『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)静岡県女子師範学校郷土研究会編 1994年 ⑪ [読書記録 郷土]
今回は、3月30日に続いて、静岡県女子師範学校郷土研究会編による
『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)11回目の紹介です。
郷土、静岡県の羽衣出版による、すばらしい本です。
今回も前回に引き続き「塚と墓」にまつわる伝説の紹介です。
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ものづくりのまちとも言われる浜松。
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☆『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)静岡県女子師範学校郷土研究会編 1994年 ⑪
4 塚と墓
(5)戒壇塚 (浜松市)
鴨江寺の仁王門の西にある。
昔、この寺は天台宗であったが、戒壇を起こしたので山法師がこれを聞いてとがめた。
しかし、寺の方が聞き入れないので、とうとう戦が始まった。
そして、ついに鴨江寺が負けてしまった。その時、戒壇の品々を埋めたのがこの塚だと
いう。 (河原やす子)
(6)戒壇稼 (浜松市)
鴨江の観音様より西へ二丁程行った裁判所の裏にある塚である。
これは、源頼光が、鴨江の観音様の戒壇を起こそうとして、京にその許しを願おうとしたが、比叡山の僧達がこれをこばんでさまたげたので、頼光は憤慨して死んだ。
そこで村人は、頼光とその器具とを共に埋めてしまった。
それから、そこを戒壇塚と世の人が言うようになったという。
(金原せつ)
(7)御台塚 (浜松市)
今の八幡町にある。
昔、永禄11年(1568)、飯尾豊前守乗竜の後室が、引馬の城に帰られた。
家康は後藤太郎左衛門、松下輿衛門を遣わして
「城を明け渡したなら、召し抱え、家の方もすべて良いように計らってやる」
と言ったが、後室は、これを聞き入れなかった。
そして12月の末の夜、塩市口より打って出て戦ったが、家康方は数多の軍勢で攻め、
とうとう二の丸、三の丸も攻め破られ、味方の者は残り少なになってしまった。
そして後室も侍女も残らず一つ所で討ち死にしてしまったが、その討ち死にの場所を御台塚という。
(河原やす子)
(8)狐塚 (浜松市)
寺島の畑の中にある塚である。 (河原やす子)
(9)大名塚と馬塚 (浜松市)
浜松の犀ケ崖の北に2つの塚が並んでいる。
一方を大名塚、他を馬塚という。この塚の土をとると、病気にかかったりいろいろの災難があるといい、百姓は恐れて今では誰も手をつけない。
そしてこの辺の畑を大名塚の畑と呼んでいる。 (本多みち)
(10)十三塚 (浜名郡伊佐見付・現浜松市)
古人見区の字十三塚は、東西に13の塚が並んでいて、これに直角に6個の塚がある。
それで、十三、六ッ塚という。
昔、13人の武士と、それを追って来た6人の武士がこの土地で戦った。
6人は、13人を倒した後、逃げようとしたけれども、後には(三方原)敵があり、前
は一帯の湖水で逃げる道がなくて、敵を倒した上は望みはないと言って自害したという。
以来、これが地名となった。
この塚は、人が死ぬ、伝染病を病むなどの崇りがある。
また、この塚を壊して一家死滅し、あるいは主なる人(長男) が死ぬなどの崇りをう
けた者があって、後世大いに恐れられた。
今は、十三塚のうち東部のものが2個と、六塚の南端の最大のものが1個残るだけである。
六塚に残っている最大の塚の上に方泉坊という小さな南があるが、紺屋という家だけが、
この方泉坊を祀っている。
昔、この一家が死滅しそうになった事があったからだという話だ。 (野島のぶ、野田はつえ)
『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)11回目の紹介です。
郷土、静岡県の羽衣出版による、すばらしい本です。
今回も前回に引き続き「塚と墓」にまつわる伝説の紹介です。
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☆『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)静岡県女子師範学校郷土研究会編 1994年 ⑪
4 塚と墓
(5)戒壇塚 (浜松市)
鴨江寺の仁王門の西にある。
昔、この寺は天台宗であったが、戒壇を起こしたので山法師がこれを聞いてとがめた。
しかし、寺の方が聞き入れないので、とうとう戦が始まった。
そして、ついに鴨江寺が負けてしまった。その時、戒壇の品々を埋めたのがこの塚だと
いう。 (河原やす子)
(6)戒壇稼 (浜松市)
鴨江の観音様より西へ二丁程行った裁判所の裏にある塚である。
これは、源頼光が、鴨江の観音様の戒壇を起こそうとして、京にその許しを願おうとしたが、比叡山の僧達がこれをこばんでさまたげたので、頼光は憤慨して死んだ。
そこで村人は、頼光とその器具とを共に埋めてしまった。
それから、そこを戒壇塚と世の人が言うようになったという。
(金原せつ)
(7)御台塚 (浜松市)
今の八幡町にある。
昔、永禄11年(1568)、飯尾豊前守乗竜の後室が、引馬の城に帰られた。
家康は後藤太郎左衛門、松下輿衛門を遣わして
「城を明け渡したなら、召し抱え、家の方もすべて良いように計らってやる」
と言ったが、後室は、これを聞き入れなかった。
そして12月の末の夜、塩市口より打って出て戦ったが、家康方は数多の軍勢で攻め、
とうとう二の丸、三の丸も攻め破られ、味方の者は残り少なになってしまった。
そして後室も侍女も残らず一つ所で討ち死にしてしまったが、その討ち死にの場所を御台塚という。
(河原やす子)
(8)狐塚 (浜松市)
寺島の畑の中にある塚である。 (河原やす子)
(9)大名塚と馬塚 (浜松市)
浜松の犀ケ崖の北に2つの塚が並んでいる。
一方を大名塚、他を馬塚という。この塚の土をとると、病気にかかったりいろいろの災難があるといい、百姓は恐れて今では誰も手をつけない。
そしてこの辺の畑を大名塚の畑と呼んでいる。 (本多みち)
(10)十三塚 (浜名郡伊佐見付・現浜松市)
古人見区の字十三塚は、東西に13の塚が並んでいて、これに直角に6個の塚がある。
それで、十三、六ッ塚という。
昔、13人の武士と、それを追って来た6人の武士がこの土地で戦った。
6人は、13人を倒した後、逃げようとしたけれども、後には(三方原)敵があり、前
は一帯の湖水で逃げる道がなくて、敵を倒した上は望みはないと言って自害したという。
以来、これが地名となった。
この塚は、人が死ぬ、伝染病を病むなどの崇りがある。
また、この塚を壊して一家死滅し、あるいは主なる人(長男) が死ぬなどの崇りをう
けた者があって、後世大いに恐れられた。
今は、十三塚のうち東部のものが2個と、六塚の南端の最大のものが1個残るだけである。
六塚に残っている最大の塚の上に方泉坊という小さな南があるが、紺屋という家だけが、
この方泉坊を祀っている。
昔、この一家が死滅しそうになった事があったからだという話だ。 (野島のぶ、野田はつえ)