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団士郎「木陰の物語」(月刊『少年育成』誌連載)③(最終) /『日本例話大全書』有馬朗人・中西進他 四季社 2001年 ②【再掲載 2015.2】 [読書記録 教育]

今回は、10月17日に続いて、かつての『月刊少年育成』誌の連載記事、
団士郎さんの「木陰の物語」3回目の紹介 最終です。
本来は、漫画と文章で構成されたものですが、文章のみでの紹介となります。



大好きだった雑誌の連載記事でしたが、
ホンブロック社から「家族の練習問題 〜木陰の物語〜」として出版されています。


新刊の出版社の案内には、


「あんなに小さかったうちの子が、いよいよ小学校に上がる。ランドセルを抱え、ワクワ
 クが止まらない子どもに対し、親御さんの頭の中は、考えても仕方のない不安でいっぱ
 いになります。試されているのは、親の覚悟なのかもしれません。
 家族心理臨床家であり、漫画家としても活躍する著者の人気作『家族の練習問題〜木陰
 の物語〜』シリーズの中から、学齢期のお子さんを持つ親御さんに特に人気の高い作品
 や、この時期に繰り返し読んでいただきたい13話と、既刊本未収録の新作7話を集め
 た特別版ができました。新たにコマ割り漫画で読める『木陰の物語』です。
 自分は親としてどうあるべきなのか――。心と向き合い、整理するのに最適な一冊です。
 ご自身用に、あるいはご贈答用に、ぜひご一読ください。」


とあります。


- そんな少年だった自分を今ねぎらってやりたいね…」


そのようなく気持ちになることが、このごろ、わたしにもあります。




もう一つ、再掲載となりますが、 有馬朗人さん、中西進さんなどの編による
「日本例話大全書」②を載せます。
いろいろな人のこころにしみる話が書かれています。

-「涙は人のためにだけ流しなさい」

わたしに強く響いた言葉です。




<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。











☆団士郎「木陰の物語」(月刊『少年育成』誌連載)③(最終)

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◇第三十五話 戦の中で

「僕ねぇ、母親に文字を教えましたよ.もう亡くなりましたけどね…」


 私より十歳も年長の甘井さんが話し始めた


「母は東北の寒村の子沢山の農家に生まれてね。学ぶ機会なんてなかったんじゃないかな ぁ、文盲でした」


「それが嫌でねー、とにかく自分は勉強したいと思ったな-」


 甘井さんは苦学して大学を出て、教員になった


 そしてずっと後、六十歳近くなった母に、文字を数えたのだそうだ


 戦後生まれの私にも、戦後の貧しさや、混沌とした世の中の記憶はある


 しかし戦前、戦中の大変さは知らない


「でも父親はもっと大変だったんだよね」


「疎開ですよ。東京では生活ができなかったから…」


「妹が二人と弟がいて、食うものがないんだもの」


「田舎に帰れば食うだけは何とかなるって、母の故郷にね」


「お客として歓迎してくれるわけじゃない、必死で自力で食ペていくんだけど」


「でも父親は行かないんだよね、嫌だって、元々東京の人だったからね」


「結局、母と弟妹達が疎開することになって」


「僕は長男だったから、母親にお父さんを頼むって言われて…」


「父は酒飲みの甲斐性のない男で、それまでも母に迷惑ばかりかけていた」


「でも母はそんな父を見捨てなかったんだなぁ」


「父親と二人で残った東京は本当に苦しかった」


「ほとんルンペンだった」


「なのに父が居なくなるんだよね。フラフラと…」


「心細かったなぁ… それでもやっとの思いで探し出すと、道ばたで倒れていたりするん
 だよね」


「母が恋しかったなぁ。羨ましかった、妹や弟たちが」


『そんな思いをしても、お父さんと居たのはなぜなんですか?』


「何度も思いましたよ、母の所に行こうって。だってまだ小学生なんだもん。よく生きて
 たよなぁ」


「ずっと後になっても考えましたよ、あの時、母のところに戻っていたらって…」


「でもね、どう考えても母や妹達の疎開先に僕はは居場所をみつけられないんだ…」


「想像の中なのに、早く父親の所に帰ってやらなくちゃ。ここに居るわけにはいかないっ
 て思うんだよね」


「父親のことを分かっていて、自分だけ幸せになることは出来なかった…」と甘井さんは
 いった


 そんな混沌の中を生き延びた父親も、終戦後すぐ、病気で亡くなった


 母や弟妹と再会した甘井さんは、そこから自分の人生を切り開いていった


「こんな父さえ居なければ…、あの頃の自分はそう思っていたとずっと思ってきた」


「でも今、話してみてそうじゃなかった事に気づいたね。僕は母だけじゃなく父のことも
 好きだったんだ。だから両親のために自分の出来ることをしなければ…そう思って生き
 ていたんだね。そんな少年だった自分を今ねぎらってやりたいね…」


 そう語る甘井さんを、私は黙って見ていた。













☆『日本例話大全書』有馬朗人・中西進他 四季社 2001年 ②【再掲載 2015.2】

[出版社の案内]
朝礼・祝辞・講話・挨拶・激励・人生相談にも活用できる「生き方の指針」。先人の軌跡
と人柄をより深く知るための人物関連書籍データ、テーマ別索引、人名索引付き。
井深八重さん、本書を読むまで存じませんでしたが、その強さと信念に驚きました。
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<生老病死>

□泣いて敵将を討ち取る 熊谷直実

  熊谷直実(1141~1208)
    鎌倉初期武将


 一の谷の戦い(1184)
若武者と一騎打ち 薄化粧した平敦盛16歳

涙ながらに討ち取る

→ 直実のちに出家して法然の弟子となる

 

□歴史を変えた命乞い 池禅尼

 平治の乱(1159)で源頼朝(1147~1199)捕らえられる

  → 平頼盛の家来である弥兵衛宗清に預けられた


弥兵衛宗清が哀れに思い敦盛の母池禅尼に命乞い
「亡くなった自分の実子である家盛に似ている」
- しかし清盛は聞き入れず


 池禅尼何回も嘆願
   → 伊豆蛭ケ小島に島流し(これがなければ平家滅亡は…=ハマコウ註)

 

□子を亡くした父の祈り 山上憶良

山上憶良(660~733) 

   古日という幼子を亡くした

子を失って父にできるのは結局祈ること以外になかった

 

□覚悟のさらし首 近藤勇

 近藤勇(1834~1868)京都守護職・松平容保の直属武士集団「新撰組」局長 


 鳥羽伏見敗戦後 
   甲陽鎮撫隊 
   - 甲州・流山 
   - 官軍に降伏


 明治元年(1868)4月25日 板橋で斬首 35歳
さらし首を覚悟して髭を剃った

 

□迷惑を掛けないように 結解勘兵衛

 結解勘兵衛 - 浪人 
   覚悟の焼死 蒲生氏郷の元家臣


 明暦3(1657)年正月 「振り袖火事」「丸山火事」
  天徳寺の雑用
    - 火事
    - 寺宝を守り本堂で座禅のまま焼死



□いのちを奪うことの罪深さ 小林一茶

 小林一茶(1763~1827)

  「おらが春」に蛇の祟りの話

 

□冷静に死を見つめた生前葬 河竹黙阿弥

 河竹黙阿弥(1816~1893) 
   明治22年12月24日「生き弔い」



□死亡広告を頼んで息絶える 斎藤緑雨(1867~1904)



□サソリの後悔 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」

 

□病気も縁の内 西有穆山

西有穆山 (にしありぼくざん 1821~1910)
   島田・伝心寺  赤痢にかかるも読書

 

□涙は人のために流すだけ 井深八重

 井深八重(1897~1989)
  1919年夏ハンセン病と診断
  
   同志社女子専門学校卒 

  - 長崎県高等女学校に勤めたあと

 神山復生病院に(御殿場) らい収容施設



 一年後 誤診が判明
レゼー神父(院長)は退院を勧める

しかし、彼女は看護婦資格を取り戻ってくる



 60年あまり過ごす
   「涙は人のためにだけ流しなさい」


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