小浜逸郎さんはこんなことを③-「この国はなぜ寂しいのか」PHP 1998年 (3) /「何も願わない手を合わせる」藤原新也 東京書籍 2003年 ①【再掲載 2014.3】 [読書記録 教育]
今回は、10月16日に続いて、
「小浜逸郎さんはこんなことを」3回目、
「この国はなぜ寂しいのか-『ものさし』を失った日本人」3回目の紹介です。
今回も、前回に引き続き、『酒鬼薔薇事件』についてのものです。
出版社の案内には、
「『失楽園』現象から『酒鬼薔薇事件』『金属バット事件』『個性尊重論』の問題に至るま
で子供や思春期の少年たちにかかわる社会現象をテーマに、不安と虚無感におびえる世
相を読み解く。精神不況の時代を読む。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「事件を『祭り』にしたてるマスコミ」
- 目をひく話題となれば、それ一色。継続報道することなく、次の「祭り」へ…。
・「現在教師の権力は十分には機能していない
= 『聖なる価値』の後退
教育の犠牲者論は「お子様教」的信仰につながる
甘さは戦後民主主義が作り出した」
・「戦後の甘くひ弱な『弱者の人権尊重』イデオロギーのために基本的な人間認識を曇ら
せてしまった」
・「残虐性が『共同的なもの』から『個人的なもの』に」
もう一つ、再掲載となりますが、藤原新也さんの
「何も願わない手を合わせる」①を載せます。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆小浜逸郎さんはこんなことを③-「この国はなぜ寂しいのか」PHP 1998年 (3)
◇「祭り」の後
□事件を「祭り」にしたてるマスコミ
M君祭り,いじめ自殺祭り,オウム祭り,神戸祭り
□「教育の犠牲者論」の見当違い
現在教師の権力は十分には機能していない
∥
「聖なる価値」の後退
聖なる価値が信じられていれば,そのメンバーは、相当の「苦役」や「抑圧」に
耐えられる
|
◎ 教育の犠牲者論は「お子様教」的信仰につながる
◎ 甘さは戦後民主主義が作り出した
□<子供=無垢な存在>という空想的議論
日本 暴力アレルギー・権力アレルギー
|
子供の思春期 ◎ 中途半端な変な存在
∥
◎ 戦後の甘くひ弱な「弱者の人権尊重」イデオロギーのために基本的な人間認識を
曇らせてしまった
□三島由紀夫「午後の曳航」の喚起力
「どんなものでも埋められない空洞」
|
この時期の少年は「悪」や「残虐」などの行為の内に,自己の存在証明を見いだそう
とする傾向が強いと言うこと
◎ 聖なる儀式の意味
孤立の原理 → 個人に
残虐性が「共同的なもの」から「個人的なもの」に
□日本の子供たちの不気味さ
原因
① 都市社会化の進展
②「大人-子供」関係の枠組み崩し
|
◎ 分断された個という城壁の中で情報社会の先端的な感覚をいち早く身につけ不気味
さを与えている
☆「何も願わない手を合わせる」藤原新也 東京書籍 2003年 ①【再掲載 2014.3】
<出版社の案内>
死をいかに受け入れるか。『メメント・モリ』から20年、これまであらゆる祈りを拒否し
続けてきた著者が愛する者の死をへてたどりついたもの。それは,なにも願わない、ただ、
手を合わせる。
◇顔施
□追善供養 三世因呆の道理
行いの善悪が三世に渡って作用する
善行 - 人間界・天界・極楽
→ ますます善い道に
悪業 - 地獄・餓鬼・畜生の三悪道
→ 安楽の道に
□「死者はそれを思う人々の魂の中に生きている」
思い煩って自身の中に居残ること - 「死者が成仏できない」
↓
自身の中に死者への残念を浄化することこそが死者への供養
□兄の死を機にした四国巡り
南四国の日和佐の町へ 23番所 薬王寺の近く
薬王寺 本尊・薬師如来 真言「オンコロコロセンダソウキソワカ」
「どんな強敵でも踏みつぶす象王のようなお薬師様。わたしたちの体や心に住み着いて
いる病気や苦しみを取り除いてください」
|
「口に妙法を奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給う」
|
◎「この世」
いつまでも棲むことを許される場所ではなく、ひととき居を借りて、やがてそこ
を立ち去らなければならない仮の住まいであるという無常観
◎ 逆説
「この世から消滅したものこそが唯一の確かな存在ではないか」
地蔵菩薩の顔が兄の顔に見える
→「あなたの心よ こういう場所に行きなさい」
∥
◎ 顔施
しかし、翌日地蔵はただの石に見えた
加持
「求めようとする心と彼方からやってくるものとの交合。その一瞬にして宗教的化
学反応は起こる」
|
◎ 顔施によって心の一部を浄化した方、少なくとも私にはこの地蔵の顔の施しを必
要としなくなった
∥
◎ 人の心の中では再び同じことは起こりえない
◇童眼
□巡礼と贖罪「死人に罪を作ったから…という旅」
|
◎ 人の深層意識には何人においてもそのような不分明な罪の意識が眠っているのでは
ないか?
◎ この世に生を授かったすべての生き物は、罪を重ねずして生きていくことはできな
い。
※ 慈しみや愛は罪と背反の関係でもあり得る。
◇老い歌
老女の御詠歌 93歳の歩き遍路
◇なにも願わない、手を合わせる
□四国八十八か所の旅 = 祈りの旅
自己救済の祈り
↓
養女の祈り
◎ 何も願わない そしてただ無心に手を合わせる
□野辺の地蔵 … 人間と自然の合作
「海のような自分になりたい」願いをこめて祈る
◇水に還る
□和南城孝志氏の作品集の解説
石の彫刻家 - 深い沈黙
イタリア留学 → アジア
◎ 自我中心の西洋 → どこまでも肥大化
己を空しくし宇宙全体にとけ込む我 = 東洋
∥
「新作は?」 「水を表現する彫刻をつくりたい」
◇まなざしの聖杯
□超のつくダサさ
ディズニーランドが入場を断る
|
浜崎あゆみ
デビュー曲「A Song for ××」 = 迷子の歌
□「第2の敗戦」
フリーター200万 引きこもり80万
不登校20万 合計 300万人
∥
◎ 経済戦争の果ての敗戦難民 = 時代が生んだ迷子
□「まなざしの聖杯」(母親)の喪失
まなざしを失った母親
「小浜逸郎さんはこんなことを」3回目、
「この国はなぜ寂しいのか-『ものさし』を失った日本人」3回目の紹介です。
今回も、前回に引き続き、『酒鬼薔薇事件』についてのものです。
出版社の案内には、
「『失楽園』現象から『酒鬼薔薇事件』『金属バット事件』『個性尊重論』の問題に至るま
で子供や思春期の少年たちにかかわる社会現象をテーマに、不安と虚無感におびえる世
相を読み解く。精神不況の時代を読む。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「事件を『祭り』にしたてるマスコミ」
- 目をひく話題となれば、それ一色。継続報道することなく、次の「祭り」へ…。
・「現在教師の権力は十分には機能していない
= 『聖なる価値』の後退
教育の犠牲者論は「お子様教」的信仰につながる
甘さは戦後民主主義が作り出した」
・「戦後の甘くひ弱な『弱者の人権尊重』イデオロギーのために基本的な人間認識を曇ら
せてしまった」
・「残虐性が『共同的なもの』から『個人的なもの』に」
もう一つ、再掲載となりますが、藤原新也さんの
「何も願わない手を合わせる」①を載せます。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆小浜逸郎さんはこんなことを③-「この国はなぜ寂しいのか」PHP 1998年 (3)
◇「祭り」の後
□事件を「祭り」にしたてるマスコミ
M君祭り,いじめ自殺祭り,オウム祭り,神戸祭り
□「教育の犠牲者論」の見当違い
現在教師の権力は十分には機能していない
∥
「聖なる価値」の後退
聖なる価値が信じられていれば,そのメンバーは、相当の「苦役」や「抑圧」に
耐えられる
|
◎ 教育の犠牲者論は「お子様教」的信仰につながる
◎ 甘さは戦後民主主義が作り出した
□<子供=無垢な存在>という空想的議論
日本 暴力アレルギー・権力アレルギー
|
子供の思春期 ◎ 中途半端な変な存在
∥
◎ 戦後の甘くひ弱な「弱者の人権尊重」イデオロギーのために基本的な人間認識を
曇らせてしまった
□三島由紀夫「午後の曳航」の喚起力
「どんなものでも埋められない空洞」
|
この時期の少年は「悪」や「残虐」などの行為の内に,自己の存在証明を見いだそう
とする傾向が強いと言うこと
◎ 聖なる儀式の意味
孤立の原理 → 個人に
残虐性が「共同的なもの」から「個人的なもの」に
□日本の子供たちの不気味さ
原因
① 都市社会化の進展
②「大人-子供」関係の枠組み崩し
|
◎ 分断された個という城壁の中で情報社会の先端的な感覚をいち早く身につけ不気味
さを与えている
☆「何も願わない手を合わせる」藤原新也 東京書籍 2003年 ①【再掲載 2014.3】
<出版社の案内>
死をいかに受け入れるか。『メメント・モリ』から20年、これまであらゆる祈りを拒否し
続けてきた著者が愛する者の死をへてたどりついたもの。それは,なにも願わない、ただ、
手を合わせる。
◇顔施
□追善供養 三世因呆の道理
行いの善悪が三世に渡って作用する
善行 - 人間界・天界・極楽
→ ますます善い道に
悪業 - 地獄・餓鬼・畜生の三悪道
→ 安楽の道に
□「死者はそれを思う人々の魂の中に生きている」
思い煩って自身の中に居残ること - 「死者が成仏できない」
↓
自身の中に死者への残念を浄化することこそが死者への供養
□兄の死を機にした四国巡り
南四国の日和佐の町へ 23番所 薬王寺の近く
薬王寺 本尊・薬師如来 真言「オンコロコロセンダソウキソワカ」
「どんな強敵でも踏みつぶす象王のようなお薬師様。わたしたちの体や心に住み着いて
いる病気や苦しみを取り除いてください」
|
「口に妙法を奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給う」
|
◎「この世」
いつまでも棲むことを許される場所ではなく、ひととき居を借りて、やがてそこ
を立ち去らなければならない仮の住まいであるという無常観
◎ 逆説
「この世から消滅したものこそが唯一の確かな存在ではないか」
地蔵菩薩の顔が兄の顔に見える
→「あなたの心よ こういう場所に行きなさい」
∥
◎ 顔施
しかし、翌日地蔵はただの石に見えた
加持
「求めようとする心と彼方からやってくるものとの交合。その一瞬にして宗教的化
学反応は起こる」
|
◎ 顔施によって心の一部を浄化した方、少なくとも私にはこの地蔵の顔の施しを必
要としなくなった
∥
◎ 人の心の中では再び同じことは起こりえない
◇童眼
□巡礼と贖罪「死人に罪を作ったから…という旅」
|
◎ 人の深層意識には何人においてもそのような不分明な罪の意識が眠っているのでは
ないか?
◎ この世に生を授かったすべての生き物は、罪を重ねずして生きていくことはできな
い。
※ 慈しみや愛は罪と背反の関係でもあり得る。
◇老い歌
老女の御詠歌 93歳の歩き遍路
◇なにも願わない、手を合わせる
□四国八十八か所の旅 = 祈りの旅
自己救済の祈り
↓
養女の祈り
◎ 何も願わない そしてただ無心に手を合わせる
□野辺の地蔵 … 人間と自然の合作
「海のような自分になりたい」願いをこめて祈る
◇水に還る
□和南城孝志氏の作品集の解説
石の彫刻家 - 深い沈黙
イタリア留学 → アジア
◎ 自我中心の西洋 → どこまでも肥大化
己を空しくし宇宙全体にとけ込む我 = 東洋
∥
「新作は?」 「水を表現する彫刻をつくりたい」
◇まなざしの聖杯
□超のつくダサさ
ディズニーランドが入場を断る
|
浜崎あゆみ
デビュー曲「A Song for ××」 = 迷子の歌
□「第2の敗戦」
フリーター200万 引きこもり80万
不登校20万 合計 300万人
∥
◎ 経済戦争の果ての敗戦難民 = 時代が生んだ迷子
□「まなざしの聖杯」(母親)の喪失
まなざしを失った母親
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