罪人,思想犯,政治犯が隠れやすい
・井上藩の賄役 大原要之進の話
・上杉の倉松十番斬りの話
鎌倉期 北野神社文書 「鞍松」郷 蔵松も
「永禄12(1569)年大沢高家(基胤)の身寄りの話である。堀江村の彦右衛門が一
族と共に,そのころ大津波により廃村同様になっていた倉松に移り住んだ。」
↓
※ 下位彦右衛門が土地開発 しばらくは「彦右衛門新田」
↓
昔の名前通り公式に大沢高家より「倉松村」
『下位家過去帳』
「正徳6(1716)年下位彦兵衛,茂右衛門が南海沿芝地を切り開き,個々に新田を
開発す」
彦右衛門から150年後
[新田開発]
親村の倉松 - 内方平野面
子村 倉松新田 海岸方向に発達して漁業化
浜蔵新田,野分新田,沖新田,沖新新田
本田から新田が派生 - 密接な関係
<山村,中村,水野,下位>姓 親戚関係
|
◎慶応元(1685)年 村入用帳
「6日山崎渡船新居宿渡船…」
渡海のため助船を供出
5.堤町
最初の防波堤が築かれたところ
堤千軒 ~ 千間の堤
延宝8(1660)年 家22軒,村高24石
明応7(1498)年8月大津波
※ この津浪で枯れた大松が所々に残る
- 一直線・昔の地図
一昔前までは殆どの屋敷が1m程の土手に囲まれ竹やぶに覆われていた
= 天竜川の洪水,地震津波に備えて
6.田尻町
田の尻
現在3か所に分断 = 馬込川が天竜本流だった頃の地形の複雑性
7.法枝町
3か所に分断
法枝
法 = 仏法 → 仏教が栄えたところか?
8.卸本町
従業員に募集
☆『灯し続けることば』大村はま 小学館 ⑥ 2004年【再掲載 2012.6】
◇「裾を持ちなさい」
子どものころ、私たちは夏には浴衣を着て寝ました。
朝、その浴衣をそのままにしておいてはいけません。
畳んで置いておくのですが、私はいくらやってもきちんと畳めませんでした。
「もう少しきちんとしなさい」
と言われないように、四苦八苦していたんです。
でも、どうやってもうまくいかなかったときに、通りがかった母が、一言
「裾を持ちなさい」
と声をかけてくれました。
浴衣には両脇にわき縫いというのがあります。
そこの裾を持ってから肩のほうを持つと、ぴ-んと長方形になります。
裾を持たずに上だけ持っても、だらしなく斜めになるだけです。
母のこの一言で、たちまち私は、浴衣をきれいにきちんと畳めるようになりました。
教師になって、私は子どもたちに 「ああしなさい、こうしなさい」という立場になり
ました。
そのとき、私は
「きちんと畳みなさい」
と言うのではなく、
「裾を持ちなさい」
と言える教師でありたいと思っていました。
「姿勢をよくしなさい」
「よく読みなさい」
と言うのではなくて、自然にそうなっていくようにするのです。
姿勢をよくしなければならないのなら、自然にそうなるような一言をかけたい。
「きちんと畳みなさい」
は、棘のあるような、人を責めるような言い方ですし、では、どうすればいいのと言いた
くなります。
でも
「裾を持ちなさい」
と言われたら、誰だって裾ぐらい持てますし、そして確実にきれいにきちんと畳めます。
小言でなく、具体的で必ず成功できることを適切に指示できてこそ、教師ではないかな
と思いつつ暮らしてきました。
コメント 0