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『オレ様化する子どもたち』諏訪 哲二 中央公論新社 2005年 ② [読書記録 教育]

「自分の思っていること,自分の判断していることは,他のみんなにも通用するはずだと
 みんなが思うように至った
 - 客観と主観の境界がなくなった = オレ様化」 




今回は、5月31日に続いて 諏訪哲二さんの
「オレ様化する子どもたち」2回目の紹介です。


出版社の案内には、


「かつての『ワル』は、対等をめざして大人に挑戦してきた。しかし、『新しい子どもた
 ち』は、端から自分と大人は対等だと思っている。彼ら・彼女らは、他者との比較を意
 に介さない。自分の内面に絶対的な基準を持つ『オレ様』になったのだ。『プロ教師の
 会』代表の著者は、教職生活40年の過程で、子どもたちの変化と格闘してきた。この
 体験をもとに、巷に流布する教育論の正否を交通整理しつつ、「オレ様化」の原因を探
 り、子どもたちの『個性化』と『社会化』の在り方を問う。」


とあります。


「贈与であった教育活動が商品交換的にと変化!」

公の教育までもがいつの間にかサービス業になってしまったように感じます。



今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「1960年以降の変化 
  市民的な公共性が立ち上がる前に,バラバラした向き出しの経済主体として個が登場
 してきた」


・「子どもたちの自我は外からの攻撃に弱くなった=『オレ様化』」


・「自分がどう見られているか,自分はどのような位置にいるか気にしない」


・「いじめが極端になっていったのも,子どもたちの人間関係が共同体的なものから市民
  社会的なものへと変わっていったからだ(仮説)」








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☆『オレ様化する子どもたち』諏訪 哲二 中央公論新社 2005年 ②

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◇「新しい子ども」の誕生
 
(1)教師と子どもは他者である  

 「教育改革国民会議」の子ども観論争

子どものプラス面・マイナス面ともにとらえたのは,山折哲雄・曾野綾子・河上亮
  一各氏のみ。

   ~ 教師の思いと子どもたちの現実


 「農業社会」「産業社会」「消費社会」段階説

 




(2)戦後社会の変遷と子どもたち

□近代日本の子ども 
 
  「新人類」 → 「オタク」 → 引きこもり,ニート,フリーター
     

□1960年以降の変化 
  市民的な公共性が立ち上がる前に,バラバラした向き出しの経済主体として個が登場
 してきた


□1970年から現代へ 
  「この私」を公共空間において瞬間瞬間に実現
 




(3)幼児期の全能感と「特別な私」
     
□80年代の決定的変化
   - 喫煙とカンニングの事例をもとに 

  「しゃべってねえよ,おかま」
      私語の注意に対して
      

□→ 「農業社会型」 全体に向かって「うるさいよ」で静かになった 


 → 「産業社会型」 一部のおしゃべりを注意すれば静かになった


 → 「消費社会型」 直接注意されても否定あるいは居直る
     

□昔のワルと違う点 

「消費社会型」段階 
  - それをもつ一人一人が自分一人だけの価値だと思っていないこと
                         
            ∥
          
 自分の思っていること,自分の判断していることは,他のみんなにも通用するはずだと
みんなが思うように至った

            |
    
      客観と主観の境界がなくなった=オレ様化        



□今時の授業風景
     
 うっかり生徒を叱れない
 
   =  子どもたちの自我は外からの攻撃に弱くなった=「オレ様化」   


 教師は社会を代表する者でも象徴の父でもなくなった


□比較の拒否
 
  自分がどう見られているか,自分はどのような位置にいるか気にしない



  「世間」の領域の消失
 

   
□自分は絶対的に特別 = イチローもそう


□「全能感」から卒業せよ
幼児期の「全能感」に由来する「私そのもの」への執着
 




(4)なぜ校内暴力は起きたのか

□学園紛争と校内暴力の違い

 偏差値のもたらしたもの

「消費型社会」
    収入(お金)でその人物の価値が決まる
   
               ∥

    経済が生活や精神を全面的に規定してくる時代  

 




(5)変わる子ども,変わらない教師

□保守的な論じ方,進歩的な論じ方

   「共同体的」(コンサーバティブ=保守)と「市民社会的」(リベラル=進歩)


□「贈与」と「商品交換」

  
□贈与であった教育活動が商品交換的にと変化!

 教師の権威がなぜ失墜したのか

  旧・文部省「新しい学力観」の目論見
   「贈与」から「商品交換」へ

「このオレ様にルールを守らせようとするためなら…」
等価価値に固執する動き

「いじめ」の構造
※ いじめが極端になっていったのも,子どもたちの人間関係が共同体的なものから
   市民社会的なものへと変わっていったからだ(仮説)




□共同体社会  
 「あいつは仕様のないやつだ」許容


 「あの人はああいう性格だよ」



 例:そうじ  
   働く人が働かない人をカバーしてきた

↑↓

□排除の方向へ

 いじめは共同体的なものから市民社会的なものへと変質してきた
         

 ※ バラバラな「個」がクラスに集まってくる 

   愛 →← 等価交換


□教育も子育ても贈与が基本

 ◎ 子ども・若者たちは共同体による保護がなくなり,いつも自立(孤立)した「個」と
  して「等価交換」に強迫されているよう
           に思う。 


□教育の原点は「贈与」

 贈与としての教育を一方的に受けていく中で商品交換的なコミュニケーションを身に付
けていく。
 




(6)大人と「一対一」の関係を望む  - 子どもは「一」ですらない
     
□朝日新聞の学級崩壊報道

 → すべてがシステムまたは教師のせい 



文部官僚・寺脇研の責任は?
       
 子どもたちが「消費社会」に動かされて個の実現を図ろうとしている   

→ その欲望や衝動をすべて教育に組み込めると思いこんでいる所に錯誤はないのか


 子どもの内石をいじりすぎる教師
  → もっと教育的にドライに!
 




(7)子どもに近代を埋め込もう

 なぜ学校に行くのか


 人間は死んでも生き返る?
大切なのは「この私」を崩していくこと「私とは何か」


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