ふえる一方の不登校をどうとらるか 伊藤友宣(神戸心療親子研究室・主宰) 「決断を次回送りにのばす悪癖の背景に」- 分かっていて動きのとれない、という心理- ⑤ /「哀しみを語りつぐ日本人」齋藤孝・山折哲雄 PHP 2003年 ① 【再掲載 2013.6】 [読書記録 教育]
今回は、5月 7日に続いて伊藤友宣さんの
「ふえる一方の不登校をどうとらえるか」5回目を紹介します。
出典、年度は不明ですが、
平成14、15年頃の月刊「少年育成」誌ではないかと思われます。
きっかけとなる「何か」を見つけることができればと思います。
もう一つ、再掲載となりますが、齋藤孝さん、山折哲雄さんの、
「哀しみを語りつぐ日本人」①を載せます。
「哀しみ」の感情は、学習を要するようです。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆ふえる一方の不登校をどうとらるか 伊藤友宣(神戸心療親子研究室・主宰) 「決断を次回送りにのばす悪癖の背景に」- 分かっていて動きのとれない、という心理- ⑤
◇四年間不登校を続ける一事例
水田大介(中一)(仮名)は小学二年の二学期はじめから不登校を始めて、四年間それ
は続き、その間の親の心労は大変なものだったようですが、いつからか不安のためどこへ
でも母親と常に同行するようになっていて、たまたまの地方の市の教育委員会の行事で、
不登校児の親の会に私が講師として呼ばれ、その会にも母親にくっついて来ていて、大人
の集会での私の話を、少年自身が聞いたということでした。
私の話には大介が耳をそば立てていたというのです。
私は全国どこでも陥りがちな、不登校への事大主義的類型的な、本質に迫らない対策や
対応を徹底的に批判し、反省を呼びかける話をしたつもりです。
五、六十人の教員と親の聴き手が、目も耳も開いて、どよめきを生じながらの会場全体
の心の動きは、私の神経を精いっぱいにみなぎらせて止まぬ、あっという間の二時間でし
た。
数日後私のカウンセリングルームに来所した母親が驚きをもって語ってくれたのは、そ
の会からの帰路、大介少年は生き生きした歩調に合わせて歌を口ずさんでいたということ
でした。
何年もあり得なかった元気さだといいます。
あのおじさんのところなら行く、といって母親のすすめに応じて私の相談室へ、大介君
が日経ずして、母親に伴われてやって来たのでした。それがちょうど、四年間不登校を続
けた六年生の二学期の半ばだったのです。
「ヨオッ」
というこちらの呼びかけに「お-」と呼応して何気ない態度で私の相談室に入って来る態
度に、連れて来た母親が日を丸くして
「まあこの子!(私の所に来るのは)はじめてやのに、この調子!」
「だって」
と私は本人に代って親に説明します。
「この間は私の腹蔵なしの本音の話、聞いてくれて、ほくの気心をのみ込んでくれてるも のなァ」
「うん」
私が求めたうなずきを即座に返してくれるので、私は有無を言わさず、うなり声のよう
声で、
「四年という長さ!頑張ったでェ大介。ご苦労でした」
とこの長年の労をねぎらうと、
「うんッ」
と当人は納得してしっかりうなずきました。
六十代半ば過ぎの私と六年坊主の勢いのテンポがまあなんとか合っているのに、母親は
あきれて物が言えません。
◇人の不本意さが親に涜めない
「結局、なにが問題やったのかねえ。二年の二学期に休みはじめちゃったのは?」
これだけ気持の行きかいが暖かだと、自然にたずねて自然にこたえるのが、本当に自然
というものですね。
少年は応えて、
「たいしたことやなかったんや。なァ」
と脇にいる母親の口添えを要求し、母親がどう言ってよいかと面喰っています。
そのちぐはぐさを見ていると、これまでの長年月の間にも、その時点(四年前の、休み
だしたきっかけ)の心の動きの確認など、これまで親子の間で交わされたことなどなかっ
たのだろうと、推測できるのでした。
住まいからは遠い大阪市内のカウンセリングや精神科医などへ、本人は行こうとしない
以上母私一人があちこち相談にも行き回ったにもかかわらず、この一年も前からは、本人
に母親はどこへも行くなと強制されて、親覿は相談に行くのを止めざるを得なくなり、買
い物にも銀行にも母親に本人がずっとくっついてどこへも二人一緒になっていたようなの
です。
私への相談申込みの電話でも
「母親依存症で私にべったりくっついて離れず、自分の気の向かないところへはどこへも
私を行かせてくれません」
と、母親が言うので、
「気持のあり方が変ると様子もいろいろ変るので、まるで病名みたいに母親依存症だなん
て知ったかぷりに言うのはよくないですよ」
と思わず忠告したものでした。
◇親の努力は徒労に終わり
さて、もともと何のこだわりで二年生から不登校がはじまったかということですが、そ
の当時からのことを、私はあらかじめ母親からはこう聞かされていました。
「なんでか分からないのですが、朝になるとうっとうしくて、ぽつん、ぽつんと何日かに
一日休むようになって。二日も続けて休むと次の日は、行ってくれるか行ってくれるか
と気になってたのに、とうとうある日から休み続けたんです。どうでもこうでも行かな
いようになって。
問うても問うても、何も言ってくれんかった。父親が荒れ立ってしまって、どうでも行
けと力づくで引っぱり出そうとして、あの子は泣いてわめいて、目付きまですごい様子
で必死にさからって、動こうとせず、ちょっとでも尋ねるとものすごい怒るので…。親
もなにがなんだか訳が分かリませんでした。
あれこれの不登校の本に書いているように、そのへんを壊しまわるようになったかと思
うと、私を叩いてきたり蹴りまわったりの時期もありました。
四年の頃から、近所の子が放課後や休みの日には遊びに来てくれるようになって、いつ
からか友達の来てくれるのを心待ちしていて。担任の先生も来てくれると、会いはする
んですが、親や先生から、学校の話をすると、いやがって顔色が変るので、どうしよう
もなく、この四年間が過ぎたのです」
と。
☆「哀しみを語りつぐ日本人」齋藤孝・山折哲雄 PHP 2003年 ① 【再掲載 2013.6】
<出版社の紹介>
日本的感情とでも呼ぶべきものがいまどのように衰退しているか、そしてそれを取り戻す
ためにはどうすればいいのかについて考えた対論。日本に伝統的に強かったとされる感情
のなかでも、とくに哀しみに焦点を当てている。
◇日本的感情とは何か
1 日本人の感情表現が貧困化している
□アメリカ人と日本人、どちらがドライか
感情の枯渇
①ゲーム
②余裕のなさ
□近代以降「悲しみの感情」は抑圧されてきた
□「鬱陶しい」も「腹立たしい」もすべて「ムカツク」の一語
版画の彫刻刀が一本しかない状態
□啖呵を切ったことがあるか
歌舞伎のせりふ「弁天娘女男白浪(白浪五人男)」
五人の盗賊のせりふ回し
□「てやんでえ、べらぼうめ」でエネルギーを放出
□歌舞伎文化も啖呵なしには生まれなかった
啖呵のリズムはどこへ
2 日本的感情を形づくるものは何か
□喜怒哀楽に変わる「感情の三原色」
三要素
「哀しみ」
「憧れ」
「張り」
□かつて「恋」は「孤悲」と書いた
哀しみは文化的に学ぶもの
万葉歌人
「恋」→「孤悲」
◎ 人は常に独りで恋をするものであり、多くの場合、その思いは満たされないから哀
しみの感情に直結する
□少年犯罪と「哀しみ」
□学習しなければ「哀しみ」は理解できない
□「楽しさ」と「張り」の葛藤が感情に深見を与える
□フワフワと空に向かう「憧れ」の感情 藤村、啄木
□啄木の詩に見る不良少年の心の「張り」
□「笑み」で哀しみを表現した日本女性
笑みをさえ浮かべて自分の不幸を他人に告げる~慎み
ジャパニーズ・スマイル
日本人の笑いの不思議 - ラフカディオ・ハーンが意味を
□「哀しみ」と「悲しみ」
◎ あまりの不幸に崩れ落ちてしまうような「悲しみ」ではなく、慎みという心の張り
を失った「哀しみ」の感情
|
◎ 現代人の哀しみの希薄化
「感情の起伏に流されまい」というような「張り」が失われつつある
※ 日本の社会・生活様式そのものが「日本的感情」の源泉
「ふえる一方の不登校をどうとらえるか」5回目を紹介します。
出典、年度は不明ですが、
平成14、15年頃の月刊「少年育成」誌ではないかと思われます。
きっかけとなる「何か」を見つけることができればと思います。
もう一つ、再掲載となりますが、齋藤孝さん、山折哲雄さんの、
「哀しみを語りつぐ日本人」①を載せます。
「哀しみ」の感情は、学習を要するようです。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆ふえる一方の不登校をどうとらるか 伊藤友宣(神戸心療親子研究室・主宰) 「決断を次回送りにのばす悪癖の背景に」- 分かっていて動きのとれない、という心理- ⑤
◇四年間不登校を続ける一事例
水田大介(中一)(仮名)は小学二年の二学期はじめから不登校を始めて、四年間それ
は続き、その間の親の心労は大変なものだったようですが、いつからか不安のためどこへ
でも母親と常に同行するようになっていて、たまたまの地方の市の教育委員会の行事で、
不登校児の親の会に私が講師として呼ばれ、その会にも母親にくっついて来ていて、大人
の集会での私の話を、少年自身が聞いたということでした。
私の話には大介が耳をそば立てていたというのです。
私は全国どこでも陥りがちな、不登校への事大主義的類型的な、本質に迫らない対策や
対応を徹底的に批判し、反省を呼びかける話をしたつもりです。
五、六十人の教員と親の聴き手が、目も耳も開いて、どよめきを生じながらの会場全体
の心の動きは、私の神経を精いっぱいにみなぎらせて止まぬ、あっという間の二時間でし
た。
数日後私のカウンセリングルームに来所した母親が驚きをもって語ってくれたのは、そ
の会からの帰路、大介少年は生き生きした歩調に合わせて歌を口ずさんでいたということ
でした。
何年もあり得なかった元気さだといいます。
あのおじさんのところなら行く、といって母親のすすめに応じて私の相談室へ、大介君
が日経ずして、母親に伴われてやって来たのでした。それがちょうど、四年間不登校を続
けた六年生の二学期の半ばだったのです。
「ヨオッ」
というこちらの呼びかけに「お-」と呼応して何気ない態度で私の相談室に入って来る態
度に、連れて来た母親が日を丸くして
「まあこの子!(私の所に来るのは)はじめてやのに、この調子!」
「だって」
と私は本人に代って親に説明します。
「この間は私の腹蔵なしの本音の話、聞いてくれて、ほくの気心をのみ込んでくれてるも のなァ」
「うん」
私が求めたうなずきを即座に返してくれるので、私は有無を言わさず、うなり声のよう
声で、
「四年という長さ!頑張ったでェ大介。ご苦労でした」
とこの長年の労をねぎらうと、
「うんッ」
と当人は納得してしっかりうなずきました。
六十代半ば過ぎの私と六年坊主の勢いのテンポがまあなんとか合っているのに、母親は
あきれて物が言えません。
◇人の不本意さが親に涜めない
「結局、なにが問題やったのかねえ。二年の二学期に休みはじめちゃったのは?」
これだけ気持の行きかいが暖かだと、自然にたずねて自然にこたえるのが、本当に自然
というものですね。
少年は応えて、
「たいしたことやなかったんや。なァ」
と脇にいる母親の口添えを要求し、母親がどう言ってよいかと面喰っています。
そのちぐはぐさを見ていると、これまでの長年月の間にも、その時点(四年前の、休み
だしたきっかけ)の心の動きの確認など、これまで親子の間で交わされたことなどなかっ
たのだろうと、推測できるのでした。
住まいからは遠い大阪市内のカウンセリングや精神科医などへ、本人は行こうとしない
以上母私一人があちこち相談にも行き回ったにもかかわらず、この一年も前からは、本人
に母親はどこへも行くなと強制されて、親覿は相談に行くのを止めざるを得なくなり、買
い物にも銀行にも母親に本人がずっとくっついてどこへも二人一緒になっていたようなの
です。
私への相談申込みの電話でも
「母親依存症で私にべったりくっついて離れず、自分の気の向かないところへはどこへも
私を行かせてくれません」
と、母親が言うので、
「気持のあり方が変ると様子もいろいろ変るので、まるで病名みたいに母親依存症だなん
て知ったかぷりに言うのはよくないですよ」
と思わず忠告したものでした。
◇親の努力は徒労に終わり
さて、もともと何のこだわりで二年生から不登校がはじまったかということですが、そ
の当時からのことを、私はあらかじめ母親からはこう聞かされていました。
「なんでか分からないのですが、朝になるとうっとうしくて、ぽつん、ぽつんと何日かに
一日休むようになって。二日も続けて休むと次の日は、行ってくれるか行ってくれるか
と気になってたのに、とうとうある日から休み続けたんです。どうでもこうでも行かな
いようになって。
問うても問うても、何も言ってくれんかった。父親が荒れ立ってしまって、どうでも行
けと力づくで引っぱり出そうとして、あの子は泣いてわめいて、目付きまですごい様子
で必死にさからって、動こうとせず、ちょっとでも尋ねるとものすごい怒るので…。親
もなにがなんだか訳が分かリませんでした。
あれこれの不登校の本に書いているように、そのへんを壊しまわるようになったかと思
うと、私を叩いてきたり蹴りまわったりの時期もありました。
四年の頃から、近所の子が放課後や休みの日には遊びに来てくれるようになって、いつ
からか友達の来てくれるのを心待ちしていて。担任の先生も来てくれると、会いはする
んですが、親や先生から、学校の話をすると、いやがって顔色が変るので、どうしよう
もなく、この四年間が過ぎたのです」
と。
☆「哀しみを語りつぐ日本人」齋藤孝・山折哲雄 PHP 2003年 ① 【再掲載 2013.6】
<出版社の紹介>
日本的感情とでも呼ぶべきものがいまどのように衰退しているか、そしてそれを取り戻す
ためにはどうすればいいのかについて考えた対論。日本に伝統的に強かったとされる感情
のなかでも、とくに哀しみに焦点を当てている。
◇日本的感情とは何か
1 日本人の感情表現が貧困化している
□アメリカ人と日本人、どちらがドライか
感情の枯渇
①ゲーム
②余裕のなさ
□近代以降「悲しみの感情」は抑圧されてきた
□「鬱陶しい」も「腹立たしい」もすべて「ムカツク」の一語
版画の彫刻刀が一本しかない状態
□啖呵を切ったことがあるか
歌舞伎のせりふ「弁天娘女男白浪(白浪五人男)」
五人の盗賊のせりふ回し
□「てやんでえ、べらぼうめ」でエネルギーを放出
□歌舞伎文化も啖呵なしには生まれなかった
啖呵のリズムはどこへ
2 日本的感情を形づくるものは何か
□喜怒哀楽に変わる「感情の三原色」
三要素
「哀しみ」
「憧れ」
「張り」
□かつて「恋」は「孤悲」と書いた
哀しみは文化的に学ぶもの
万葉歌人
「恋」→「孤悲」
◎ 人は常に独りで恋をするものであり、多くの場合、その思いは満たされないから哀
しみの感情に直結する
□少年犯罪と「哀しみ」
□学習しなければ「哀しみ」は理解できない
□「楽しさ」と「張り」の葛藤が感情に深見を与える
□フワフワと空に向かう「憧れ」の感情 藤村、啄木
□啄木の詩に見る不良少年の心の「張り」
□「笑み」で哀しみを表現した日本女性
笑みをさえ浮かべて自分の不幸を他人に告げる~慎み
ジャパニーズ・スマイル
日本人の笑いの不思議 - ラフカディオ・ハーンが意味を
□「哀しみ」と「悲しみ」
◎ あまりの不幸に崩れ落ちてしまうような「悲しみ」ではなく、慎みという心の張り
を失った「哀しみ」の感情
|
◎ 現代人の哀しみの希薄化
「感情の起伏に流されまい」というような「張り」が失われつつある
※ 日本の社会・生活様式そのものが「日本的感情」の源泉
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