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(1)「博物館講座10 生涯学習と博物館活動」雄山閣出版 1999年 ④ (2)『作文集 泣くものか』 養護施設協会編 亜紀書房 1977年(昭和53年度毎日出版文化賞受賞) ② 【再掲載】 [読書記録 教育]

今回は、1月21日に続いて 大堀 哲さんの
「博物館講座10 生涯学習と博物館活動」4回目の紹介です。


出版社の案内には、

「博物館の教育サービス 博物館ボランティア 博物館の出版活動 
 館種別博物館の教育活動の特色」

とあります。


博物館も来客を増加させるために一生懸命です。



もう一つ再掲載となりますが、『作文集 泣くものか』より作文を紹介します。
わたしが小中学校の頃、学区に養護施設があり、学年にも何人か養護施設の子がいました。
いつも元気に振る舞っていましたが、それぞれに辛い過去があったのだな、それに負けず
に明るくしていたのだなとこの作文集を読んで改めて思いました。
親は子供から愛されている、だからこそ…。




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(1)「博物館講座10 生涯学習と博物館活動」雄山閣出版 1999年 ④

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◇館外活動

□観察会,見学会,採集会

 ルールやマナーの問題



□アウトリサーチ活動
    
 手を差し伸べる活動 

(1)移動展

(2)各種イベントの実施

(3)講師の派遣

(4)教材教具の貸し出し

(5)市民のフィールドワーク,野外調査研究の支援


 平塚博物館「放課後博物館」活動
日常的なつながり

漂着物を拾う会 1990.4~







◇イン・ドア活動

(1)展示活動  

   鍵は「日常の調査研究を展示として表現できるか?」


(2)教育普及活動

   ものを中心とした活動-博物館ならでは

  ①講演会 多くは記念講演会-展示とリンク  

②講座  学芸員が講師,熟練者・古老もいる
対象…小中学生,教員,主婦

    ③映画会・鑑賞会・実演会

   ④体験学習 火おこし,わらじ作り,粉ひき,お手玉遊び
竹とんぼづくり,縄文土器作り

   ⑤情報・広報活動 報告書・研究紀要・年報・収蔵資料目録・年間行事予定
     展示解説書・資料解説集・図録・ワークシート

     案内パンフレット






◇アウト・ドア活動

1)展示活動 野外展示,移動博物館,巡回展示,合同展


(2)教育普及活動

見学会・観察会・採集会・撮影会

同じプログラムを複数回,制限の設定











(2)『作文集 泣くものか』 養護施設協会編 亜紀書房 1977年(昭和53年度毎日出版文化賞受賞) ② 【再掲載】

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◇両親を尊敬し、誇りに思っています       中3 竹野冨美子

 私には、両親はいません。

 弟とふたりきりの姉弟です。とても寂しくとても心細い時はよくあります。この寮にい
てもです。


 もう中学2年生だっていうのに、おとうさんやおかあさんのいる子がうらやましく、ま
た、ねたましくてしかたありません。でも、こんな時、


「いずれ、みんなの両親だって死んでしまうんだ。私の両親はみんなより早く死んじゃっ
ただけなんだ」

と自分に言いきかせています。


 私の父は、他の人が見ると私のおじいさんではないかと思うほど古く、私が生まれたと
き50さいくらいで、もうすでに寿命の半分は過ぎていました。


 父は昔、高校の先生をしていたらしく、教育には特別にきびしく、私はよくしかられた
ものでした。テストを父に見せては、父の顔色をよくさぐったものでした。


 こんなようですと、教育パパゴンみたいにすごい人と思いますが、全然反対で、短気な
ところもありましたが、私には優しく、私のいうことならなんでも聞いてくれました。


 昔から身体が弱く、ろく膜という病気にかかり、肺をひとつとり、残りひとつの肺で、
生きていた父でした。私はこんな父の性格を受けついだせいか、短気で、すぐムカッとす
るほうです。


 また、こんな父の影響を受けてか、時計、ひらがな、カタカナは、幼稚園に上がるまで
には全部覚えてしまいました。無論、幼稚園は一年保育でした。


 私はこんな父が大好きで近所の人に笑われたことがありました。たしか、私は4才くら
いだったと思います。


 夕方で、父はすでに仕事から帰っていました。私は、近所の男の子達と遊んでいました
が、途中つまずいてころんでしまいました。私は有名な泣き虫で、このときも大声でワン
ワン鳴きましためで、近所のおばさん達が来て私を起こそうとしましたが、私は道路にへ
ばりついて「おとうちゃん、おとうちゃん」といっては泣きました。


 こんなふうでさすがにこまりはてたおばさん達は、おとうさんを呼んできてくれ、最後
には、おとうさんに起こされ抱かれて家へ帰りました。父は、何もおこらず、ニコニコし
てとても気げんのよい顔でした。


 こんなことがあってから、近所の人たちは


「富美ちゃんは、おとうさん子だねえ」


「甘ちゃんだねえ」

などとよくいわれました。一番楽しい時でした。


 しかし、こんな父が、昭和43年元旦を過ぎ10日ぐらいたつと、お正月中の無理がた
たったのか、かぜをひきねこんでしまいました。私はいつも父のそばについていました。


 友だちの家にも遊びにいかず、毎日ついていました。あまりに、治りがおそいので医者
に見せると「ただのかぜです」というので安心しましたが、よくなるどころかどんどん悪
くなっていくばかりで、父は食事もしなくなり、食べるものといえば、私がいれた苦いお
茶でした。ものすごく苦いお茶でした。父はそれを一杯飲んでは、喜んで


「死なないぞ、死なないぞ」

って言っていました。でも、父がこんな事をいったのは初めてで、いつもなら


「もう死ぬ、もうだめだ」

って言っていましたのでとても心配でした。


 その予感はずばり当たり、もう一度医者に見せたら肺炎だからすぐ入院させなさいとい
われました。


 病院へは、私と弟は連れてゆかれずに、母とその他の人がついてきました。あとは父の
具合を知らせる電話を待つだけでした。同じ日の8時


「きとくだからすぐ来るように」

との知らせで、すぐ病院にいきました。車の中でおちついてはいられず、心臓がドキドキ
高鳴っていました。私は20分ごろ病院に着き、父の所までとんでいきましたが、すでに
おそく、15分に亡くなって、二度と帰らぬ人となっていました。


 1月31日午後8時15分、水曜日、天気は晴れでした。


 次の日の朝、へやに母がよりそって父はねていました。鼻にわたをつめてうす紫色の顔
でねていました。母は何か思いつめているようすでした。父は


「最後まで私と弟の名を呼びながら死んでいったんだよ」

って母はいいました。私は、父が本当に死んだのかしらなんて思っていて


「優しそうな顔でねている父がもうすぐ目をさますのではないかしら」

などと思ったりして、なかなか信じられませんでした。


 母は父が死んだショックやいろいろで、身体はつかれきり、悪かった心臓、じん臓、肝
臓がよけいに悪くなり、医者に、入院をすすめられましたが、母は断わりつづけました。


 母は足はむくみ、呼吸は荒く、毎日、私に足の裏をふんでくれと頼みました。私は、私
達がいるからおかあさんは入院しないんだと思い、喜んでふんであげました。


 でもとうとう私が4年生の時入院しました。浜松市立病院に…夜、弟は泣きました。私
はどうなぐさめたらいいのやらとてもこまりましたが、なんとかなぐさめ、泣きやましま
した。


 次の日の朝から私は自転車で弟を幼稚園へ連れて行きました。


 夏はムカムカとむし暑く、冬は、北風がつめたく、4年生の私にはとてもこたえました。
学校の先生はこういうことから、遅刻も許してくれ、優しく親切にして下さいました。も
うこのころから、施設に入る話しはありましたが、母も断わり、私もいやだったのでがん
ばって断わり続けました。


 私はおとうちゃん子でしたので母との思い出はあまりありません。いろんな所へつれて
いってくれたのはおとうさんですし、おふろもおとうさんと、はいっていましたので…。


 でも私の心の中にしまってある思い出が一つ二つあります。よくかみなりがなるとへそ
をしまいなさいといいます。母はよく私にいい、かみなりがなると


「おへそはしまってある、出してあると、かみなりさまに食べられちゃうよ」

っていわれました。


「おかあちゃんはね、小さい時おへそ出していて食べられちゃったんだよ」

なんて言って私を不思議がらせました。母はこんなふうに言っては私達に注意してくれま
した。明朗で、おしゃベりで、おもしろい母が大好きでした。


 母が入院中、私と弟は水ぼうそうにかかり、熱が出て身体中、ブツブツになった時、母
は絶対安静だったのに、看病にきてくれました。氷で頭をひやし、私なんか足の裏にもい
っぱいブツブツができていたくて歩けませんでしたので、母におんぶしてもらい、トイレ
などに行きました。


 母は苦しそうな顔を一つ見せませんでしたが、私はだいぶ無理しているように見えまし
た。水ぼうそうが治るとすぐに、はしかにかかってしまい、また母をひきとめてしまいま
した。


 私は、母にすまないと思いながらねていました。そして思ったより早く治り、これほど
今までに母に感謝したことほありませんでした。そして、また母は病院にもどり絶対安静
の生活にもどりました。


 そして5年の5月ごろ寮に入るのが決定し、私はいやでいやでたまりませんでしたが、
母の病気が少しでもよくなるのならと思いこの寮に来ました。


 でもやはり、くるべきときはくるもので、11月の面会を最後にもう二度と話すときは
こなくなってしまいました。


 12月25日、母が意識不明だと寮に電話がかかり、私はまさかと思い、弟と病院にい
きました。母は個室に移されており、ねているようでした。病院の看護婦さんははげまし
てくれ、私もおかあさんにかぎってまさかと思っていました。


 病室は暗く重苦しく不気味でした。母は時々のどに何かつまったようなせきをしては、
荒く苦しそうな呼吸をしていました。こうなった原因は、心臓からよごれた血液がせきず
いのところにつまり、意識がなくなったのでした。


 母は心臓べん膜しょう、肝臓、じん臓の三つが悪くどうしようもない身体でした。つま
ったのを取るのにも命が保障されていませんでした。


 そして、また意識がもどったとしても、もとどおりになれるのではなく、どこかに欠か
んをもつようになってしまうのでした。


 次の日、おばさんが一時問ばかり、いなかったとき、弟が母を見て


「おねえちゃん、おかあさんののど少しか動いていないよ」

っていいました。私はドキッとしました。どうしてよいのか迷いましたが、すぐ看護婦さ
んを呼び、先生を呼びました。先生は、脈を調べると、


「りんじゅうだな」

と小さな声で言ったようでした。私は耳のさっかくだと思いましたが、看護婦さんが


「おかあさんね、死んじゃったのよ、元気だしなさいね」

っていうともう涙でいっぱいで、大声で泣きました。病院の人が、おばさんやいとこに電
話をかけてくれ、すぐ遺体を家へ運びました。たくさんの人がそう式に来てくれ、すばら
しいおそう式になりました。おかあさんはもう遺書も書いてあり、親せきの人はもちろん、
私も驚きました。それをたくさんの人が読むと、皆泣いてしまいました。


 これには、注意などが書いてあり決してうまい文章ではありませんでしたが、よけいに
悲しくて泣けてきました。


 わたしは、おとうさんも、おかあさんも尊敬しています。私の誇りに思っています。だ
から私は、父のようなだんなさんをもらい、母のようなおかあさんに早くなりたいといつ
も夢見ています。

 ※ 父病死後、母は過労から入院、そのため入寮.その後母もついに病死。
                              (1974年 S寮)















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