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「二つの憲法」井上ひさし 岩波ブックレット№812 2011年 ② /「土のいろ」集成 第十一巻 101~106号(後半)【再掲載 2017.1】 [読書記録 一般]

今日は12月3日、火曜日です。


今回は、11月21日に続いて、井上ひさしさんの
「二つの憲法」の紹介 2回目です。


出版社の案内には、

「近代日本とともに誕生した明治期の大日本帝国憲法。戦後、その帝国
 憲法を改正して発布された現在の日本国憲法。この二つの憲法はいか
 に生まれ、育ち、受けとめられ、議論されてきたのか。何が変わり、
 また変わらなかったのか。そもそも憲法って何なんだろうか。
 作家井上ひさしがやさしく語る、日本の憲法今むかし。」

とあります。


今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「伊藤博文は『我が国において基軸にすべきは、ひとり皇室あるのみ』
だから皇室を宗教にするしかないと考え、博文は皇室を宗教としよ
うと決心して草案を作った」


・「大日本帝国憲法の『第二章 臣民権利義務』には、権利については
全部に但し書きがある。民権を表に出しているがすべて制限されて
いる」


・「吉野作造の論文-『見せかけの立憲君主制を中身のあるものにする
ためには国民が勉強して知識道徳のレベルが高くならないといけな
  い』大正5(1916)年『中央公論』1月号」



もう一つ、再掲載になりますが、
「土のいろ」集成 第11巻101~106号(後半)を載せます。



☆「二つの憲法」井上ひさし 岩波ブックレット№812 2011年 ②

1.jpg

2 大日本帝国憲法ができるまで
明治維新  
     宮島誠一郎(左院の小議官儀制課長)の「立国憲議」
「我が国はずっと君主独裁であり、そして人民は○○であ
       る」
君主独裁が基本
        = 立法府の考え 左院(板垣、西郷、後藤)
宮島「立国憲議」を
         1881(明14) 岩倉具視に提出
1883(明治16)伊藤博文に提出


   元老院に対する勅語
「建国ノ体ニ基キ」「広ク海外各国ノ成法ヲ斟酌シ」
① 黒田清隆   
          絶対君主制でいい
② 大隈重信ら  
         妥協しながら憲法を作り後に立憲君主制に転換
③ 伊藤、井上毅ら
         立憲君主制の形をとり内容は絶対君主制


   伊藤博文の憲法調査
明治14年(1811)植木枝盛「日本国国憲集」
       人権宣言そのものの平等思想


   金子堅太郎「伊藤公を語る」
     国体は?


   伊藤博文 
    「枢密における憲法制定の根本精神についての○○」
「我が国において基軸にすべきは、ひとり皇室あるのみ」
     → 皇室を宗教にするしかない!
    ◎ 近代日本はオウム真理教だったのではないか

博文は皇室を宗教としようと決心して草案を作った
草案の中身は君権を基軸


   「大日本帝国憲法」発布
明治22(1899)年2月11日発布 「やまと新聞」付録
◎「読本憲法の百年」作品社 全三巻
第一章 天皇  
           天皇の大権多数 - 君権基軸
第二章 臣民権利義務
権利については全部に但し書き
           民権を表に出しているがすべて制限されている 
第三章 帝国議会 
           三権分立せず天皇一人にすべての権力が集中
            = 絶対君主制  


田中正造の質問趣意書
   明治34(1901)年3.24 演説


吉野作造の論文
大正5(1916)年「中央公論」1月号
「見せかけの立憲君主制を中身のあるものにするためには
    国民が勉強して知識道徳のレベルが高くならないといけ
    ない」

   まとめ
大切 フランス革命「人権宣言」第16条
◎ 近代憲法は「国民の権利の保障」と「権力の分立の確
     保」が明記されていなければいけない。個人の尊厳が守
     られないときは、実力行使による抵抗権がある

伊藤
      「仏教でも神道でもない、天皇自体を神さまにし、宗教に
       して国の憲法をつくっていこう」
天皇
        = 生き神様
制限付きの国民の権利
           (天皇が作った法律の範囲で)
= 形骸化した立憲君主制
吉野作造
       「国民が勉強して知識道徳のレベルを高め、実のある
        立憲君主制に変更していこう」という考え方が表れ
       ている





☆「土のいろ」集成 第十一巻 101~106号(後半)【再掲載 2017.1】

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◇復刊第23号 通刊106号  昭和39年5月
  
□「麁玉」「伎部」私考(1)  山口直蔵 
麁玉川
    「和名抄」937年

   麁玉郡中の郷名 
     三宅・碧田・赤狭・霜田
 豊田郡    長上郡
   
   内山真龍
    「遠江国風土記伝」(1799年完成)
       浜北市宮口付近に池 - ここから発する麁玉河が
 
   積志村を貫通して市街地の東と芳川に

   「大池」有宮口南。囲凡十五町。今有玉川源地

   ◎麁玉河は現天龍川と断定したい
     -「更級日記」1059年「天ちう」
        真淵 「天の中川」
           
   天龍川
    ~ かつては小さい幾条かの川の集合したものか?

 嘉応3年には「天龍川」
     この川を統合した名前?
 
   源光行「海道記」には天龍川が天中川とある

   「続日本紀」
      霊亀元年五月遠江国地震山崩麁玉河水為不流潰没

   敷知・長下・石田三郷 715年
      長下は709年長田郡を長上郡と長下郡に二分


□伎部 古語の上で「伎」 城・柵・綺
   東国は遠江より以東
     (大化の改新)       
源平  
     鎌倉時代まで館の形
関東  
     早くから仏教と高麗・百済人を多量に移して文化と宗教を植え続け
     ている
 
   古代の為政者は平和を理想として文化国家に基盤をおいた政治
     =  武力的な威圧はない 仏法による統治
 ◎ 理想政治 城の必要をいれていない
     
   諸国には常備兵はいなかった 

   九州・奥羽地方の整備以外は城がなかった


□やいかがしもそうそう  川見駒太郎 
やいかがし(焼嗅) 
    = 節分の夜,鰯の頭,葱などを焼いて串に刺し戸口や窓の外
     側にさすこと
= 追儺式,おにやらい
    ~ やいかがしの転化が「かかし」


□参遠ところどころ 須藤功


□大手前から成子坂まで  須部弥一郎 
駅前   
     大米屋旅館 花屋旅館 池谷鰻店
  遠州銀行(当時西遠銀行)
     山葉オルガン工場
大安寺下   
     市川写真館 - 瀬堂凧店
肴町   
     松作商店・間淵屋酒店・植村屋紙店・澤木麻店 
     名物 = 長谷川餅
鍛冶町通り 
     丸八陶器店
   ◎ 「遠州浜松広いようで狭い。横に車が二丁立たぬ」
鍛治町北側 
     小松屋・国領屋の商人宿
   金井屋呉服店  丸三洋品店
     木吉屋商店 ~ 浜松隋一の金融業 - 借家千軒
     殿岡 ぬいや  新若森-下駄店  松月菓子店
     都築商店 豊富な青果店


□郵便こぼれ話  鈴木犀十郎


□庚申講偶感  袴田鷹邨
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tai-yama

天皇陛下が現人神といわれた理由も納得な感じですね。
結局は天皇機関説にもあるとおり、実際は象徴だったと。
by tai-yama (2024-12-03 22:57) 

ハマコウ

tai-yamaさん ありがとうございます。
西洋のキリスト教の代わりに、皇室がうまくつかわれてしまったといったらよいのでしょうか。
by ハマコウ (2024-12-04 06:42) 

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