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「大人になれないこの国の子供たち」町沢静夫  PHP 1999年 ④ /「楊子町で声張り上げたひばりと川田晴久」『東海展望』1959年8月号【再々掲載 2011.8】 [読書記録 教育]

今回は、7月8日に続いて、町沢静夫さんの
「大人になれないこの国の子供たち」の紹介 4回目です。




出版社の案内には


「本書は、精神科医の視点から、今の子どもたちがいかに成熟を拒否し、
 大人になる責任から逃れようとしているかを論じたものである。そも
 そも大人になるとはどのようなことか。著者は4つのポイントをあげ
 ている。まず、自己の内面や感情のコントロールができること。第二
 に、独立心の獲得。第三に、人生の目標や計画を主体的に形成できる
 こと。第四に、他人への思いやりや共感があることである。このよう
 な点から見れば、現代の子ども(青年)たちがいかに幼稚であるかが
 わかるだろう。そして数々の症例をもとに解説している。不登校の原
 因、普通の子どもによる凶悪犯罪、行きすぎた潔癖主義、ボーダーラ
 インと閉じこもり、拒食症と強迫神経症等々。 著者の考えでは、こ
 れらの根本問題は『母子密着』をどう解決するかであると指摘する。
 母性社会ニッポンのゆがんだ構造がみえてくるだろう。豊かな国の寂
 しい子どもたちの心の危機がリアルに伝わってくる好著である。」


とあります。


今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「子どものモラル喪失の原因はあきらかな父母の初期のしつけの欠落
にある。親はそのしつけを学校の先生に押しつけようとしている」


・「日本のようにモノがすべてそろった豊かな社会では,人の心はま
  すますバラバラになってまとまりを失い,心のふれあいをなくして
幸福を失っていき、社会に虚無感を漂わせる」


・「本当の意味の個人主義を小さい時から学び尽くさなければならな
い。○どんな人間であっても生きる価値はある ○多種多様な生
き方であってもそこに差がない ○この人が幸福ならばそれは幸
  福な生き方である、それぞれの価値観を認めることが大切」





もう一つ、再掲載となりますが、古い雑誌『東海展望』の記事から、
「楊子町で声張り上げたひばりと川田晴久」を載せます。
楊子町の林泉寺、大先輩であり恩師でもあるマサアキ先生のご実家。
ご住職としても務められていらっしゃいました。
新任校でお世話になってから、亡くなられるまで多くのことを学びまし
た。
林泉寺と聞くと、浜松空襲の女学生と共に美空ひばりを思い出します。






<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト






ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。





☆「大人になれないこの国の子供たち」町沢静夫  PHP 1999年 ④

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◇豊かな国の寂しい子供たち(3)

□行きすぎた潔癖主義の若者たち

  使用されない大便トイレ
    ・ プライバシーを気付かれることが恥
・ 皆が使うものに強い不潔感


  砂場を消毒せよと要求する母親
・ つるつるピカピカは人工的なもの
  生きるためにどれほどの意味を持つか
※ 強迫性障害


  いじめに対する免疫力を付けよ
  いじめに対応できる免疫力や知恵・精神力を付けることが大切
  |
 共同体社会の崩壊 
     ◎ ゲマインシャフトとゲゼルシャフト


  しつけを教師に押しつける親たち
◎ 子どものモラル喪失の原因はあきらかな父母の初期のしつけ
     の欠落にある
 → 親はそのしつけを学校の先生に押しつけようとしている

  集団遊びの喪失
    → 対人関係がもてない

人間関係を育成する教育



□ボランティアがごく自然に行われる社会

  新しい子供たちの関係をつくるにはボランティアが必要

◎ 最終的には人間の幸福とは人の心と心が繋がることにある
自然にボランティアが行われる人格を!
↑↓
◎ 日本は競争社会 「団らん」が奪われている



□豊かさの裏に潜む虚無感
人間関係が希薄になり,人ととの関係を結ぶ喜びが少なくなっていく社
 会は,実は頽廃期の社会である。

◎ このような社会はモラルの明確な力強い民族に取って代わられる。
ある意味で貧困さは人間の心をまとめ団結心を強め,具体的な目標を
  提示してお互いのささやかな喜びを明白にしてくれる。
しかし,日本のようにモノがすべてそろった豊かな社会では,人の心
  はますますバラバラになってまとまりを失い,心のふれあいをなくして
  幸福を失っていく → 社会に漂う虚無感
   ↑
◎ 人と一緒に喜び合うことを!



□本当の個人主義とは孤独に強い
個人主義の習得
本当の意味の個人主義を小さい時から学び尽くさなければならない
◎ どんな人間であっても生きる価値はある
◎ 多種多様な生き方であってもそこに差がない
◎ この人が幸福ならばそれは幸福な生き方である

◎それぞれの価値観を認める
↑↓
◎私たちが今個人主義だと思っているのは実は利己主義
  利己主義 - 放縦,孤独に弱い自由であり無責任な自由

個人主義を信じるなら人の自由を尊重して孤独に強くなけれ
      ばならない
  ↓
◎◎◎ 初期のしつけをこそ!◎◎◎









☆「楊子町で声張り上げたひばりと川田晴久」『東海展望』1959年8月号【再々掲載 2011.8】

 浜松市楊子町の古刹林泉寺の境内にある毘沙門天は花柳界の守り本尊であ
る。


 毎月3日の縁日にはいろいろの願いごとを胸に畳んだ綺麗どころの一団で
百花が妍を競う。
 

 ことに4月3日は縁日中の縁日で咲きこぼれる桜の花が文字通り錦上華を
添えるのである。


 今から12、3年前まだ終戦政府の混乱も跡を絶たず、一方娯楽に飢えた
国民によって素人の村芝居などが機会あるごと俄かづくりの舞台で幕をあけ
たり閉めたりしたころ、やっと甘味がかすかに舌の先にのこる綿菓子を片手
で頬ばり乍ら,飛入りで集うみすぼらしい少女があった。


 色褪せたつんつるてんのスカート、小指の飛び出したズック、どうみても、
闇米で肥えふとった農家の娘たちよりは貧相な身装りの女の子だった。


 然し綿菓子をほうばりほうばりの片手間にロからとび出す並木みち子のヒ
ット曲「林檎の唄」を真似る声はスカートやズックとは似ても似つかぬ素晴
らしさで喝釆の嵐浴びていた。



◇重症カリエスで来浜

 歌謡漫談の一座「ダイナブラザー」のチーフ川田晴久が重症の脊椎カリエ
スを療養するため文子夫人を同伴して林泉寺本堂に身を寄せたのは22年春
先きだった。


 両足がつって歩行さえもまゝにならぬという最悪の症状にいた川田晴久は
ここで大河内仁三郎さんの灸療法をうけるために来ていた。


 川田晴久の脊椎カリエスはほとんど固疾といってもよい程の持病になって
いた。


 いま北寺島町で大河内温熱療院を経営している仁三郎さんが子供の時の大
火傷から両手両足が変型し整型外科治療をうけるため信濃町の慶応病院に入
院した昭和17、8年当時隣室のベッドで脊椎カリエスの療養を続けていた
のが川田晴久だった。


 大河内さんは全快し、川田も小康を得てそれぞれ退院してからも入院中培
った二人の友情はそれ以来一昨年6月川田晴久が死ぬまでの十年間兄弟以上
のよしみとして続けられた。


 鴨江で戦災をうけ水窪に疎開していた大河内さんは戦火が消えるとともに
市中に引き揚げ家を新築するまで檀家寺にあたる林泉寺の一室を借りこゝで
灸店を始めた。


 そこへ終戦前後の過労でまたぶり返した持病の相談を川田晴久からうけた
大河内さんは自分の手許に呼んで灸療法でいくらかでも治やしてやろうとい
うことになった。


 しかし物堅いお寺にとって芸人が間借りするということはちょっとした問
題であった。


 芸人とは世間の常識から一歩外れた日常生活を階級と考えられていたのだ
から問題にされたのも当然だった。



◇綿菓子片手に歌う小娘

 然し林泉寺に来た川田の常住座臥は謹直そのもゝ、前身が女優の婦人がモ
ンペばきで遠くから炊事の水を運び男下駄で買物に行く地味な姿と共隣隅近
所の人々をびっくりさせた。


 健康な時には野菜はおろか飯もくわず肉ばかりを貪り喰うといった極端な
偏食も批処に来てからは大河内さんや文子夫人の忠告を守ってせっ生を続け
た。


 近所の青年たちが来れば布団の上に起き直ってギター、ウクレレを教えた
日もあった。


 そんな日常のつれづれを慰めるかたわら彼に歌をおそわりに横浜から度々
訪れて来るみすぼらしい少女があった。


 名前は加藤和枝といった。


 来る時はいつも母と一緒だった。


 当時流行し始めた素人のど自慢で笠置しず子そっくりのおませな真似をし
て歌謡界から注目し始められた加藤和枝を将来が楽しめそうだと期待をかけ
たのが川田晴久だった。


 和枝はその真似ぶりを見込まれて藤尾純、伴淳三郎、日暮里子らが組織し
ていた新風ショーに子役として出るようになった。


 しかしあくまでも人真似の彼女の喉は本格的な歌謡歌手という訳にはゆか
なかった。


 川田晴久は一人前の歌手として成長させるために当時まだ小学校5年かそ
こらの彼女を頻繁に林泉寺に呼んで本格的な練習をつませた。


 部落の人たちを集めてその前で歌わせ舞台度胸をつけさせることも修業の
一つだった。


 綿菓子をほうばり乍ら歌った少女がこの加藤和枝だったのである。



◇灸療師と3人の歌手

 昭和23年6月横浜の国際劇場で開かれた歌謡大会で笠置しず子と揃って
出演した少女歌手美空ひばりはあたかも笠置と競演という皮肉な結果になり
笠置はひばりのためにジャズ歌手の王座から引きづり下ろされ、ひばりが大
きく流行歌手としてクローズアップされるに至った。


 浜松市外の片田舎で色褪せたスカートに指の出たズック、綿菓子片手に身
ぶり手ぶりで謳った加藤和枝が美空ひばりと名のり五彩のライトを満身に浴
びての晴れの舞台姿だった。


 23年暮大河内仁三郎氏の友情をかけた治療によって頑固な脊椎カリエス
も癒えた川田晴久は大河内氏、林泉寺、そして地元の人々の熱い情けに幾度
も感謝の頭を垂れて東京に引き揚げて行った。



 一昨年初め、舞台の階段でつまずいて赤坂の前田外科に入院したが治療中
腎臓結核を併発、6月20日遂に50歳で病苦の生涯を閉じた。


 会葬通知の友人総代に名を連ねていた美空ひばりの成長ぶりは川田晴久に
とって何よりの嬉びであり供養だったに違いない。



 美空ひばりによって王座から蹴落とされた笠置しず子も昭和19年、まだ
花月劇場といった頃の浜松座に出演中急性リユウマチで大河内さんの許には
こばれたこともあったというから大河内さんを取巻く因しき三人歌手の因縁
ともいえよう。


 いまスランプにあるといわれる美空ひばり、東京で旅館「川田」を経営す
る文子未亡人、吉本興行の御曹子との間に出来た一人粒とつましく生きてい
る笠置しづ子、近づく楊子六所神社の夏まつりを前にそれぐ思い思いの追想
を浜松の空に馳せていることだろう。

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