「お江」武光誠 平凡社 2011.1 ① /「一斉授業の復権」久保齋 子どもの未来社 2005年 ②【再掲載 2014.7】 [読書記録 歴史]
今回は、武光誠さんの
「お江」の紹介 1回目です。
出版社の案内には、
「お市の方を母とする三人の娘、茶々(淀殿)・お初・お江は、いずれも数奇な運命を辿っ
た。小谷城の落城で父を失い、北の庄城落城のときに母と死別する。茶々は豊臣秀吉の
側室となり、お初は母方の従兄の京極家に嫁ぐ。お江は二度の結婚に破れた後、徳川秀
忠の妻になる。そして最後に、大坂の陣で姉妹同士が敵味方に分かれ戦ったのだ。戦国
動乱から大坂の陣へ、戦国の世を女性たちはいかに生きたか。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「戦国女性は自ら進んで政略結婚に赴き、喜んで城を枕に自害した
= 武家社会では妻が大きな力を持っていた」
・「大阪の陣 親キリシタン勢力 VS 反キリシタン勢力」
・「信長 専業の戦士からなる直属の軍隊を作り上げた = 俸禄(織田軍)」
・「織田信長は人物本位で娘たちの結婚相手を選んだ」
もう一つ、再掲載となりますが、久保齋さんの
「一斉授業の復権」②を載せます。
「個に応じた教育」には、当然お金がかかります。
環境を整えずに「個に応じた教育」を謳うことにより、教員の多忙化が進み、「ブラッ
ク勤務」が話題となり、教職志望者減少につながっているように思います。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「お江」武光誠 平凡社 2011.1 ①
◇序章 関ヶ原以降、戦は合戦から謀略戦に変貌
□関ヶ原合戦から大阪の陣に
関ヶ原の合戦
→ 西軍の真田昌幸が本拠の上田城に拠り徳川秀忠大軍を破る
↓ (昌幸の子幸村は大阪の陣で勇戦し徳川方を悩ませる)
西軍
→ 有利だったが、石田三成のまずい指揮が西軍の大敗に
□謀略が起こした大阪の陣
豊臣家の淀殿(浅井三姉妹の長女)秀頼の母子 VS 徳川家
□戦国女性の能力
戦国女性は自ら進んで政略結婚に赴き、喜んで城を枕に自害した
= 武家社会では妻が大きな力を持っていた
家康江戸入り(1590)以降
家康側室 - 阿茶局(須和)が力
秀忠 - お江が強い発言力
□淀殿とお江
「女性が武家の政治に関与する」
◎ 淀殿がおとなしく天下を徳川家に譲る方針をとっていれば、一つの大名家として存続
することができた。お江も取りなすことができた。
しかし、… 互いに歩み寄りを妨げた事情があった
□キリシタンをめぐる反目
大阪の陣
親キリシタン勢力 VS 反キリシタン勢力
(明石全澄(てるすみ))
徳川秀忠の弟松平忠輝(キリシタンではないがスペインのステロと親しい)
心配 ~ 失策が許されない → 秀忠はキリシタン憎しに
□徳川家の情報戦略
家康の情報組織
服部正成(半蔵)や柳生宗厳・宗矩父子
◇第1章 天下統一とお市の姫たち
□織田信長の残したもの
天下をねらう魔王
「何が何でも天下を取る」姪のお市の姫に大きな影響
新たな時代をつくる
戦国大名 軍勢は「国人」(小領主)の寄せ集め
↑↓ 農民兵を引き連れて戦場に出た
信長 専業の戦士からなる直属の軍隊を作り上げた
俸禄(織田軍)
織田軍 - 訓練に明け暮れ
集団長槍戦術 鉄砲隊
人材登用
足利義昭たよる→1568年京都へ
◎ 自らの可能性を信じ難事に挑む決断力
信長の野望
信長 5年間で近畿地方統一
東の強敵 - 武田信玄
西の強敵 - 毛利輝元
・宣教師との会談多数 → 貿易 → 世界制覇の野望
女性に優しかった信長
織田信長は能力主義を取り家臣たちに過酷な扱い
魔王・鬼
比叡山の焼き討ち(1571)
長島の一向一揆(1574)
信長の側室
有力者 生駒家系の姪の吉乃(きっの=生駒氏)
正室 濃姫
□お市の方を求める男たち
政略結婚の切り札
お市の方 - 信長の異母妹 1547年生
織田信秀の元で大切に育てられた
二度の結婚
浅井長政に嫁ぐ 1567年(20歳)
浅井氏滅ぼされ、お市の方と浅井三姉妹は織田家に還る
↓ 信長没後
柴田勝家と再婚 1582年(35歳)
秀吉に敗れ、お市の方は夫の最期に沿った
↓
娘だけが豊臣方の陣営に渡され命を長らえた
同年の2つの合戦
野良田合戦(浅井長政VS六角義賢)
桶狭間の合戦
浅井家のお市の方
信長と朝倉義景の対立が浅井家と織田家を敵味方に
1570年 義昭と織田との対立
浅井長政の決起
浅井氏 ~ 妻への愛情より武士としての信義を選ぶ
お市の方の知らせにより信長は帰京
浅井家の滅亡と兄妹の情
1570~1573 浅井長政は3年間持ちこたえた
信長 天正元年(1573)7月義昭を京都より追放(室町幕府滅亡)
8月20日 朝倉義景を自刃させた
8月28日 浅井長政が切腹
直後にお市の方と3人の娘は城を出た(長政の配慮)
淀殿(茶々6歳)
お初 4歳
お江 2歳
↓ 男児幾丸は福田寺に入る
◎ 織田家陣屋で保護
織田家の女性たち
織田信長は人物本位で娘たちの結婚相手を選んだ
柴田勝家との再婚
お市の方と娘
小谷城落城後岐阜城に入った
→ 清洲城 伊勢国上野城主・織田信包に
↓
◎秀吉と勝家が結婚を望んだ しかし、信長は許さず
↓信長死後
◎秀吉は勝家に譲ることにより清洲会議を有利に進める策
越前国北庄城の柴田勝家と再婚
翌天正11年 勝家 VS 秀吉
勝家は敗れた → お市の方は夫と最期
淀殿(茶々) 16歳
お初 14歳
お江 11歳
↓
◎ 豊臣政権のもとでこの三人の娘は波乱に富んだ経験
☆「一斉授業の復権」久保齋 子どもの未来社 2005年 ②【再掲載 2014.7】
<出版社の案内>
学力低下・学級崩壊を救うのは一斉授業だ!学力を真に鍛え、子ども一人ひとりをいきい
きさせる、その驚くべき“教育力”を示す理論と実践の書。
◇憲法と教育基本法に則った教育とは
□習熟度別クラス編成を巡って - 「能力別・分離・差別教育」
← 一年生の課題からの<さかのぼり指導>
「能力に応ずる教育」
- 能力を事前に判定することが不確かな行為
習熟度別
→ 能力別・分離・差別教育
佐藤学(東大)
「小学校では上位中位下位のどのグループでも有効性はなく,中学校では上位グループに
おいて、適切な教育が行われた場合に限って有効性を主張する調査研究もありますが,
いずれの場合も学力格差は拡大し,学校全体の学力向上にはつながらず,階級や階層や
人種間の学力格差の拡大と差別に繋がります。」
□普通教育は「普遍的」で「共通」な教育
「普通教育の教諭」
増田孝雄氏「普遍的で共通に必要とされる教育」
◎ 普通教育は,知識や技能を身に付けますが,その行為を行う中で「人格の完成」
を目指すもの
普通教育 = 知識,技能 + 人格の完成
計算を教えるだけなら「算数の初等専門教育」
共に学び合うから 「算数の初等普通教育」
本当に普通教育か?
□学校は特殊なところであり続ける
学校を外部からの圧力によって変えようという動き
人事考課 学校選択制 民間人校長の登用 中高一貫教育 教育特区 学校評議員制度
∥
◎教育を破壊しようとするエネルギー
1 戦前の教育への回帰 (国家主義教育の復活)
2 戦後教育への怨念 (機会均等,平等主義の否定)
3 新自由主義の理念 (強者のための規制緩和)
※ 教育の民営化を企て,そのおこぼれをねらう人たち
|
◎学校は特殊なところであり続けるべき!
どんなときでもどんな子でも愛することのできる特殊な人間(=先生)のいる所
愛する
= 何の躊躇もなく,よどみもなく,その子の成長を願い鍛えること
「お江」の紹介 1回目です。
出版社の案内には、
「お市の方を母とする三人の娘、茶々(淀殿)・お初・お江は、いずれも数奇な運命を辿っ
た。小谷城の落城で父を失い、北の庄城落城のときに母と死別する。茶々は豊臣秀吉の
側室となり、お初は母方の従兄の京極家に嫁ぐ。お江は二度の結婚に破れた後、徳川秀
忠の妻になる。そして最後に、大坂の陣で姉妹同士が敵味方に分かれ戦ったのだ。戦国
動乱から大坂の陣へ、戦国の世を女性たちはいかに生きたか。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「戦国女性は自ら進んで政略結婚に赴き、喜んで城を枕に自害した
= 武家社会では妻が大きな力を持っていた」
・「大阪の陣 親キリシタン勢力 VS 反キリシタン勢力」
・「信長 専業の戦士からなる直属の軍隊を作り上げた = 俸禄(織田軍)」
・「織田信長は人物本位で娘たちの結婚相手を選んだ」
もう一つ、再掲載となりますが、久保齋さんの
「一斉授業の復権」②を載せます。
「個に応じた教育」には、当然お金がかかります。
環境を整えずに「個に応じた教育」を謳うことにより、教員の多忙化が進み、「ブラッ
ク勤務」が話題となり、教職志望者減少につながっているように思います。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「お江」武光誠 平凡社 2011.1 ①
◇序章 関ヶ原以降、戦は合戦から謀略戦に変貌
□関ヶ原合戦から大阪の陣に
関ヶ原の合戦
→ 西軍の真田昌幸が本拠の上田城に拠り徳川秀忠大軍を破る
↓ (昌幸の子幸村は大阪の陣で勇戦し徳川方を悩ませる)
西軍
→ 有利だったが、石田三成のまずい指揮が西軍の大敗に
□謀略が起こした大阪の陣
豊臣家の淀殿(浅井三姉妹の長女)秀頼の母子 VS 徳川家
□戦国女性の能力
戦国女性は自ら進んで政略結婚に赴き、喜んで城を枕に自害した
= 武家社会では妻が大きな力を持っていた
家康江戸入り(1590)以降
家康側室 - 阿茶局(須和)が力
秀忠 - お江が強い発言力
□淀殿とお江
「女性が武家の政治に関与する」
◎ 淀殿がおとなしく天下を徳川家に譲る方針をとっていれば、一つの大名家として存続
することができた。お江も取りなすことができた。
しかし、… 互いに歩み寄りを妨げた事情があった
□キリシタンをめぐる反目
大阪の陣
親キリシタン勢力 VS 反キリシタン勢力
(明石全澄(てるすみ))
徳川秀忠の弟松平忠輝(キリシタンではないがスペインのステロと親しい)
心配 ~ 失策が許されない → 秀忠はキリシタン憎しに
□徳川家の情報戦略
家康の情報組織
服部正成(半蔵)や柳生宗厳・宗矩父子
◇第1章 天下統一とお市の姫たち
□織田信長の残したもの
天下をねらう魔王
「何が何でも天下を取る」姪のお市の姫に大きな影響
新たな時代をつくる
戦国大名 軍勢は「国人」(小領主)の寄せ集め
↑↓ 農民兵を引き連れて戦場に出た
信長 専業の戦士からなる直属の軍隊を作り上げた
俸禄(織田軍)
織田軍 - 訓練に明け暮れ
集団長槍戦術 鉄砲隊
人材登用
足利義昭たよる→1568年京都へ
◎ 自らの可能性を信じ難事に挑む決断力
信長の野望
信長 5年間で近畿地方統一
東の強敵 - 武田信玄
西の強敵 - 毛利輝元
・宣教師との会談多数 → 貿易 → 世界制覇の野望
女性に優しかった信長
織田信長は能力主義を取り家臣たちに過酷な扱い
魔王・鬼
比叡山の焼き討ち(1571)
長島の一向一揆(1574)
信長の側室
有力者 生駒家系の姪の吉乃(きっの=生駒氏)
正室 濃姫
□お市の方を求める男たち
政略結婚の切り札
お市の方 - 信長の異母妹 1547年生
織田信秀の元で大切に育てられた
二度の結婚
浅井長政に嫁ぐ 1567年(20歳)
浅井氏滅ぼされ、お市の方と浅井三姉妹は織田家に還る
↓ 信長没後
柴田勝家と再婚 1582年(35歳)
秀吉に敗れ、お市の方は夫の最期に沿った
↓
娘だけが豊臣方の陣営に渡され命を長らえた
同年の2つの合戦
野良田合戦(浅井長政VS六角義賢)
桶狭間の合戦
浅井家のお市の方
信長と朝倉義景の対立が浅井家と織田家を敵味方に
1570年 義昭と織田との対立
浅井長政の決起
浅井氏 ~ 妻への愛情より武士としての信義を選ぶ
お市の方の知らせにより信長は帰京
浅井家の滅亡と兄妹の情
1570~1573 浅井長政は3年間持ちこたえた
信長 天正元年(1573)7月義昭を京都より追放(室町幕府滅亡)
8月20日 朝倉義景を自刃させた
8月28日 浅井長政が切腹
直後にお市の方と3人の娘は城を出た(長政の配慮)
淀殿(茶々6歳)
お初 4歳
お江 2歳
↓ 男児幾丸は福田寺に入る
◎ 織田家陣屋で保護
織田家の女性たち
織田信長は人物本位で娘たちの結婚相手を選んだ
柴田勝家との再婚
お市の方と娘
小谷城落城後岐阜城に入った
→ 清洲城 伊勢国上野城主・織田信包に
↓
◎秀吉と勝家が結婚を望んだ しかし、信長は許さず
↓信長死後
◎秀吉は勝家に譲ることにより清洲会議を有利に進める策
越前国北庄城の柴田勝家と再婚
翌天正11年 勝家 VS 秀吉
勝家は敗れた → お市の方は夫と最期
淀殿(茶々) 16歳
お初 14歳
お江 11歳
↓
◎ 豊臣政権のもとでこの三人の娘は波乱に富んだ経験
☆「一斉授業の復権」久保齋 子どもの未来社 2005年 ②【再掲載 2014.7】
<出版社の案内>
学力低下・学級崩壊を救うのは一斉授業だ!学力を真に鍛え、子ども一人ひとりをいきい
きさせる、その驚くべき“教育力”を示す理論と実践の書。
◇憲法と教育基本法に則った教育とは
□習熟度別クラス編成を巡って - 「能力別・分離・差別教育」
← 一年生の課題からの<さかのぼり指導>
「能力に応ずる教育」
- 能力を事前に判定することが不確かな行為
習熟度別
→ 能力別・分離・差別教育
佐藤学(東大)
「小学校では上位中位下位のどのグループでも有効性はなく,中学校では上位グループに
おいて、適切な教育が行われた場合に限って有効性を主張する調査研究もありますが,
いずれの場合も学力格差は拡大し,学校全体の学力向上にはつながらず,階級や階層や
人種間の学力格差の拡大と差別に繋がります。」
□普通教育は「普遍的」で「共通」な教育
「普通教育の教諭」
増田孝雄氏「普遍的で共通に必要とされる教育」
◎ 普通教育は,知識や技能を身に付けますが,その行為を行う中で「人格の完成」
を目指すもの
普通教育 = 知識,技能 + 人格の完成
計算を教えるだけなら「算数の初等専門教育」
共に学び合うから 「算数の初等普通教育」
本当に普通教育か?
□学校は特殊なところであり続ける
学校を外部からの圧力によって変えようという動き
人事考課 学校選択制 民間人校長の登用 中高一貫教育 教育特区 学校評議員制度
∥
◎教育を破壊しようとするエネルギー
1 戦前の教育への回帰 (国家主義教育の復活)
2 戦後教育への怨念 (機会均等,平等主義の否定)
3 新自由主義の理念 (強者のための規制緩和)
※ 教育の民営化を企て,そのおこぼれをねらう人たち
|
◎学校は特殊なところであり続けるべき!
どんなときでもどんな子でも愛することのできる特殊な人間(=先生)のいる所
愛する
= 何の躊躇もなく,よどみもなく,その子の成長を願い鍛えること
大学時代に一般教養の歴史学の講師が武光誠さんでした。
当時はまだ若い新進気鋭の歴史学者(と学部長がガイダンスで説明していたと思う)でしたが講義は数百人入る大講義室にいつも数十名という状況でしたがまさかこれほどの著作数を誇る人気歴史学者になられるとは・・私も著作を数冊持っていますが学生時代のテキストはなくしちゃったようです。
子供のころに三島由紀夫の隣家に住んでいて朝から庭で竹刀を振っている変なおじさんという印象だったそうです。
by 青い森のヨッチン (2021-05-12 11:38)
日本史は苦手で、詳しくないのですが
この時代の女性たちは逞しかったですよね。
「女性は一歩下がって男性を支える…」的な考え方はいつどうやって生まれたんでしょうね。もちろん現在はそういう考え方はもう古いという潮流でしょうが…。
「一斉授業の復権」最後の2行の文章に胸打たれました。
自分には足りないことだと感じています(;^ω^)
by ミケシマ (2021-05-12 12:36)
青い森のヨッチンさん ありがとうございます。
武光誠さんの授業を受けられたとのこと、大変うらやましく感じます。
空席が多かった様子、もったいなく思います。わたしもそうですが、学生当時、もっとしっかり聴いておけばよかったと思っている人も多いのではないでしょうか。
三島由紀夫さんの話など、ちょっと脱線したこぼれ話は、聴いていて楽しいですね。
by ハマコウ (2021-05-12 15:45)
ミケシマさん ありがとうございます。
表面上は男性中心だけれども家庭では女性中心とも聞きますが、本当かなあと思います。今でも、わたしのような昭和世代の男性に、なかなか頭を切り替えられない人もいますね。
-「どんな子でも愛する」
わたしも努力はしているのですが、難しいことです。
by ハマコウ (2021-05-12 15:52)