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「月刊少年育成」2002年12月号 /「遠江の里」ひくまの出版 1979年 ②【再掲載 2014.7】 [読書記録 教育]

今日は7月12日、金曜日です。


今回は、かつての教育誌、
「月刊少年育成」2002年12月号を紹介します。


「月刊少年育成」は大阪補導協会から出されていたものです。


今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「時代の変容にこころが取り残される状態が不登校」


・「『登校拒否ははじめの3日が勝負』-八ツ塚実」


・「生まれることは楽しいこと」


・「『こんな風になりたい』と思わせる大人の存在が育てる子どもの夢」




もう一つ、再掲載になりますが、ひくまの出版の
「遠江の里」②を載せます。





☆「月刊少年育成」2002年12月号

◇増える一方の不登校をどうとらえるか(上) 伊藤友宣
  30年来増える一方 
    30 年前「登校拒否」平井信義 
時代の変容にこころが取り残される
子どもがまずこちらを確かめる 
    不本意にも張るべき弦が弛む
不登校は足がかりのない沼の底
はじめの3日が勝負 
    八ツ塚実「登校拒否ははじめの3日が勝負」
「だけど」の代わりに「だのに」


◇不登校児の進路相談
P19・20・21 不登校のタイプ
P23     不登校児の進路 


◇不登校 
  日本型都市社会の申し子 立石一信
「不登校と地域社会」
    不登校は社会病理
都市化の定義 
    親の育児能力貧困の背景
都市的生活様式としての離婚ないしハイリスク家庭


◇今どきの子どもたち 小林佳子(くもん子ども研究所)
生まれることは楽しいこと
「自然環境」を託す小学生 
    「平和」を託す中高生
子ども時代にすべきこと
なりたくないのは自己中心的な大人
なりたい大人は「両親」と「優しい人」
「こんな風になりたい」と思わせる大人の存在が育てる子どもの夢







☆「遠江の里」ひくまの出版 1979年 ②【再掲載 2014.7】

遠江の里.jpg

◇野と人と 那須田稔
  
<三方原合戦> 
□元亀3(1572)年10月 
  武田信玄 
    元亀3(1572)年10月 犬居城に入る(京を目指す大進撃)
もう一軍は気賀から井伊谷へ
  家康の部下・懸城の石川家成、高天神城の小笠原長忠
信玄は懸城、高天神城をそのままにして突然森、袋井、磐田i
徳川家康 
→ あわてて磐田見附に出陣
三箇野から一言坂へと退却に次ぐ退却

□元亀3(1572)年10月
武田信玄  
    二俣城が信玄の手に墜ちる
    信玄軍は南進
  有玉 → 西へ 追分で全軍統一
→ 北進 根洗松 
         → 祝田(ほうだ)の坂で軍をとめた
  徳川家康  
    浜松城を無視して京へ向かう信玄に腹を立てる
信長の意見も退けて出陣
↓↓

  <徳川家康軍>   VS  <武田信玄軍>
1万騎 3万騎
 31歳 52歳
鶴翼の陣 魚鱗の陣

↓↓

  家康軍総崩れ
家康は浜松城に逃げ帰り全門を開けて篝火を焚き大太鼓
→ 大太鼓・酒井忠次「酒井の大太鼓」
     → 太鼓は見付学校→磐田北小→見付天神社
信玄は奇計をおそれて引き返す

家康は百人の陣で犀ケ崖に奇襲
  信玄軍兵、驚きあわてて崖の谷に墜ちる
犀ケ崖 深さ40m幅50m長さ2㎞
現在は宗円堂


◇掘留川 亘理宏 
  掘留運河 
    井ノ田川掘割850間=1.5㎞
悪水堀 
     ~ 田の灌漑用悪水放出用水路

  田尻排水路 
    池(現体育センター北)
   明治4年開通 - 田圃の中を蒸気船が行く
掘割事業 - 村人が無給奉仕
 井上氏が運河経営者となる
明治14年 浜名橋  
  明治20年 東海道線開通 → 衰退
 
  菅原町 ~ 浜二塗料わき 
    伊場道路橋下
  田尻からの悪水と合する出会いの場所
→ 共に入野へと悪水は「悪水堀」


◇大刀洗池のことなど 平松實
  東京大学・高柳光寿博士
    昭和36(1961)年 週刊朝日に「家康史跡の物語」
大刀洗池 
    コンクリート
→ 揮毫・高柳博士 昭和39(1964)年12月
築山殿月窟廟の再興 大澤稔
  高松山西来院(浜松市広沢)
 昭和51(1971)年多額の寄付を一女性が
 → 家康の命によって命を絶った野中三五郎重政燈籠奉献
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コメント 10

mm

おはようございます^^
 わたくしの周りには「こんな人になりたい」と思う人はいなかったなぁ~(__;
by mm (2024-07-12 06:17) 

ハマコウ

mmさん ありがとうございます。
わたしも好きな大人はいましたが、
「こんな風になりたい」と思う人はいませんでした。
嫌だと思われない大人ならそれで良いのだとわたしは思います。
by ハマコウ (2024-07-12 07:07) 

老年蛇銘多親父(HM-Oyaji)

パソコンが家庭に普及して以来、世の中の変化変化のスピード変わってしまったことが、子供の不登校や成人であっても社会に適合できない人の話が増えているように感じてます。

地域の人々との繋がりによる互助精神が希薄となり、かってあった血縁者に代わってそうした人たちの救いの場が絶たれてしまった今、どうすれば良いのか考えさせらてしまいます。

人間も生物の一種、時代の急激な変化について行けないものが出るのも当然。

今後は、人間も生き物として画一的ではなく、その個性を見極めたうえの対応を、心がけることが必要ではと思っています。




by 老年蛇銘多親父(HM-Oyaji) (2024-07-12 20:54) 

ハマコウ

老年蛇銘多親父(HM-Oyaji) さん ありがとうございます。

小学生の頃、通知表の成績が良くなくても、いつもと変わりなく接した父母。元気なく帰っていたのでしょう、近所のおじさんに「どうした」と聞かれ、「先生に叱られた」と言ったら、「俺はお前の良さをわかってるよ」との言葉。学校、家庭、地域でのそれぞれの評価があった時代が懐かしい‥。
学校での評価だけというような時代になったともいえる今。苦しい子どもは多くなるはずだと感じます。
by ハマコウ (2024-07-12 21:37) 

いっぷく

>『登校拒否ははじめの3日が勝負』
3日で登校拒否が解決できるという話なのでしょうか。それとも3日の対応次第でその後の展開が変わってくるということでしょうか。いずれにしても、当事者からしてみたら「3日」という数字はおもわず手に取りたくなる短さですね。
by いっぷく (2024-07-12 22:07) 

萌田かずきち

三方ヶ原の戦い、懐かしいですね。武田信玄にボコボコに負けて本当に言ったか創作かはわかりませんが、家臣と共に戦って討ち死にすると言った松平家康(徳川家康)がかっこいいなあと子供の時思いました。
そういった過去の歴史人物によって、立派な人になろうという人格形成がなされていく事が大事なのだなあと改めて思います(*´ω`*)。
by 萌田かずきち (2024-07-13 03:51) 

ハマコウ

いっぷくさん ありがとうございます。

確かに分かりづらい表現ですね。3日間の対応次第で展開が変わるかもしれないということを指しています。
30年も前の言葉です。保護者から学校に行けないとの報告を受けても、「様子を見ましょう」と1週間も放っておかれることが多いのが問題だ。保護者と会うとか、学校での様子を調べるとか、素早く対応すべきだと指摘されています。
つながりをもち続けることが大切だと考えます。
by ハマコウ (2024-07-13 07:04) 

ハマコウ

萌田かずきちさん ありがとうございます。
失敗をいかすことができることがさすがだと思います。
浜松には、家康伝承がたくさん残されています。
(浜松市公式ホームページで[家康伝承一覧]で検索できます)
「家康くん」と親しまれるわけが分かります。
講談師が最初に覚える演目は『三方ヶ原軍記』だそうです。
テンポ良く聴いていて気持ちがよくなります。
by ハマコウ (2024-07-13 07:54) 

駄洒落好きな庭師

年老いたら実践すべきことが、網野善彦の本に書いてあるように思います。
by 駄洒落好きな庭師 (2024-07-13 12:59) 

ハマコウ

駄洒落好きな庭師さん ありがとうございます。
こだわることなく高齢者としての役割を果たしていこうと思います。

by ハマコウ (2024-07-13 20:44) 

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