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山折哲雄さんはこんなことを ⑬-「いのちの旅」山折哲雄対談集 現代書館 1997年 (1) / ふえる一方の不登校をどうとらるか(下)「学校の存在意義をとらえ直すきっかけ」 伊藤友宣(神戸心療親子研究室・主宰) 2001年 ⑩【再掲載 2015.5】 [読書記録 宗教]

今日は8月4日、日曜日です。




今回は、8月1日に続き、
山折哲雄さんはこんなことをの紹介13回目、
「いのちの旅」の紹介 1回目です。


出版社の案内には、


「終末論的状況の今、人はいかに『いのち』を全うするのか。宗教学者・
山折哲雄が、立花隆、アルフォンス・デーケン、永六輔など様々な識
者たちと根源的に「『いのち』を問い直す対話集。」


とあります。




今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「難しいことを易しく 易しいことを重く 重いことをおもしろく」
井上 ひさし


・「日本の神様は老人の姿『翁の文化』 それに対してキリスト教の神
の姿は不変」


・「心理的な死、社会的な死、文化的な死、肉体的な死と4つの死」


・「インドに家族が死に行く人の最期の看とりをする『死者のための
家』というところがある。家族もその体験から貴重な『死の準備
教育』の場となっている」


もう一つ、再掲載になりますが、伊藤友宣さんの
「ふえる一方の不登校をどうとらるか(下)-学校の存在意義をとらえ
 直すきっかけ」⑩
を載せます。
四半世紀近く経っても解決は難しい状況のままです。





☆山折哲雄さんはこんなことを ⑬-「いのちの旅」山折哲雄対談集 現代書館 1997年 (1) 
 
1.jpg

◇永六輔 1933生
人生や死を川柳的に捉えた

井上ひさし
  「難しいことを易しく 易しいことを重く 重いことをおもしろく」

「明るい悲哀感」

儒教
   「魂は天上に昇り 魄(たましい)は地下に残る」

長生きすることで死が切実な問題に  
    一神教 ~ 選び取ること
多神教 ~ あれもこれも

「命」をベースにした医療,教育,行政を
死があって初めて生がでてきた
→ 新しいものを作るために 親は死ななくてはならない
(ミジンコクラブ)
「人間の胎児は最初ごろんとした肉の塊だ。それがだんだん形
     を為していく。手もはじめはのっぺらぼうなんだけれど,だ
     んだん指を残して削り取られていく。それは,この細胞が自
     ら死んでいくことなんだ。」

  DNA
   ~ 仏教の無常観
- どのようにして政治と宗教の関係を現実的に運用していくか
 


◇アルフォンス・デーケン 1932生 ドイツ 上智大教授
日本人の死生観
    古代「霊肉二元論」
仏教「心身一元論」 二重構造

  老人は神に最も近い 
    神様は老人の姿「翁の文化」←→キリスト教 神の姿は不変

  「林住期」をどう送るか 
    区別を(生活年齢,生理年齢,心理年齢)
インド人の四住期
① 学生期         
      ② 家住期
      ③ 林住期(隠者の生活)  
      ④ 遊行期(聖者の生活)

  気配
   ~ 人の背後にある自然とのコミニュケーションが重要な軸
= 以心伝心のコミニュケーション

お葬式  
    本来は社交の場 → 流れ作業に

四つの死 
    ① 心理的な死 
② 社会的な死 
③ 文化的な死 
④ 肉体的な死

  「看取り休暇」を 親の末期状態時に
インド「死者のための家」
- 家族が死に行く最期の看とりて
= 家族もその体験から貴重な「死の準備教育」

「二十五菩薩来迎図」最期のイメージ
菩薩が笙や笛,太鼓 シンフォニック・オーケストラ

 




☆ふえる一方の不登校をどうとらるか(下)「学校の存在意義をとらえ直すきっかけ」 伊藤友宣(神戸心療親子研究室・主宰) 2001年 ⑩【再掲載 2015.5】

1.jpg

◇子どもからの痛哭の発言

 先年、斉藤次郎さんと芹沢俊介さんとが、章を書き次ぐ形式の一冊で
ある「この国は危ない」(雲母書房)を読んで印象に残っている例に、
登校拒否をはじめてから21歳になるまでの体験を綴って本にした桜井
隆光という青年の話があります。


 生徒を意味なく殴る教師などへの反発から不登校になり、学校なるも
のと決別して、演劇を志したり、拒食症に再度陥ったり、北海道、シル
クロード、アメリカ、カナダとひとり旅を体験し、ことばの壁や異文化
の立ち塞がりの中で、自死を思うしかない事態に遭遇しながら、子ども
にとって、自分と社会とのかかわりの間に、学校なるものが、どう必要
なのか、必要ではないのかを問い続ける記録の一冊だということで、私
の強い印象に残っているのですが、登校拒否だか不登校だかを、ただ一
律に、その当人の弱さの故の脱落だとばかりにみなす見解が見事に見当
違いであることを示している、実に厳しく苦い発言として貴重なもので
すね。


 登校拒否あるいは不登校の増大の一途であるこの20年の流れは、学
校や教員のシステムとか実質内容への根元的な問いかけをはらんだ現象
であることは間違いないのです。                                       


◇問題の多義性に惑わされる

 そもそも、登校拒否は、当人の病的な内因性の問題ととらえがちだっ
たものが、むしろ逆に子どもの側の問題というより、学校の側にはらむ
非人間的な、本来の教育なるものの本質から逸脱した現況への異議申立
てであるとする事例が指摘されはじめ、人権委員会への訴えなども起き
て、これらを一律に登校拒否と呼ぶことを排して、問題意識のために登
校しないものは、不登校と名づけようという動きがあり、不登校という
名称は、登校拒否との区別としてはじめられたものです。


 それがこの十年の間に、ことばの通りのよさだけではないと思うもの
の、二者の識別が曖昧になり、いつのまにやら、病欠や何らの明白な事
情によるものでない長期の欠席は、すべて不登校と名づけるようになっ
てしまいました。


 文部科学省の用語もそれに従ってしまっているのです。


 日本語の意味の多義性ということもあるためか、折角始まった用語の
使い分けが曖昧なものになり、それと同時に、問題のとらえ方自体がい
い加減なものにぼかされてしまい、更にまた、個々の子どもの状況を見
るに、前述の用語の区別に添うて考えてみて、登校拒否とすべきか不登
校に属するとみるべきかがとらえ難いケースが多いのも事実で、かく申
す私自身のこの文章も、問題の全容をとらえたいという頑張りのわりに
は、整理能力の非力さのために、もう一つ截然とした論断の力に欠けた
まま書き進んできてしまっています。
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