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(1)「総合的な学習とこれからの学校・授業作り」 北俊夫 光文書院 2000年 ③ (2)「奇祭と堂約束」<引佐郡引佐町川名(現在は浜松市)の伝説②-出典不明>【再掲載】 [読書記録 教育]

今回は1月6日に続いて北俊夫さんの
「総合的な学習とこれからの学校・授業作り」3回目の紹介です。


およそ20年前に出版された本です。
平成10年版の学習指導要領が最新だった頃です。




今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「昭和22年版  ・自由研究という教科もあった ・社会科が花形」


・「昭和26年版  自由研究がなくなった=教師が指導法が分からないから」


・「昭和30年版 社会科だけ改訂 ← 這い回る社会科」


・「昭和33年版より『試案』から『告示』=法的拘束力がうまれた」


・「昭和43・昭和44年版  教育の人間化運動」





もう一つ再掲載となりますが、引佐町川名(現在は浜松市)の伝説、
「奇祭と堂約束」を紹介します。
現在は毎年1月4日に行われている「川名のひよんどり」の話です。







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(1)「総合的な学習とこれからの学校・授業作り」 北俊夫 光文書院 2000年 ③

◇戦後の教育課程の変遷

○昭和22年版

「試案」 

 キーワード 「生活化・経験化」


 教育の民主化スタート
「自由研究」という教科も

「社会科」6年 175~210時間(週5~6時間)

  当時社会科は花形教科だった




○昭和26年版

「試案」 

「自由研究」がなくなった = 教師が指導法が分からないから

 複数教科合わせた時数
  国算 社理

ファジーな総時数,弾力的な運用




○昭和30年版

 社会科だけ改訂  ← 這い回る社会科 這い回る理科




○昭和33年版

 全面的改訂「告示」 = 法的拘束力


 学力低下という指摘を受けての改訂


 系統性の重視


 キーワード 「系統」


 教える中身を教える側から体系化


 基礎基本の徹底


 年間週数




○昭和43・昭和44年版

 学校行事 + 特別教育活動 → 特別活動

 アメリカ中心に提案
 ・スキナーのプログラム学習

・ブルームの完全習得学習

・ブルーナーの教科構造論


 日本・発展学習,探求学習
  ↓

落ちこぼれ 落ちこぼし
    ↓

 教育の人間化運動




○昭和52年版

 キーワード 「人間化」 → ゆとりと充実


 4・5・6年の一部の教科の時数削減


 低学年 → 国算重視




○平成元年版

 キーワード 「個性化」


 新しい学力観に立つ授業


 生活科新設


 国語重視




○平成10年版

「生きる力」「ゆとり」 - 基礎基本の厳選
 
          |

 知の総合化 キーワード「総合化」


 時間割の作成の弾力化が必要
35の倍数ではなくなった



学校は常に「変わらなければならない」











(2)「奇祭と堂約束」<引佐郡引佐町川名(現在は浜松市)の伝説②-出典不明>【再掲載】

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<「浜松田舎暮らし」のサイトより>

 村のお祭りの夜、若い男女が結婚の約束をすれば、どんな頑固な親達でも、これをく
つがえすことはできないという、結婚憲法が徳川の昔から、今に伝っている珍らしい村が
ある。


 しかもその約束というのが、単なる口約束だけでなく、その夜ならば総てが自由という、
有難い?憲法であり、お祭りもまた珍らしい火踊りをやるのである。


 それは浜名湖の奥まったあたりの山の中、引佐郡引佐町川名(現在は浜松市)の、薬師
堂のお祭りである。



 川名は元の伊平村の役場のある所から東へ約4キロ、太田峠を越した先の、霧山山有林
の山腹に点在する、戸数百余戸の山間の部落である。


 お祭りは毎年2月8日の真夜中に行われるのである。夜の12時から夜明けまでである
から、実際は2月9日の朝である。


 もっとも昔は、旧暦1月8日の夜であったのが、新暦採用と典に、2月8日になったの
である。


 この祭典に奉仕する神官は小祢宜5人、大祢宜1人で、彼等は祭典の7日前から、川名
川に下りて身体を洗って潔めている。この神官達は代々世裴で、非常に格式を重んじてい
るが本業は村の炭焼きと樵夫である。


 いよいよ祭典の当日となると、5人の小祢宜は大祢宜の家に集まって、祭事に使用する
ための笠を新柳の枝で作ったり、白紙で瓏珞の形を切り抜いたり、200本の御幣を作っ
たりする。


 この御幣は祭典の終った後、村内各戸に配付して、苗代田の虫除けのお守りにするので
ある。


 やがて日が暮れ、夜が更けて子の刻、即ち午前零時頃ともなれば、小祢宜5人は、各自
に1メートル程の松明に、大祢宜に火打石で火をつけて貰い、そいを打ち振り打ち振り、
村の中央の薬師堂に行くのである。


 この薬師堂は、昔は瑠璃山福満寺としい、真言宗の寺であったそうだが、今は焼けて、
お堂のみである。


 薬師堂にはもう宵のロから、その年の当番の若者数十人が、裸体に〆繩を腰につけて、
村人が献上する「つものけ飯」という、三角形に固めた赤飯を食べながら、踊りを踊って
にいるのである。


その踊りには歌がある。


「薬師堂は8日の日、油火のお祭りで、油火や松明で、うしの刻の姶りで、笛や太鼓のお
 囃子で……」


 やがて小祢宜達の松明が近づき、薬師堂に入ろうとすると、若者達は入いないようにと
防ぐ、外の5人が並んで松明をかざし、左へ右へと身体を振ると、中の若者も同じように
左へ右へと振って踊る。それが太鼓と歌とに合せて踊り合う、しかも一定の法則の下に踊
り合うのである。


 だから、これが、

「火踊り」

 更になまって、

「ひよんどり」

というのである。



 その中に松明が燃え尽くしてくると、小祢宜達は、松明を堂の中に投げ込む。

 すると若者達は互いにそみ消すが、最後に残った一本を、薬師如来に献ずる。
 
 この時の投げ込み方のよし悪しによって、この年の農作物の豊凶が占われるとのことで
ある。



 ところで、これが終るとまた大祢宜を中心に、若者達の舞いと踊りと歌がある。

 陣の舞、獅子招き舞など、八節の舞踊があるが、中には孕舞といって、女の人の面を被
り、腹を大きくした妊婦の姿で踊るのもある。


 更にまたこの踊りの間に、先の小祢宜五人は別室で、「おふっこ様」という藁人形を作
るのであるが、これは頭、手、胴、足と各部分を分担で作る。


 しかもこれを作る間、絶対に談話を禁じて無言のまま、勝手々々に作って置いて、後で
継ぎ合せてから、室内に運んで汁かけ飯を献ずるのである。


 こうして最後に寺の和尚が来て、説経をして終りとなるのてあるが、その頃はもう、東
の山の端が白くなって、間もなく夜があける頃である。



 このお祭りの起原については、確かな記録はないが、先の歌読みの終りに、寛政3年と
いうことがあるのから見て、そい以前から連綿と伝わっていることらしい。





 ところで話はこれからである。


 この真夜中の祭典に参列 -といえば、もっともらしいが実は見物- に来た村の青年
男女が、この境内でこの夜、愛を囁き、将来を約束したならば、これは必ず実現させてや
らなけていいばならないという、村の掟が出来ることである。


 もしも、その約束を無視して、他家に嫁入ったり、他家から貰ったりすると、薬師様の
罰が当るというのである。

 薬師様の御覧の前での約束は、薬師様を媒酌人としての、天下御免の神聖?の約束だと
いうのである。


 だから娘に縁談の話かあれば、親達は先ず、

「お前、堂約束はなかったかい」

と聞かなければならない。

「はい、実は誰々さんと8日の夜に-」

といえば、如何な封建的な親でもでどんないい縁談の口があったとても、みんな破談にし
なければならない。


 そして身分の上下も、貧富の差も問題ではない。必ずその相手と結婚させなければなら
ないのである。

 そうしなかったら、罰が当るというのである。


 しかし、これは考えてみれば、戦後派的な性の解放ではなくて、愛の尊重である。


 気まぐれの享楽を禁じ、結婚にまで持って行って責任を持たせる、真剣さの要求である、
という薬師如来の親切であるかも分らない。


 しかし、なんといっても、村の男女にとっては有難い憲法である。


 だから日頃の思いを、この夜をまって果たして、薬師如来の裏付けを受けるのである。


 しかもこの憲法は、この夜のみではない。


 この祭典に続いて、後3日間、堂入りといって、信心に熱心のものや、何かの祈願をす
るもの、あるいは村の誰れ彼れが、薬師堂に入って食事を共にし起臥を共にすることであ
る。


 もちろん燈火とて暗い松明の下、せまい堂内に数十名の男女が雑魚寝をすることである
から、この時、都合のいい堂約束が、いくらでも出来る。


 この堂約束の始まりについては、こんな話が伝えられている。



 徳川の昔のことである。

 大祢宜で庄屋である某家に、美しい娘があった。

 彼女は今年19才、山の中にはまれな美人であった。

 この村に炭焼きを業とする太平という若者がいた。彼は母一人子一人で、その日暮らし
の貧しさ、庄屋の家に時々は出入りして、下男代りに働いているのであった。


 するうち彼女はいつか、太平が好きになっていだ。太平もまた彼女が好きだった。

 しかし庄屋と下男、この恋は無理なものである。だがそう思えば思う程、春の野火のよ
うに燃えてくるのは、若い二人の恋心であった。


 だが天は無情である。娘には隣村の庄屋からの縁談が始まってきた。隣村の庄屋と仲人
は、かわるがわる彼女の家を訪ねて来て、

「是非とも…」

と、矢のような催促、彼女の父母は彼女の心を、全く知らないわけではなかったが、その
熱心さに、ついに祝言の日まで取り定めてしまった。


「わたし、もうあなたとも、お別れしなければなりませんわ」


 それは旧暦1月8日の夜であった。薬師堂の火踊り祭り見物の中で、彼女は涙をたたえ
て彼にささやいた。

「おっ、それ本当―」

 太平の顔色は一瞬、真青になった。そして彼は彼女の手をとって、境内の奥へ歩いた。
人の居ない暗い木の下、二人の手と手は固く握られ、温い血が一つに通うように感じられ
た。

「あなた、もうこれ限り…」

 彼女は相抱きたい衝動を自制して、目をかがやかせて太平を見上げた。

と、その時、

「ゆるす、ゆるす。思うようにせよ」

「えっ」

 薬師如来の声が二人の耳に響いてきた。二人は我れを忘れて相抱いた。

 その事があった次の日、彼女は臆する色もなく、母に告げた。

「お母様、私、お薬師様のお許しで、太七さんとお約束をしました」

「ほんと-」

 母はその、娘の信じきっている態度にびっくりしたが、次の瞬間には母も娘の言葉を信
じた。

「薬師様のお言い付けならば…」

 父母は隣村の庄屋からの縁談を断って、芽出度く太平と結婚させた。

 こうした事があってから、お薬師様は恋の守り神となったのだともいう。



※附記  

 火踊りの奇祭は今も盛んで、毎年1月上旬に盛大に行われているが、堂約束は、すでに
すたれている。元来、堂約束というのは、徳川時代、家族制度の厳しい下での、恋愛結婚、
自由結婚へのはけ口を、仏の名の下で求めたのであろう。

 こうした風習は、昔は全国各地でもみられたのである。周智郡か榛原郡の山の中のこと
であろう、ここでは「山約束」ということがあると「遠江古跡図絵」という本に書いてあ
る。


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