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「教えることの復権」大村はま・苅谷剛彦・苅谷夏子 ちくま新書 2003年 ① /「歴史の風景」木村尚三郎 山川出版社 2003年 ①【再掲載 2015.7】 [読書記録 教育]

今回は、大村はまさん、苅谷剛彦さん、苅谷夏子さんの
「教えることの復権」1回目の紹介です。



出版社の案内には、

「今、日本の教育界では、子どもの自主性を大切にしようと、『教える』
 ことよりも『学ぶ』ことに重点を置きはじめたように見える。これまで
 の『詰め込み』への反動であろう。だが一方で、教師の役割を軽視しす
 ぎてはいないだろうか?本書では、教師が『教えるということ』をもう
 一度正面から見つめ直し、今もっとも必要なことは何かということを、
 すぐれた教師とその教え子、教育社会学者の間で徹底的に考える。」

とあります。




今回紹介分より強く印象に残った言葉は‥

・「どうも国語は生ぬるい」
「中学校は大人になる学校だから『話はいっぺんで聞きなさい』という緊
  張感が大切である」


・「教師には気迫が必要。エネルギッシュな職業人でありたい」


・「話し合い活動では、教師は子どもがつっかえたら自分が司会者になって、
すっと引っ込む、困るとすっと入りすっと引く姿勢が必要だ。教師は決
  して批判しない、こういう事を言いなさいと言うべきではない」




もう一つ、再掲載になりますが、木村尚三郎さんの
「歴史の風景」①を載せます。
木村さんは浜松にある静岡文化芸術大学の初代学長を務められていました。
なお、現在静岡県知事の川勝平太さんはその次の学長でした。







<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。






☆「教えることの復権」大村はま・苅谷剛彦・苅谷夏子 ちくま新書 2003年 ①

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◇「大村はま国語教室」への扉 苅谷夏子
 「どうも国語は生ぬるい」

 授業のありがたみが分からない

 小柄な女性教師との出会い
区立石川台中学校(大田区) 
     当時63歳の大村はま
宿題確認
    - 事情を書いた紙のやりとり
昭和44年 ヨーロッパの土産話
    - おもしろい


◇言葉文化を学ぶことの価値観 大村はま・苅谷夏子 
大村教室の雰囲気
国語 授業中の記録 てびき 資料 週刊の国語教室通信
作業のためのメモ・構成案 作文 試験 評価表

学期末にすべてバインダーにとじる
ページ、目次、前書き、後書き、タイトル
図書室での授業
教材
    - 書評、広告、放送、日常言語、日録、PR誌

 普通の公立中学校で 
   中学校は大人になる学校
   「話はいっぺんで聞きなさい」という緊張感
     お詫びをしないと話さない 
     掲示 … 1日ではがす  
     気迫 エネルギッシュな職業人

 勉強には時間もお金も惜しまない
   明るい雰囲気の中で伝えられた


◇大村はま国語教室の実践  大村はま・苅谷夏子
1 生徒の目から見た単元学習の実践
A 単元「ことば」ということばはどのような意味で使われているか
・「何となく分かる」を「はっきり分かる」に
  辞書で言葉を引く
・教科書一冊から「ことば」という単語を拾う
カードに書き集める
・「常に二つを比べる」カードの振り分け作業
いつでも二つを比べる
          → 分類
・気が付くと私家版の辞書ができていた
・地道な作業の積み重ねがいちばん大事

2 B 単元「わたしの履歴書」を読む(中3)
  ・自分の履歴書を書く
・「創造」とは迷った末に選び取ったもののこと
・生徒一人一人が個別の人物を読む
  わたしは-神近市子の自叙伝
・猛然と本に向かった幸せな読書体験

    (しめくくり)
      端的に表現し根拠とともに発表する

3 単元学習の本質とは
・教科書を丸ごと何回も使う
  ・単元「旅の絵本」安野光雄
・常に新しい教材を
         ① 教室へ出る自分の姿をよい状態で保つため
 = 新鮮な喜び
② 同じ単元だと以前の子どもと比較してしまう
・話し合いの指導 
「エーッ」と言いかけたときベルの音を 
           問答VS対話
・一生の基本となる力
・話し合いそのものを教える時間
※ 話し合いの前に話すことができる準備をする
           → 線の太いテーマで話し合い           
◎ 子どもがつっかえたら自分が司会者になって、すっと
          引っ込む
・困るとすっと入りすっと引く
         決して批判しない。こういう事を言いなさいと言わない。
               |
         こう言えばいいと思うことを実演する 
・話し合いのための準備










☆「歴史の風景」木村尚三郎 山川出版社 2003年 ①【再掲載 2015.7】

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◇日常性からの遮断

 入院中に新しい考えがひらめく、悟りをひらく、という経験をする人は少
なくない。


 それは、日常性から遮断され、ふだんの仕事から切り離されて、今まで見
えなかったものが見えてくるからである。


 入院中は、仕事のあいだ働いていた目とか手足は活動を休止し、その代り、
今まであまり気にかけなかった耳とか鼻とか皮膚感覚が活発に働き出す。


 ちょっとした音とか匂いに鋭敏になり、シーツとか包帯とかの感触が気に
なり出す。見えなかったものが見えてくるのは、そのためである。


 ヴァカンスも、入院と同じ意味を持つ。


 ヴァキューム(真空)と似た言葉であり、休養・休廷・欠員・空位空席、
つまりは空っぽの状態がヴァカンスである。


 仕事から自分を切り離し、たとえば海外旅行に出る。すると、今まで親し
くお付き合いをしていたはずの同僚の顔はフッと消え、ときには名前すら思
い出せない。


 その代り、小学校時代の恩師の顔とか言葉が急に浮かんできたり、カフェ
のボーイのちょっとした仕草から、これからの社会のあり方が予見されたり
する。


 日常性からの遮断によって防衛本能が強まり、身体の別の感覚が呼び覚さ
れて、猛然と働き出すからである。



 入院とまでは行かなくとも、山に入る、寺で座禅を組む、外国でくらす、
都会でビジネスマンがソバ屋の修業をする、その他何でもいい、自らを積極
的に日常性から遮断するとき、それまで隠れていたもう一人の自分が姿を現
す。


 その新しい自分がこれまでの自分に教えるからこそ、新しい発想がひらめ
くことになる。


 いわば、自分のなかでの異業種交流である。


 巨大なカテドラルの入口は、不似合なほど狭く小さい。


 それは、茶室の小さなにじり口と同じく、日常の生活空間にありながら日
常性から自分を遮断し、もう一人の自分を呼び覚すための装置である。


 入口が大きく日常性に開放されていたのでは、もう一人の自分は出てこな
い。


 書斎・研究室の入口も、小さくあるべしである。

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