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(1)「博物館講座10 生涯学習と博物館活動」雄山閣出版 1999年 ⑥ (2)「伸びる芽」佐々木光郎(東京家庭裁判所・家庭裁判所調査官) 『少年育成』2002.12月より 【再掲載】 [読書記録 教育]

今回は、2月7日に続いて 大堀 哲さんの
「博物館講座10 生涯学習と博物館活動」6回目の紹介です。


出版社の案内には、

「博物館の教育サービス 博物館ボランティア 博物館の出版活動 
 館種別博物館の教育活動の特色」

とあります。



今回は企画スケジュールについての要約です。



もう一つ、再掲載となりますが、佐々木光郎さんの「伸びる芽」を紹介します。




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(1)「博物館講座10 生涯学習と博物館活動」雄山閣出版 1999年 ⑥

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◇企画スケジュール

□担当者の決定 

 1年くらい




□企画立案   
 ①活動内容の概要 

 ②活動対象 

 ③参加者数 

 ④実施日

⑤実施場所 

 ⑥参加費等大枠の検討 

(他)講師依頼,対象,人数,実施場所,参加費,応募〆切等




□講演申請   
 自治体・教育委員会に後援の名義使用申請

 報道機関の後援も




□後援許可
  一週間程で




□担当分担当者の打ち合わせ
  責任者中心に共通認識




□募集用資料作成 
  ポスター・募集要項用 写真イラスト割付デザイン 




□ポスター・募集要項入稿




□広報誌掲載依頼 
 



□広報記事掲載
  事前校正を




□ポスター・募集要項配布




□募集開始 
  往復葉書で




□募集締め切り
  厳守




□参加者決定 
  傷害保険の申し込み手続き




□参加案内の送付 
  当日持ち物,集合場所,時間等

参加できないとき速やかに連絡してもらうように一文を添える

落選者には丁重な文面の落選予知




□テキスト原稿作成 
  テキストブック資料の用意




□テキスト原稿入稿 




□テキストの完成  
  関係者に配布 - 事前の共通認識




□教材・資料テスト,チェック




□担当者実施打ち合わせ




□活動実施 
  参加人数を正確な把握要 自己紹介・名札




□反省会(検討会)




□報告書作成 
  成果・問題点・改良点

後援者に一週間以内に報告書,礼状












(2)「伸びる芽」佐々木光郎(東京家庭裁判所・家庭裁判所調査官) 『少年育成』2002.12月より 【再掲載】

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- どんなにくずれているように見える少年でも、心のどこかに「まっとうになりたい」
 という願いが潜んでいる -


◇はじめに

 私は非行臨床(家裁の調査)の現場で過ごし30年になった。そのためか、いろいろな
ところで、

「かつてと、いまの少年では大分変わったでしょう」

と聞かれる。私は

「目に見えるところでの変化はありますが、変わっていないものがあります」

と真顔で応える。 


 それは、とんなにくずれているように見える少年でも、心のどこかに「まっとうになり
たい」という願いが潜んでいるからである。


 四半世紀余が経ち、少年たちを取り巻く社会環境も変化した。


 また、かつて少年たちは「弱い者への暴力はいけない」というウラ文化があったが、い
まの少年たちには通じなくなった。


 いま、全国の中学校のうちいくつかの学校では、登校しないで遊び暮らしている生徒が
いる。そのうえに非行があるとしたらなおさら「困った」子どもたちだ。


 では、彼らは将来にわたって大人からみて「どうしようもない」存在なのであろうか。
本稿では、この「遊び・非行」型の不登校の中学生二人が登場する。家裁の試験観察とな
った中学生である。ケースを紹介することから表題に追ってみたい。


 物語はケースの本質を失わない範囲でつくった。




◇逆転の二塁打

 大樹はいま中学3年生である。2学年の夏休みのとき仲間と遊びすぎて、夜更かしの毎
日を過ごしたために、2学期からは朝起きられず、もう一年余登校していない。


 夕方にはコンビニの駐車場で仲間と雑談したり、ゲームセンターで過ごす毎日である。
そのときに遊び代に窮し万引きや恐喝を繰り返した。


 面接で出会った大樹の日は冴えなかった。とがった金髪だけが「生きている」ことをあ
らわしているように見えた。


「学校?俺には関係ないよ」

と言う。その強がりとは別に人知れぬ寂しさが伝わる。


 家庭では、両親は「困ったもんだ」と言うが、もう為すすべがないと嘆く。


 ところで、大樹が住む学区に、野球の愛好チームがあってジュニアチームもある。ふと
したきっかけで近所のおじさんから「来てみないか」と誘われた。


「俺、行っても仕方ないよ」

と断った。


 野球の技量もさることながら、自分そのものに自信がなかった。そのために仲間以外の
他人と交わることにはつい後込みした。


「俺は何もできないんだ」

が彼の口癖だった。


 土曜日のある日。「何かあるかも知れない」と思った。転機である。学習塾へ通う同級
生を尻目に、隣町の公営野球場のグランドにいた。


 球拾いから始めて、4か月が経ったある日、他のチームとの親睦試合に補欠として起用
されるときが巡ってきた。9回の裏、代打としてボックスに立った。打った球は内野手の
頭上を越えセンターに達した。逆転の2塁打であった。


「俺もやればできるんだ」と思ったとき、自分の存在が輝くように見えた。「ワー」とい
うチームの歓声に涙が止まらなかった。


 いま、大樹は卒業直前である。「もう親が悲しむ姿を見たくない」と言う。非行は繰り
返さないと決めた。「俺、調理人として働くよ」と言い残し、試験観察は終わった。


 その後、彼は家裁に係わることはなかった。




◇白い歯

 私が、ある真夏の街中を歩いていたら、新築中の住宅の前に差し掛かった。突然、工事
現揚から声がした。振り向くと、確かにかつて試験観察の少年和男であった。ペンキに汚
れた作業服がまぶしく見えた。ヘルメットをかぶった真っ黒な顔から白い歯がこぼれた。


 和男が中学校を卒業してからもう3年は経っているはずだ。

 
 和男が幼いときに実父母が離婚した。弟と共に母に育てられ小学校を卒業した。中学一
年生の秋、母が再婚した。母が自分から離れていく気がした。そのためか、和男は継父に
ことごとく反抗した。家庭が安心感のある場所でなくなった。


「本当の父親でもないのに、なんで文句を言うのか」


 先輩たちがたむろする公園に顔を出し、親たちが寝静まったころに家に戻った。学校も
不登校の状態になるのは間もなくしてからである。そうしたなかで、中学2年生の3学期
に先輩らと粗暴非行をおかし補導された。


 審判の結果、試験観察となった。


 学校に行っても授業についていけなかった。とくに数学の授業はまったく分からなかっ
た。私は面接で、彼にちなみに計算をさせてみた。


「二分の一と0.5を足すといくつか?」

と。和男から


「小学生じゃないよ。馬鹿にしないでよ」

と叱られると思った。が、意外だった。


「分からないすよ。馬鹿だから」

とはにかむ。


 その複雑な表情を見た瞬間に、彼が学ぶ楽しさから、いかに長い間疎外され続けてきた
かが伝わった。


 中学3年生に進級しても不登校は変わらなかった。ただ、幸いであったのは、継父が聞
き分けのある人で、和男の非行を機に和男との関係を見直してくれたことであった。私は
中に立つ母のつらさを「そうですか」とただ聞くしかなかった。


 家庭にわずかでも安堵感が戻ると、彼の顔の表情がゆるむのも分かった。


 でも学校にはとうとう行く気にはなれなかった。私もあまりとらわれなかった。

 2学期のある日、突然、言う。

「毎日、毎日、何もしないのがつらいのです。それで、叔父さんの手伝いをしています」

と。なにかが吹っ切れたようにみえた。


 母の実弟が塗装屋を自営している。和男は、そこで中学卒業まで過ごし、簡単な手伝い
をすることになった。学校は親の責任のもとでそれとはなく認めてくれた。


 それから何年か経ち、先の工事現場での偶然の出会いとなった。




◇まっとうになる芽

 非行臨床にあらわれる少年たちは崩れているようだが、心のどこかで「まじめになりた
い」と思っている。

 そして生身の大人とのかかわりを欲しているように思う。


 しかし、思春期の彼らは、その心の内を率直にあらわせず、ときにはすねてゆがんだ表
現をしている。


 2人の少年は、周りのかかわりに恵まれ、潜在的にもっていた伸びる芽がふくらんだ。
 

 ここで、非行臨床から離れて、思春期から青年期の若者の存在を考えたい。ただ、彼ら
を語る前提に、大人自身が、いまを生き生きと生きているかを自問する必要があろう。


 さて、いまの若者は消費しかない生活のなかで育ち、多機能携帯電話をもち、髪を染め
顔はガングロである。大人の世代はつい「今の若者は」と言うが、一概に否定的にみるべ
きではない。


 いま、大人が戸惑うようなファッションや態度をしているが、それにしか自分を表現で
きないのだ。


 著しい逸脱でもない限り、多少のことは認める余裕がほしいと思う。若者と大人との共
通語は、互いの違いを認めあい、そのうえで自己責任のもとで「自分は自分でよいのだ」
ということだと考える。


 ただし、犯罪は絶対に容認できない。彼が為した行為の社会的な責任には真剣に向き合
わせることが必要である。真撃な厳しさこそが成長の肥やしになるからである。



 私は、いま大人が若い人を理解するには、つぎのようなまなざしが必要だと思う。



 一つは、若者たちは間違いながら成長していく存在であるということである。
 
 彼らは試行錯誤の中から、何かを学び取ると考える。



 二つは、思春期から青年期の者は、もともとでたらめをしたり、困難から逃げようとす
る側面ももつ存在であると理解することである。

 もちろん、勉強や運動に精一杯にがんばるすがたはよしとするが、その一面だけを期待
しない方がよいと考える。彼らの良いところも悪いところもまるごととらえることが、若
者の安心感の糧となるように思う。



 三つは、いまの状態から変化する存在であると理解することである。

 長いスパンで、その成長を見守る姿勢が求められる。いま間違ったことをしている若者
が、そのまま困った大人になるものではない。「転機」があれば、困難から抜けだし一回
り大きく成長する




 このように、若者たちの行動を一面的に見ないことである。よくない行動と思われるな
かにも意味があり、本人の自己成長を促し、ときには社会進歩のもとになるととらえる。
逆に、「いい子」の行動に将来の危うさが潜んでいるかも知れない。


 われわれ大人は、危なっかしいなかに「伸びる芽」を見つけ、時間を掛けて見守りたい
と考える。大樹と和男のケースはこのことを教えてくれる。


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