戸田唯巳さんはこんなことを ⑦(最終) /「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版 2001年 ②【再掲載 2011.10】 [読書記録 教育]
今回は、2月13日に続いて、わたしの「教育ノート(要約)」から
「戸田唯巳さんはこんなことを」の紹介 7回目 最終です。
戸田唯巳さんの多数の御著書から、わたしは、多くのことを教わりました。
今回は、『お母さんと先生のつきあい方』(2)の紹介です。
強く印象に残った言葉は…
・「猿モ木カラ落チル。シカシ,コノ猿ハ木カラ落チスギル。」
- 覚えて、つかいたい言葉です。
・「『先生,踏ん張ってください』 = 親がいい先生を創る」
・「過保護 - 当たり前だと思うところに成功はない」
・「信頼感を得るために できるかできないか → しようとするかしないか」
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆戸田唯巳さんはこんなことを ⑦(最終)
◇「お母さんと先生のつきあい方」教育資料出版会(2)
□無くなった百円玉
無くなった百円玉
ボクの百円玉がない
学校へ行かない
事はすっきりした
疑いは晴れたが
… 「その溝を埋めるのに半年もかかった」
□コノ猿ハ木カラ落チスギル
ある先生が失敗したときに
「猿モ木カラ落チル。シカシ,コノ猿ハ木カラ落チスギル。」
↓
◎ 信頼感を強いものへ
□甘えのあった先生
新幹線であったお母さん … 自分の著書を
いい先生だと思ったのに
くさっていた
先生,踏ん張ってください = 親がいい先生を創る
離れることの無かった仲良し
□どうも分からない
工事現場のお父さん
先生にいう時足が震えた
盆栽を壊した - 謝れない
↓
◎ 六日後にあやまる → 「えらかったぞ」
子供も同じようなことをした
→ しかしけろりとしている
そういう子が増えてきた
→ 昔の子はしんまで応えたのに!
∥
※ 過保護
※ 当たり前だと思うところに成功はない
□胸のつかえが下りた
思わぬところで おねえちゃんはいいな
子供の顔の浮かぶ先生に
□後味の悪い一年だった
占い師 4月当初 注文・批判・責め → 八卦は冷淡
アバタもエクボ
→ エクボもアバタ
占い師たちの占いは一年先が見通せないほど頼りのないものだった
□泣き寝入りはするまいぞ 学校へ
行きたくない日
嫌な順位の表記
□先生がつらそうな顔をした
先生がつらがった 勉強ができないこと
~ 信頼感 に
できるかできないか → しようとするかしないか
努力することを覚えた
□分かってくれないお母さん
文庫本が縁になって
中勘助「銀の匙」
塾はしんどい
手強いお母さん
□話して良かった
何かかげりが → かげりの元は?
□戸田唯巳
1919生 兵庫師範卒 1980西宮市立大社小学校長退職
著書多数
『学級という仲間』『綴り方と教師』(新評論)
『学校と家庭の間』『作文=どのように書かせるか』
『子どもの求めているもの』『こんな一言が子どもをダメにする』
(明治図書)
『ダメな子はいない』『あせらないでお母さん』(雷鳥社)
『子どもの目子どもの芽』「怒らないで聴いて」(教育資料出版界)
☆「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版 ② 2001年【再掲載 2011.10】
<出版社の案内>
戦前から高度成長期にかけて、日本じゅうの村という村、島という島を歩き、そこに生き
る人びとの生活を記録した宮本常一は、人をとろかすような笑顔と該博な知識をもって地
域振興策を説き、人びとに誇りと勇気を与えつづけた。宮本が残した厖大な資料をもとに、
第一級のノンフィクション作家である著者が日本各地を取材、そのまなざしの行方を追い、
いまこそ求められている宮本的「経世済民」思想と行動の全容を綴る。読者に深い感銘を
与えた大宅賞受賞作『旅する巨人』の続編作品。
「昭和日本」の様々な場所を自らの足で歩いた「旅する巨人」宮本常一。司馬遼太郎ら知
の巨人たちが敬愛したその思いとまなざしを、克明な取材をもとに読み解く。NHK教育
テレビ「人間講座・宮本常一が見た日本」を単行本化。
◇海から見た日本
□梶田富五郎の人生
昭和20年代 郵便局長が地域のナビゲーターだった
メシモライ = 相互扶助
浅藻に住み着く
~ 港ができるまで30年間かかった
□取材ノートの山
宮本の対馬調査に掛ける執念
□中世社会の残存
村落共同体の寄り合い(伊奈)-古文書
= アメリカ式民主主義への痛烈な批判(千尋藻)
400年前から続く寄り合い
「満山鈎」-厳原の満山善雄氏
□宮本学問の基礎は「芋」と「海人」
◇庶民へのアプローチ
□三州名倉
愛知県設楽郡設楽町奥三河郷土館 = 宮本学の標本
旧名倉村調査(昭和30~41)
昭和31.9.11 昭和35.5
「名倉談義」「名倉村・部落について」林業金融調査会
□宮本
「樹を見ろ、いかに大きな幹であっても枝葉がそれを支えている。その枝葉を忘れて幹を
論じてはいけない。その枝葉の中に大切なものがある。学問や研究はあくまで庶民や民
衆の土台に築き上げるものだ」
= 民俗誌 から 生活誌 への転換 = 宮本学の確立
沢田久夫氏『三州名倉-史的変遷篇』(昭和26年)
□「人文科学」と「訊問科学」
・常に固有名詞を使うこと
・調査には必ずお返しを
□名倉談義
相手の話が本当かどうかの判断基準
① 堕胎間引きの話
② どぶろくが出るかどうか
□宮本民俗学
「変わらない事への関心」
◇食糧確保の使命
□敗戦の頃
戦前と変わらず - 棒のように貫いている
□集団帰農列車
北海道開拓 昭和22.10.20大阪発-10.23札幌着
手塩地方へ300人を引率 幌延-問寒別に
□十津川と新十津川
明治22(1889)年8月の大豪雨により移住
□宮本にとってたった一度の「官」の旅が宮本に慚愧の涙を流させた
「棄民」の旅 → 済民の旅行脚へ
◇山河への憧憬
□十津川
「兵力の貯蔵地」
統一側に兵力 → 別天地を守った
免租地だった(明6まで)
□秘境へ
維新後
長年の「天皇」中世の功により全員士族に列せられた
□戦前の調査
「油屋旅館」(城戸)
<第一次世界大戦を境に庶民文化にある断層があった>
□峠を越えて
十津川崩れ 昭和29(1954)年
谷瀬の吊り橋 地元住民が38戸で800万円 「公」精神
◇農業のプロとして
□佐渡の道
初めては昭和33(1958)10月
□「宮本ワールド」の展示場
① 佐渡国小木民俗博物館
② 八珍柿
◎「人づくりができて道づくりができる。道づくりができて初めて産地づくりができる」
□宮本は我が国屈指の篤農家
◇離島振興にかける
□離島の慈父
『日本の離島』未来社
昭和28(1953)年7月離島振興法
「光と水」 = 電気と水道がスローガン
□田中角栄と宮本常一
昭和25(1950)年 国土総合開発法 田中角栄
田中角栄と宮本常一はコインの裏表
田中 まず都会と結べ = 中央と直結
宮本 離島自体からエネルギーを
昭和41(1966)年
『日本の離島』第2集
「…無駄遣いが多すぎる。家だけは立派になっているが生産の方は大して伸びていない。
家を改築する前にもっと再生産のための設備投資に本気になれないものか。これではい
つまでたっても島が本質的な力で本土に追いつく日はない。」
「…資本主義的な思想の恐ろしさというようなものを近頃しみじみ思う。しかも、それが
国民全体の一つの思想になりつつあるのではないか」
↓
昭和47(1972)年
『日本列島改造論』
◎ 辺境の村や島にひそむ土地の精霊たちを根絶する一種「革命的」な振る舞いであ
った
∥
田中角栄
息が詰まる程のコンプレックスで自分を呪縛し、日本の村々を支配してきた古い呪術 的神々を見殺しにすることに生涯を掛けた政治家だったとも言える
↓
◎昭和40年代後半宮本の旅は祖霊を失った人々を癒して歩く求道者めいた旅になる
◎「宮本先生は現代の一遍上人だった」
◇記録する精神
□司馬遼太郎の『街道をゆく』のヒントは宮本の『私の日本地図』
目線が高い ←→ 目線が低い
「戸田唯巳さんはこんなことを」の紹介 7回目 最終です。
戸田唯巳さんの多数の御著書から、わたしは、多くのことを教わりました。
今回は、『お母さんと先生のつきあい方』(2)の紹介です。
強く印象に残った言葉は…
・「猿モ木カラ落チル。シカシ,コノ猿ハ木カラ落チスギル。」
- 覚えて、つかいたい言葉です。
・「『先生,踏ん張ってください』 = 親がいい先生を創る」
・「過保護 - 当たり前だと思うところに成功はない」
・「信頼感を得るために できるかできないか → しようとするかしないか」
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆戸田唯巳さんはこんなことを ⑦(最終)
◇「お母さんと先生のつきあい方」教育資料出版会(2)
□無くなった百円玉
無くなった百円玉
ボクの百円玉がない
学校へ行かない
事はすっきりした
疑いは晴れたが
… 「その溝を埋めるのに半年もかかった」
□コノ猿ハ木カラ落チスギル
ある先生が失敗したときに
「猿モ木カラ落チル。シカシ,コノ猿ハ木カラ落チスギル。」
↓
◎ 信頼感を強いものへ
□甘えのあった先生
新幹線であったお母さん … 自分の著書を
いい先生だと思ったのに
くさっていた
先生,踏ん張ってください = 親がいい先生を創る
離れることの無かった仲良し
□どうも分からない
工事現場のお父さん
先生にいう時足が震えた
盆栽を壊した - 謝れない
↓
◎ 六日後にあやまる → 「えらかったぞ」
子供も同じようなことをした
→ しかしけろりとしている
そういう子が増えてきた
→ 昔の子はしんまで応えたのに!
∥
※ 過保護
※ 当たり前だと思うところに成功はない
□胸のつかえが下りた
思わぬところで おねえちゃんはいいな
子供の顔の浮かぶ先生に
□後味の悪い一年だった
占い師 4月当初 注文・批判・責め → 八卦は冷淡
アバタもエクボ
→ エクボもアバタ
占い師たちの占いは一年先が見通せないほど頼りのないものだった
□泣き寝入りはするまいぞ 学校へ
行きたくない日
嫌な順位の表記
□先生がつらそうな顔をした
先生がつらがった 勉強ができないこと
~ 信頼感 に
できるかできないか → しようとするかしないか
努力することを覚えた
□分かってくれないお母さん
文庫本が縁になって
中勘助「銀の匙」
塾はしんどい
手強いお母さん
□話して良かった
何かかげりが → かげりの元は?
□戸田唯巳
1919生 兵庫師範卒 1980西宮市立大社小学校長退職
著書多数
『学級という仲間』『綴り方と教師』(新評論)
『学校と家庭の間』『作文=どのように書かせるか』
『子どもの求めているもの』『こんな一言が子どもをダメにする』
(明治図書)
『ダメな子はいない』『あせらないでお母さん』(雷鳥社)
『子どもの目子どもの芽』「怒らないで聴いて」(教育資料出版界)
☆「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版 ② 2001年【再掲載 2011.10】
<出版社の案内>
戦前から高度成長期にかけて、日本じゅうの村という村、島という島を歩き、そこに生き
る人びとの生活を記録した宮本常一は、人をとろかすような笑顔と該博な知識をもって地
域振興策を説き、人びとに誇りと勇気を与えつづけた。宮本が残した厖大な資料をもとに、
第一級のノンフィクション作家である著者が日本各地を取材、そのまなざしの行方を追い、
いまこそ求められている宮本的「経世済民」思想と行動の全容を綴る。読者に深い感銘を
与えた大宅賞受賞作『旅する巨人』の続編作品。
「昭和日本」の様々な場所を自らの足で歩いた「旅する巨人」宮本常一。司馬遼太郎ら知
の巨人たちが敬愛したその思いとまなざしを、克明な取材をもとに読み解く。NHK教育
テレビ「人間講座・宮本常一が見た日本」を単行本化。
◇海から見た日本
□梶田富五郎の人生
昭和20年代 郵便局長が地域のナビゲーターだった
メシモライ = 相互扶助
浅藻に住み着く
~ 港ができるまで30年間かかった
□取材ノートの山
宮本の対馬調査に掛ける執念
□中世社会の残存
村落共同体の寄り合い(伊奈)-古文書
= アメリカ式民主主義への痛烈な批判(千尋藻)
400年前から続く寄り合い
「満山鈎」-厳原の満山善雄氏
□宮本学問の基礎は「芋」と「海人」
◇庶民へのアプローチ
□三州名倉
愛知県設楽郡設楽町奥三河郷土館 = 宮本学の標本
旧名倉村調査(昭和30~41)
昭和31.9.11 昭和35.5
「名倉談義」「名倉村・部落について」林業金融調査会
□宮本
「樹を見ろ、いかに大きな幹であっても枝葉がそれを支えている。その枝葉を忘れて幹を
論じてはいけない。その枝葉の中に大切なものがある。学問や研究はあくまで庶民や民
衆の土台に築き上げるものだ」
= 民俗誌 から 生活誌 への転換 = 宮本学の確立
沢田久夫氏『三州名倉-史的変遷篇』(昭和26年)
□「人文科学」と「訊問科学」
・常に固有名詞を使うこと
・調査には必ずお返しを
□名倉談義
相手の話が本当かどうかの判断基準
① 堕胎間引きの話
② どぶろくが出るかどうか
□宮本民俗学
「変わらない事への関心」
◇食糧確保の使命
□敗戦の頃
戦前と変わらず - 棒のように貫いている
□集団帰農列車
北海道開拓 昭和22.10.20大阪発-10.23札幌着
手塩地方へ300人を引率 幌延-問寒別に
□十津川と新十津川
明治22(1889)年8月の大豪雨により移住
□宮本にとってたった一度の「官」の旅が宮本に慚愧の涙を流させた
「棄民」の旅 → 済民の旅行脚へ
◇山河への憧憬
□十津川
「兵力の貯蔵地」
統一側に兵力 → 別天地を守った
免租地だった(明6まで)
□秘境へ
維新後
長年の「天皇」中世の功により全員士族に列せられた
□戦前の調査
「油屋旅館」(城戸)
<第一次世界大戦を境に庶民文化にある断層があった>
□峠を越えて
十津川崩れ 昭和29(1954)年
谷瀬の吊り橋 地元住民が38戸で800万円 「公」精神
◇農業のプロとして
□佐渡の道
初めては昭和33(1958)10月
□「宮本ワールド」の展示場
① 佐渡国小木民俗博物館
② 八珍柿
◎「人づくりができて道づくりができる。道づくりができて初めて産地づくりができる」
□宮本は我が国屈指の篤農家
◇離島振興にかける
□離島の慈父
『日本の離島』未来社
昭和28(1953)年7月離島振興法
「光と水」 = 電気と水道がスローガン
□田中角栄と宮本常一
昭和25(1950)年 国土総合開発法 田中角栄
田中角栄と宮本常一はコインの裏表
田中 まず都会と結べ = 中央と直結
宮本 離島自体からエネルギーを
昭和41(1966)年
『日本の離島』第2集
「…無駄遣いが多すぎる。家だけは立派になっているが生産の方は大して伸びていない。
家を改築する前にもっと再生産のための設備投資に本気になれないものか。これではい
つまでたっても島が本質的な力で本土に追いつく日はない。」
「…資本主義的な思想の恐ろしさというようなものを近頃しみじみ思う。しかも、それが
国民全体の一つの思想になりつつあるのではないか」
↓
昭和47(1972)年
『日本列島改造論』
◎ 辺境の村や島にひそむ土地の精霊たちを根絶する一種「革命的」な振る舞いであ
った
∥
田中角栄
息が詰まる程のコンプレックスで自分を呪縛し、日本の村々を支配してきた古い呪術 的神々を見殺しにすることに生涯を掛けた政治家だったとも言える
↓
◎昭和40年代後半宮本の旅は祖霊を失った人々を癒して歩く求道者めいた旅になる
◎「宮本先生は現代の一遍上人だった」
◇記録する精神
□司馬遼太郎の『街道をゆく』のヒントは宮本の『私の日本地図』
目線が高い ←→ 目線が低い
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