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教育ノートから「教師」21-「先生の現象学」小浜逸郎 世織書房 1995年(2) [読書記録 教育]

今回は、4月11日に続いて、教育ノートからキーワード「教師」21回目、
小浜逸郎さんの「先生の現象学」の紹介2回目です。




出版社の案内には、


「公教育の先生はどんな属性を負い、それはどのような歴史的由来や社会的条件から規定
 されたのか。『センセイ』という神話的機能を解体する本。教師のアイデンティティは
 どこに求めたら良いのか。」


とあります。


今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「なぜ本来の仕事以外の校門遅刻チェックをやらなければならないか?
- 『センセイがそんなことまでやる必要があるのか』」


・「師範学校令 土台下に埋め立てる小石
  - 国家のために犠牲になる決心 教育の僧侶」
-「教育の僧侶」?、確かにそのようにも… 


・「聖職者規定をいかに現実的に無化させていくか 
- 自己陶酔的な信仰にならない」





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☆教育ノートから「教師」21-「先生の現象学」小浜逸郎 世織書房 1995年(2)

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◇学校現象の正しい認識 小浜逸郎
  
□校門圧死事件の問題点(報道)

 1 滅多に起こるはずがない

 2 当の教師は悪意を持った犯罪者ではない

 3 遅刻管理の不可避性  

    なぜ本来の仕事以外の校門遅刻チェックをやらなければならないか?

→ 「センセイがそんなことまでやる必要があるのか」

     ∥
 「センセイ」存在の破れは,「センセイ」が姿勢を正したり,良き管理法を編み出した
りすることによっては,とうてい解決のつかない深い文明史的理由を持っている。





◇教師はどう捉えられてきたか 小浜逸郎

「センセイ」聖職者と労働者(専門職)

 - 聖職者は理念,あくまで基本は労働者





◇「教師=聖職者」規定 小浜逸郎
  
「センセイ」は自らどこかで自分たちを聖職者であり労働者でもあると考えてきた


 元祖 
  - 森有礼 1884~1889文部大臣 教育制度の整備事業


師範学校令 土台下に埋め立てる小石
- 国家のために犠牲になる決心

       教育の僧侶



 井上剛等  + <天皇の精神を正しく子弟に>

    ↓

   「教育勅語」(1890年)聖職者






◇問題は「明治近代教育」ではない 小浜逸郎
  
 森有礼の「教師=聖職者」論は戦争の元凶ではない



生き残らせたものは何か
教育が聖なる目的のために行うという教育観自体は少しも衰えずに,もっと別の「す
 ばらしい聖なる目標」のためにこそあるという理念が蘇った

  ∥

  センセイが悪い目的のために奉仕するのは良くないが,良い目的のためにすべてを犠
 牲にして奉仕することはすばらしい


  聖なる目標 = 「お子さま」

    個性豊かな真の人間を育てる教育



  センセイはその社会経済的存在様式からしてまぎれもなく労働者であり,また,その
 労働の実質においてまぎれもなく専門職である。

  |

聖職者規定をいかに現実的に無化させていくか 
- 自己陶酔的な信仰にならない





◇聖者になったわけ 小浜逸郎

 センセイ = 理想的人間 

        魯の人・孔丘・ナザレ人・イエス


弟子が師の言行を
思想 + 生き方 切迫した生の実践者
著作を残さなかったからこそ聖人の高みに


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