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ふえる一方の不登校をどうとらるか 「決断を次回送りにのばす悪癖の背景に」- 分かっていて動きのとれない、という心理- 伊藤友宣(神戸心療親子研究室・主宰) ③ /「一生に一度の学び」八ツ塚実 光雲社 1997年 ③(最終)【再掲載 2012.4】 [読書記録 教育]

今回は、5月 4日に続いて伊藤友宣さんの
「ふえる一方の不登校をどうとらえるか」3回目を紹介します。



出典、年度は不明ですが、
平成14、15年頃の月刊「少年育成」誌ではないかと思われます。


不登校について対策は進んでいるのですが、なかなかなくなりません。



「八ツ塚さんの口ぐせだった『登校拒否ははじめの三日が勝負」の意味は、見てくれと
 生地をいっしょくたにとらえて、『自分はあかん奴じゃ』と自分を決めつけておち込ま
 せてしまうな、ということだったのだろうと思います。」


「自分で自分をみくびらないようにしなければ。」

という八ツ塚実さんのことばが聞こえてきそうです。





もう一つ、再掲載となりますが、その 八ツ塚実さんの
「一生に一度の学び」③を載せます。
拙ブログでも何度も八ツ塚さんの本の要約を紹介してきましたが、
わたしが尊敬する方でたくさんのことを教わっています。




<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト







ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
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☆ふえる一方の不登校をどうとらるか 「決断を次回送りにのばす悪癖の背景に」- 分かっていて動きのとれない、という心理- 伊藤友宣(神戸心療親子研究室・主宰) ③
                           
◇不登校は足がかりのない沼の底

 自分の気持にぴったり来ない学校生活の明け暮れで、何がおもしろくないか、どこが耐
えられないのかについても、その思いをしやべり込んで聞いてくれる人もいなくて、まあ
いいや、まあいいやの曖昧さが滞積してしまう。


 心のもやもやが生理的不調にあらわれて、頭痛や腹痛を訴えたり、生活の乱れにあらわ
れて、夜っぴて起きたら朝起きられなかったりすると、親はおよそ見当違いの身体の病気
治療や道義の説得に走り、当人の心の混迷がひどくなる一方で、とうとう一日学校を休ん
でしまう。



 頭ではこれはやばいと半鐘を鳴らしているものの、心はゆるみきってその半鐘の昔も他
人事のような遠音にしか思えない。


 頭と心の乖離が、それまでの日々の習性ですっかり出来上ってしまっていて、さあ、休
みはじめるとなると、それはいけないことだと頭でとらえながらも、心がそれに伴って反
射的に文句なしに動く、ということがなくなっている。



 人間一般の常のことで、ほら、いつも書きなれている漢字を、これでよかったのかなと
眺めはじめると、おかしな気分になって、文字がまるでバラバラの線と点に解体した異様
なものに見えて困り切ってしまう。


 ちょっと不安な神経の状態の時は、そこからどんどん進行して、

<俺、ここでこうしているということは、どういう意味なんだ。これでいいなんて、誰が
 決めたこと?>

とまで自信のなさが意外な深さ広さにまで拡大する、なんてことがありますよね。



 不登校の心理は、それに似たものです。



 いつも決まりきったことをしていて、まあこれでよしという安心感が常であれば、それ
が日常のリズムになって迷うことなんかない。         


 それが、ふとうまくいかないことがあって残念さが尾をひくと、考えずに当り前のこと
としてやっている普段のすべてのことが、これでいいのかと気になりだして、流れがおか
しくなって、ますますタイミングのずれたことをやらかしてしまう。



 回りに見とがめられることをやってしまったという自責の念も、まるで遠くにいる自分
ではない自分が、他人事のように責めているという感覚。



 いわば不決断が当り前になって、そんな自分をとがめることも当り前になって、もうこ
んなことではずるずるだめになる一方だ、バカもいい加減に切りあげようとしきりに思う
のに、さあここという仕切りの時には、今簡単に仕切れる位ならばなぜ今まで何度も仕切
るべき時にチャンスを逃がしたのだ、ああ俺はだめだと悔恨がつのることに心がとらえら
れて、ああ今日もほらこんな風にだめなんだと、だめな動きのとれない自分を力無く見守
るばかりで、時機を失してしまう。そのあとでこんな風に、ほうれ、だめなんだと自分を
あざ笑う自分とつきあい慣れてしまう。



 分かっていて、動きのとれない、という心理が、いわゆる不登校の心のありようなので
すね。


 あせればあせる程、足がかりのない沼の底から抜け出せない、とでもいうべきでしょう
か。







◇ はじめの三日が勝負

 私より一つ年下なのに、先年急逝なさった広島の元中学教師の八ツ塚実先生が口ぐせに


「登校拒否ははじめの三日が勝負」とおっしゃっておられました。


 早く亡くなられたのが残念でたまらないのですが、これは、なる前にならせるな、とい
うことを言ってるのですね。


 はじめの三日って、三日休んだ状態では、決してまだ登校拒否だか不登校だかにはなっ
ていない、なる前になりそうだと察した時に芽をつんでおかないと、なってから引き上げ
るのは、回りも大変、当人も大変だぞ、といっているのですね。


 中学生の頃から、井上ひさしがよしとなったら夢中で出ている本を全部読破するとか、
スポーツはなんでも人なみ以上にこなせるとか、中学生として最優秀の部類に属する位の
加藤少年でも、なにもかも中途半端という中学生としての実績の、いい加減さを自分その
ものだと決めつけて、落ち込んでしまう。



 私に時々会わないと目の下に隈ができると少年自身がはからずとも言ったように、自分
のありようと、自分の本来の資質といったらよいか、つまり、状態と本質をちゃんと見分
けて、自分を整理し直して、本来の自分に対する誇りを持ち直すといったらよいか、それ
が悪い習性を自分のものにする前に、ちゃんと出来るような、話の相手がいるのだと思う
のです。


 状態と本質。言いかえれば、見てくれの姿と、もともとの生地と。


 八ツ塚さんの口ぐせだった「はじめの三日が勝負」 の意味は、見てくれと生地をいっ
しょくたにとらえて、「自分はあかん奴じゃ」と自分を決めつけておち込ませてしまう
な、ということだったのだろうと思います。






◇「だけど」の代りに 「だのに」   
  
 私は、「事を憎んで、人を憎まず」が、人間の本然の姿だ、と誰にも言い重ねています。


 状態と本質の違い。

 見てくれと生地の違い。

 今なしている事柄と、本来、心の根にあることの違い。みな同じことを指しています。


 頭でめぐらす理づめの考えと、第六感的にひらめく心の思いの違いでもあるのでしょう。


 私は先きに、登校拒否だか不登校だかは、個々の子どもの問題と見る以上に、世の中全
般の不用意な歪みのしわよせと見るべきではないかと述べました。


 戦後二十年たった頃、「もはや戦後とは言われない」とよく言われたものです。


 のに、一般の世の中の趨勢は、ずるずると決められたように効率的に流れるということ
のみをよしとして、基本から思い直すとか、本質論を開い直すとか、すべてを揺さぶり直
してみるということをしないで、経済面でも実に無自覚に調子づいて、発展の一途だと思
い込み、ついにバブルが崩壊したと嘆いてはなす術を知らない、という成り行きなのです
ね。



 学校はなぜあるのだ。


 なぜ子どもは行かなきゃならないのだ。


 勉強って、いったい何なのか。


 けんかやいじめがどうして無くすことができないか。


 なぜ友達とつきあわずに一人でいることがいけないことなのか。


 はては、なぜ生きているのか、など、根元的な問いに、大人達はなぜこんなに答えてくれないのか、などなどが分からない。


 分からないと言えば、ほんとになにもかもが分からない。


 どうしようもないや。どうでもいいさ。


 深く考える奴はバカだ。



 納得させることができる論理で原因から結果、結果から原因への理屈のすべてを説明し
てやろうといくら力んでも、納得させられそうもないから、大人は子どものそういう直裁
な問いかけには逃げたりごまかしたりとぼけて、そこにこだわる子は、よそ道にそれた子
だとして問題視するのが、子ども達には納得できないのですね。



「君はそういうけれども、世の中は実際こうこういうものなのだ」

という、″だけど″でつなぐ大人の物言いを、子どもは話にならないやと毛嫌いします。


 真剣に聞いてやって、

「うん、君の経験や考えでそう考えるのか。なる程なあ。よ-く分かるよ。分かるさ。の
 に、ねえ。だのにねえ、なのにだよ。世間はそういう考えとは実際ずいぶん違うことが、
 ねえ、君も感じているのだよなあ、なのに、君の考えは、今君の力説した通りなのだ」

という、″だのに″を使い通して、子どものマイナス発想を、知らず知らずのうちにプラ
ス発想へと転回させるよう、日々のカウンセリングに、いそしんでいる私です。



 不登校の多側面を、その二、三について、いくつかの事例を元に、もう少し、あと続けていこうと思います。
















☆「一生に一度の学び」八ツ塚実 光雲社 1997年 ③(最終)【再掲載 2012.4】

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◇教育の目的

□大人はもっと真剣に考えなくてはならない

「何のために勉強するのか」


「家庭は学びの場だ」




□教育の目的 = 「いのちの尊厳」を学ぶこと

あらゆる角度から広く深く解釈し身に付けて自分の生き方の根座にすべく学ぶ。是が教
育というものだ。



◎ どこでも、どんな内容の時でも「いのち」の香りが漂わなかったら教育ではない。







◇草取り

□「草取りに対するねばり強さ」

「上農は草を見ずして草を取り、中農は草を見て草を取り、下農は草を見て草を取らない」


→ 心の雑草も同じ事 「教師よ上農たれ!」




□「事なき事を大切にしよう」

◎事が起こった後はすべて敗戦処理にしか過ぎない。

 - 条件を決めるのみ - 教育ではない



 ◎ 普通の生活を豊かに情け熱く感動に満ちたものにすることだ!



 事なき時の営みには喜びがある。
事あるときの営みには喜びなどない。
子どもも教師も喜びの中に生きて事が起こらない。
みんなそれぞれ自分の生き方を身に付けていくからだ。
教育とはこういう仕事をする仕事だ。






◇老人の教育力

□社会で開いた生活力 - ツッパリ困らせた生徒

 教育の営みに於いては絶対に子供を咎めてはいけない。


「咎める」という行為は、一見教育上の「叱る」という行為に似ているけれど、その内実
は全く違う。「とがめる」だけで、少しも正しく「叱る」ことができない教師や親が多い。
私もその一人だった。



 ◎ 若者のツッパリにどう対処するか。このことで大人を生きているものはテストされ
  ているのではないだろうか。






◇子供還り

□中嶋誠『二度わらべ』

非常で残酷 ボケ老人・痴呆老人・徘徊老人・寝たきり老人



◎言い直しを!  → 「二度わらべ」になる






◇嫁と姑

□八ツ塚氏の妻

「嫁として姑の面倒を見るつもりはない。人間として見てあげたい。」



背景 嫁も姑もギブアンドテイク


 ◎ 人間関係にあってはならないのが「君臨」の関係

  = 人間関係には無理が一番いけない







◇子育て

□食べるものと着るもので好き嫌いを絶対口にしてはならない






◇親離れ・子離れ

 野生動物・人間、親と子が離れていないことは共通しているが、その離れ方は違う。
 人間には精神生活がある。心と心の絆を大切にしながら生きているという側面がある。



◎ 保護し保護されるという関係の終結ではあっても、家族としての生活は継続する。
  それが人間の生き方。



 ※最近の子育て論 ~ ここらへんに混乱がある

   ◎ 絆なきところに、人間のいかなる生活も存在しない。





◇共に生きる

□教育用語「共に生きる教育」

老人への最高のポイント

「確かに自分と共に生きてくれる者がいる」という安心感

◎ 無形だが「安心」こそ贈りたい

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