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『オレ様化する子どもたち』諏訪 哲二 中央公論新社 2005年 ④(最終) [読書記録 教育]

「80年代
 ~ 「新しい子どもたち(オレ様化)」の登場
 ~ 家庭の教育力の低下」





今回は 6月17日に続いて、
「オレ様化する子どもたち」4回目の紹介 最終です。


出版社の案内には、


「かつての『ワル』は、対等をめざして大人に挑戦してきた。しかし、『新しい子どもた
 ち』は、端から自分と大人は対等だと思っている。彼ら・彼女らは、他者との比較を意
 に介さない。自分の内面に絶対的な基準を持つ『オレ様』になったのだ。『プロ教師の
 会』代表の著者は、教職生活40年の過程で、子どもたちの変化と格闘してきた。この
 体験をもとに、巷に流布する教育論の正否を交通整理しつつ、「オレ様化」の原因を探
 り、子どもたちの『個性化』と『社会化』の在り方を問う。」


とあります。





今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「畏れるもの」
- 恐れる気持ちをもつと言うことは幸せなことだと思います。


・「<教育における格差>   ←→   <親の姿勢の格差>」
- 経済格差というよりも、文化資本に対する保護者の姿勢の違いが大きな影響を与えて
 いるように感じます。


・「公教育(普通教育)は,近代的市民(国民)形成にかかわるものとして自己限定すべき」






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☆『オレ様化する子どもたち』諏訪 哲二 中央公論新社 2005年 ④(最終)

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◇なぜ子どもは変貌し,いかに大人は対処すべきか
  
□「近代」に負けない子どもを育てる

 → 畏れるもの  




□キリスト教文化と日本の違い

 日本
  - 個人が個人として立っている
    
    (嘗ては神の代理人として学校教師に役割期待)     


 キリスト教国
  - 個人が個人として立っているわけではない




□グローバル化の中の子どもたち
    
 日本 - 後進国コンプレックス 「文化資本」
     

「文化資本の差」 
  親に文化力・教養があると,子どもを「消費主体」の自信をもたせると危険であるこ
 とを知っていて,尚かつ,人が生きるということは単に経済的自立を意味するわけでは
 ないということを教えることのできる親の子どもたちは学びに向かっていける。


 <教育における格差>   ←→   <親の姿勢の格差>
(単に勉強だけでなく)




□教育内部だけの問題なのか?
    
 80年代

 ~ 「新しい子どもたち(オレ様化)」の登場


 ~ 家庭の教育力の低下
  



□家庭教育も変わった  親たちの倫理性の欠如 


「個性化」と「社会化」 個性化よりも社会化を

 管理はしないよりした方がよい
       
 共同体的な「個」
 

◎ 公教育(普通教育)は,近代的市民(国民)形成にかかわるものとして自己限定すべき 





◇諏訪 哲二(すわ てつじ、1941年- )

 元高校教師。「プロ教師の会」代表。埼玉県川越市在住。
 
 千葉県生まれ。東京教育大学文学部卒業。埼玉県の高校教員を40年勤め、2001年3月に定年退職。  
 プロ教師の会(当初は埼玉教育塾)の思想上のリーダー。著書多い。
 実践派教師として教育業界では代表の河上亮一と並んで大有名人である。



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