「新時代の教育をどう構想するのか」藤田英典 岩波ブックレット№533 2001年 ⑦ /「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公 町ぐるみが小楠姓の浜松市堤町一帯」(『東海展望』より 年、号は不明)①(上)【再掲載 2017.3】 [読書記録 教育]
今回は、2月9日に続いて、藤田英典さんの
「新時代の教育をどう構想するのか」の紹介 7回目です。
出版社の案内には、
「首相の私的諮問機関として各界の識者を集め、集中的な討議をへて発表された教育
改革国民会議の報告は、教育基本法の見直し・奉仕活動の必要性など、大きな関心
を呼び、今後の政策に反映必至の重大な提案を含んでいた。委員として参加・発言
した教育学者が提案内容を検証・批判しながら『いま本当に必要な教育改革とは』
を訴える。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「国民会議の提案は無理を放置したままで、学力低下批判に対処しようとしてい
る。すなわち、『できる子供』『恵まれた家庭の子供』にはどんどん先に進め
るように優遇し、そうでない子供には『分に応じた教育を受ければよい』と
して差別しようとしている。」
・「一部のエリートだけに経済競争力や科学技術力は支えられているのではな
い。すべての人がそれぞれに有為な存在である。すべての子供がそれぞれ
に自分の力を発揮し、充実した生活を過ごすことができるようになってこ
そ、社会の活力は高まる。」
・「『教育の再武装』をすべき」
守るべきを守らないで、規制を外せばバラ色だということは…。
もう一つ、再掲載となりますが、『東海展望』誌より
「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公 町ぐるみが小楠姓の
浜松市堤町一帯」①(上)を載せます。
愛犬の散歩コースとして時に通る「六所神社」「好徳寺」の名前があり、
興味をもって読みました。
確かに「小楠」姓が多いのですが…。
下の案内にある「和Olieve園」も、この堤町にあります。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「新時代の教育をどう構想するのか」藤田英典 岩波ブックレット№533 2001年 ⑦
◇教育の階層的分断化と社会的活力低下の危険 <危険②>
□問題 「ゆとり教育」に関わるもの
◎ 「ゆとり教育」の見直し自体は好ましいが、それを教育機会の能力
主義的差別化によって進めようとしているところに問題がある。
↓
※ 学校五日制とそれに伴う学習時間の大幅削減をそのままにして学力低下
を阻止しようとしているところに、そもそも無理がある
∥
◎ 国民会議の提案は、この無理を放置したままで、学力低下批判に対処しよ
うとしている
= 「できる子供」「恵まれた家庭の子供」にはどんどん先に進めるように優
遇し、そうでない子供には「分に応じた教育を受ければよい」として差別し
ようとしている。
↑
◎ 一部のエリートだけに経済競争力や科学技術力は支えられているのではな
い。すべての人がそれぞれに有為な存在である。すべての子供がそれぞれに
自分の力を発揮し、充実した生活を過ごすことができるようになってこそ、
社会の活力は高まる。
□「教育の再武装」をすべき(藤田)
① 個人の尊厳と自律性を前提とした道徳再武装
② 個々人の自律性と多様性を前提とした強制的な市民社会の形成
③ すべての子供の自立と豊かな人生設計が可能となるような基礎学
力と自立心・自尊心の形成
☆「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公 町ぐるみが小楠姓の浜松市堤町一帯」(『東海展望』より 年、号は不明)①(上)【再掲載 2017.3】
浜松市の南部新津海岸の近くに堤町という戸数70戸ほどの町がある。
旧浜名郡新津村堤で、江戸時代には敷地郡堤村として、米津、小沢渡、新橋、
などと共に浜松の井上河内守の領下にあった。
遠江風土記伝によると
「堤村高24石7斗4合、海に属る、波除堤高さ巾定まらず、舞阪宿に至る間、
南間の波涛を除く…」
とある。
つまり堤の地名は海岸に構築された堤があったところからつけられたものであ
ろう。
浜松の市街地を西に東海道(国道1号緑)を進むと、浜名郡可美村(現浜松市)
との境界地点で道路が右にゆるやかなカーヴをみせているが、そのカーヴ地点か
ら東海道に分れ、南にのびている市道を米津海岸にむかって1㎞ほど入った農村
地帯が堤町である。
今でこそ(おそらくは50~60年前=ハマコウ註)70戸を数えるようになった
が、明治から大正そして昭和も戦前までは50戸たらずの小部落であった。
しかも、50戸のうちの80%が小楠姓を名乗っている特異な同姓部落である。
おもしろいことには、この小楠一統の人たちはすべて自分たちの先祖は大楠公
楠木正成の一族であり、後裔であると信じ、忠臣華やかなりし戦前までは大変な
鼻いきであったという。
今では正成、正行の相場下落で、若者たちは口にせぬようになったが、里の古
老の頭の中には、いまだ楠公の権威が生きているのである。
では、堤町の小楠一族と楠正成とは一体どういう関連をもっているのであろう
か…。
この点については確たる史料も根拠もなく、将来においてもこれを裏づける史
料の発見もまず期待出来ないだろうからいきおい口碑伝説にたよる以外にはなか
ろうが、本誌編集部がルポしたところによると次のような巷談が成立した。
◇南臣・楠木伊兵衛
「神主小楠の祖は楠正成公家の士族にして、君公より姓を賜ひこの地に来り、引
馬海道堤新田を開発し、土民となり、正平3年君公正行卿四条畷合戦の時、明
神へ皇軍勝利を御祈願ありしと。又寛文6丙午年、領主太田備中守資宗殿、御
造営ありと云ひ伝う。今小楠家は分家一族45社頭と共に盛なり」
この古文は郷土雑筆『遠南のしぶき』にみえているものであるが、小楠と楠正
成とを結びつけている資料としてはこれだけであって、これも良質の史料ではな
い。
古文のなかにみえている「明神へ皇軍勝利を御祈願云々」とある明神とは現在
堤町にある六所神社(戦前まで村社)のことで、土地っ子は六所明神とも呼んでい
る。
東海道から分かれて米津海岸にゆく道路の西側にある森が六所神社で、神社の
道をへだてて東側にある堂宇が、馬頭観世音をまつる観音堂で、昔は好徳寺(堤
町)の境外仏堂であった。
ところで小楠一族の初代は小楠伊兵衛を名乗った南朝の武士であったという。
その伊兵衛が遠州のこの海岸にやってきたのは遠江において南朝方の臣を募る
ためで、時に南北朝時代であった。
楠正成の出身については不詳なところが多く、決めつけることは出来ないが、
河内の土豪であったことは間違いない。
農村部における新興勢力を背景に台頭、やがて後醍醐天皇の討幕計画にまっさ
きに参加、赤坂城や千早城にたてこもって奮戦建武中興後は検非違使左衛門尉兼
○○○○の反乱にあったが他の諸将と共に尊氏軍を破り九州に走らせた。
しかし軍勢をたてなおした尊氏は20万の大軍をもって東上してきた。
これよりさき、正成はなんとしてでも自軍の拡大強化をしなくてはと一族の一
人伊兵衛を呼び、遠江において、勤王の士を募り勢力の結集をはかってもらいた
い…と頼んだ。
伊兵衛の遠江入りはこうした動機によるものだったという。
伊兵衛は一族と共にはるばる遠江の土を踏み、小楠の姓を名乗って堤に居を構
えた。
その頃伊兵衛は楠木を名乗っていたが、世をしのび、敵の目をくらますために
小楠としたものだという。
「新時代の教育をどう構想するのか」の紹介 7回目です。
出版社の案内には、
「首相の私的諮問機関として各界の識者を集め、集中的な討議をへて発表された教育
改革国民会議の報告は、教育基本法の見直し・奉仕活動の必要性など、大きな関心
を呼び、今後の政策に反映必至の重大な提案を含んでいた。委員として参加・発言
した教育学者が提案内容を検証・批判しながら『いま本当に必要な教育改革とは』
を訴える。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「国民会議の提案は無理を放置したままで、学力低下批判に対処しようとしてい
る。すなわち、『できる子供』『恵まれた家庭の子供』にはどんどん先に進め
るように優遇し、そうでない子供には『分に応じた教育を受ければよい』と
して差別しようとしている。」
・「一部のエリートだけに経済競争力や科学技術力は支えられているのではな
い。すべての人がそれぞれに有為な存在である。すべての子供がそれぞれ
に自分の力を発揮し、充実した生活を過ごすことができるようになってこ
そ、社会の活力は高まる。」
・「『教育の再武装』をすべき」
守るべきを守らないで、規制を外せばバラ色だということは…。
もう一つ、再掲載となりますが、『東海展望』誌より
「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公 町ぐるみが小楠姓の
浜松市堤町一帯」①(上)を載せます。
愛犬の散歩コースとして時に通る「六所神社」「好徳寺」の名前があり、
興味をもって読みました。
確かに「小楠」姓が多いのですが…。
下の案内にある「和Olieve園」も、この堤町にあります。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「新時代の教育をどう構想するのか」藤田英典 岩波ブックレット№533 2001年 ⑦
◇教育の階層的分断化と社会的活力低下の危険 <危険②>
□問題 「ゆとり教育」に関わるもの
◎ 「ゆとり教育」の見直し自体は好ましいが、それを教育機会の能力
主義的差別化によって進めようとしているところに問題がある。
↓
※ 学校五日制とそれに伴う学習時間の大幅削減をそのままにして学力低下
を阻止しようとしているところに、そもそも無理がある
∥
◎ 国民会議の提案は、この無理を放置したままで、学力低下批判に対処しよ
うとしている
= 「できる子供」「恵まれた家庭の子供」にはどんどん先に進めるように優
遇し、そうでない子供には「分に応じた教育を受ければよい」として差別し
ようとしている。
↑
◎ 一部のエリートだけに経済競争力や科学技術力は支えられているのではな
い。すべての人がそれぞれに有為な存在である。すべての子供がそれぞれに
自分の力を発揮し、充実した生活を過ごすことができるようになってこそ、
社会の活力は高まる。
□「教育の再武装」をすべき(藤田)
① 個人の尊厳と自律性を前提とした道徳再武装
② 個々人の自律性と多様性を前提とした強制的な市民社会の形成
③ すべての子供の自立と豊かな人生設計が可能となるような基礎学
力と自立心・自尊心の形成
☆「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公 町ぐるみが小楠姓の浜松市堤町一帯」(『東海展望』より 年、号は不明)①(上)【再掲載 2017.3】
浜松市の南部新津海岸の近くに堤町という戸数70戸ほどの町がある。
旧浜名郡新津村堤で、江戸時代には敷地郡堤村として、米津、小沢渡、新橋、
などと共に浜松の井上河内守の領下にあった。
遠江風土記伝によると
「堤村高24石7斗4合、海に属る、波除堤高さ巾定まらず、舞阪宿に至る間、
南間の波涛を除く…」
とある。
つまり堤の地名は海岸に構築された堤があったところからつけられたものであ
ろう。
浜松の市街地を西に東海道(国道1号緑)を進むと、浜名郡可美村(現浜松市)
との境界地点で道路が右にゆるやかなカーヴをみせているが、そのカーヴ地点か
ら東海道に分れ、南にのびている市道を米津海岸にむかって1㎞ほど入った農村
地帯が堤町である。
今でこそ(おそらくは50~60年前=ハマコウ註)70戸を数えるようになった
が、明治から大正そして昭和も戦前までは50戸たらずの小部落であった。
しかも、50戸のうちの80%が小楠姓を名乗っている特異な同姓部落である。
おもしろいことには、この小楠一統の人たちはすべて自分たちの先祖は大楠公
楠木正成の一族であり、後裔であると信じ、忠臣華やかなりし戦前までは大変な
鼻いきであったという。
今では正成、正行の相場下落で、若者たちは口にせぬようになったが、里の古
老の頭の中には、いまだ楠公の権威が生きているのである。
では、堤町の小楠一族と楠正成とは一体どういう関連をもっているのであろう
か…。
この点については確たる史料も根拠もなく、将来においてもこれを裏づける史
料の発見もまず期待出来ないだろうからいきおい口碑伝説にたよる以外にはなか
ろうが、本誌編集部がルポしたところによると次のような巷談が成立した。
◇南臣・楠木伊兵衛
「神主小楠の祖は楠正成公家の士族にして、君公より姓を賜ひこの地に来り、引
馬海道堤新田を開発し、土民となり、正平3年君公正行卿四条畷合戦の時、明
神へ皇軍勝利を御祈願ありしと。又寛文6丙午年、領主太田備中守資宗殿、御
造営ありと云ひ伝う。今小楠家は分家一族45社頭と共に盛なり」
この古文は郷土雑筆『遠南のしぶき』にみえているものであるが、小楠と楠正
成とを結びつけている資料としてはこれだけであって、これも良質の史料ではな
い。
古文のなかにみえている「明神へ皇軍勝利を御祈願云々」とある明神とは現在
堤町にある六所神社(戦前まで村社)のことで、土地っ子は六所明神とも呼んでい
る。
東海道から分かれて米津海岸にゆく道路の西側にある森が六所神社で、神社の
道をへだてて東側にある堂宇が、馬頭観世音をまつる観音堂で、昔は好徳寺(堤
町)の境外仏堂であった。
ところで小楠一族の初代は小楠伊兵衛を名乗った南朝の武士であったという。
その伊兵衛が遠州のこの海岸にやってきたのは遠江において南朝方の臣を募る
ためで、時に南北朝時代であった。
楠正成の出身については不詳なところが多く、決めつけることは出来ないが、
河内の土豪であったことは間違いない。
農村部における新興勢力を背景に台頭、やがて後醍醐天皇の討幕計画にまっさ
きに参加、赤坂城や千早城にたてこもって奮戦建武中興後は検非違使左衛門尉兼
○○○○の反乱にあったが他の諸将と共に尊氏軍を破り九州に走らせた。
しかし軍勢をたてなおした尊氏は20万の大軍をもって東上してきた。
これよりさき、正成はなんとしてでも自軍の拡大強化をしなくてはと一族の一
人伊兵衛を呼び、遠江において、勤王の士を募り勢力の結集をはかってもらいた
い…と頼んだ。
伊兵衛の遠江入りはこうした動機によるものだったという。
伊兵衛は一族と共にはるばる遠江の土を踏み、小楠の姓を名乗って堤に居を構
えた。
その頃伊兵衛は楠木を名乗っていたが、世をしのび、敵の目をくらますために
小楠としたものだという。
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