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(1)「学習課程論」-『図説 小学校社会科授業の事典』小学館 1982年 より ②   (2)「地名を考える」(宮本常一『見聞巷談』八坂書房 2013年 ②)【再掲載】 [読書記録 教育]

今回は8月24日に続いて、「図説 小学校社会科授業の事典」より、
「学習課程論」の紹介 2回目です。


分かりやすくまとめられています。


もう一つ、再掲載(2014年2月)となりますが、『見聞巷談』より、
宮本常一さんの「地名を考える」を紹介します。
平成の大合併から10年以上、考えさせられます。





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(1)「学習課程論」-『図説 小学校社会科授業の事典』小学館 1982年 より ②

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◇学習過程における教師の役割 

  
□学習問題       

(1)子供自らが解決しなければならない「問題」の形に編成した教材の提示


(2)問題解決を促す指導の工夫


(3)多様な学習活動と準備・援助


(4)助言・確認・同感など子供の活動の援助


(5)子供の協同関係の促進



  学習のねらい





◇学習形態

(1)個別学習

  ① 学習問題意識の個別化


  ② 学習計画の個別化


  ③ 学習方法の個別化 
      解決方法


  ④ 学習への強い動機付けの必要


  ⑤ 個別学習と集団学習の相互作用の中での個別化



(2)小集団活動の進め方

  児童相互間の共同的関係の確立と児童自身の主体的な集団参加を期待しつつ学習計画
 をあげようとするもの




◇一斉学習
  
(1)講義 - 受容学習


2)発問 - 思考学習 教師が発問をつくる


(3)討議学習 
    教師の発問が必要
・学習の個別化に留意すること
・学習の集団化に留意すること

   欠点 - 一問一答式 学習に参加せぬ児童の無視



  バズ学習 小集団学習











(2)「地名を考える」(宮本常一『見聞巷談』八坂書房 2013年 ②)【再掲載】

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 世の中がここ20年あまりの間に大きく変わって来た。


 終戦後の苦しい生活からよくここまで抜け出て来たものだとふりかえってみて感慨深い
ものがあるが、その変わっていったことの中にいろいろの要素があった。




 町村の単位が小さくては行政上いろいろの支障もあるということになって、昭和29年
から31年へかけて町村合併がおこなわれ、たくさんの市が生まれ、町が生まれた。


 昔は市域といえば大てい人家があった。


 ところが、新しい市域には高い山も深い谷も含まれ、猪や猿や鹿のいる地域も含まれる
ようになって都市というものの観念を大きく変えたばかりでなく、新しい市町村名もずい
ぶん生まれた。


 もうこれ位でおしまいになるのかと思っていたら旧地名は郵便配達に差支えをおこすこ
とが多いからということで、民衆の方の側も政府のお触れに忠実にしたがって地名をかえ
たところが多い。


 その上、新しい居住地区に今までにないような地名が付けられるようになり、これでは
昔のことがわからなくなってしまうではないかということで古い地名を守ろうという動き
の出て来るのもまた当然のことかと思う。


 それでは古い地名に固執するのがよいかといえば、そうばかりもいっておられない。

 
 時勢のかわるとき、もっともかわりやすいのが地名なのである。


 政治というものは、政令のもっともおこないやすいようにするためにまず地名とその区
画をきめていく。


 古い時代からのことを考えてみても、律令国家のできたとき、国郡郷の制度を施行した。


 その後荘園が発達して国内の地名のほとんどが荘園名になったことがあった。


 その荘園制を武家政治がきりくずし、今度は夥しい名田の発生を見た。


 そのもつれが戦国時代を生み出したといっていい。


 そして太閤検地によって郡村制が確立された。




 それが明治になって県郡市町村という形に統一された今日の行政単位の基礎がきずかれ
たのであるが、戦後の訂正を大きくせまられて来たことも否定できない。


 その結果行政区画の再編成がおこなわれ、地名もまた改められていった。


 町村合併のときなどは、旧町村名を使用することは感情の上からむずかしかったものが
多い。


 合併されるものの中の一つをとって他を捨てるということは住民感情の上から不可能に
近いものがあったであろう。


 それも近隣の村々が合併を必要として話しあいをすすめたのではなく、政府の要請によ
ったことからそうなっていったのであるから無理な合併も多かった。


 ところが郵便配達の都合上地名を変更するというのはまったく便宜的なもので、しかも
住民の大半は変更についての相談にあずかることもなかった。


 もう少しみんなで話しあう機会はなかったかと思うが、日本では一般民衆の力が弱い。


 官僚主義(封建主義と言ってもよい)が多くの人たらの身についている。


 そして、政府の指令の7、8割までは実行されることになる。



 時勢に応じての改変はやむを得ないものだし、またそれは当然ともいえる。


 ただその改変に民衆の意志がどれほど反映するかが問題である。


 あるいは住民の大半が新しい地名を喜んでいる場合もあるであろう。


 しかし古いものが残され得る余地のある場合には残しておいてよいのではないかと思
う。


 今からそんなことを言ってもおそいのかもわからないが訂正されることだってあり得る
のは明治の初に行政区画を大区だの小区だのにして番号をつけてよんだことがあったが、
これは間もなく訂正された。


 今日の場合は番号ではなくて新しい固有名詞を作ったのであって、それがよいわるいは
別としてすでになじみ深いものになっているところも多い。


 それをまたもとに戻すとしても、もとのままにはなりにくくなっている。



 長くその土地に住んでいる者にとって地名の変ることには多くの苦痛をおぼえる。


 そこで、そういう人たちは日常は旧地名を使う。


 たとえば私の生れた山口県大島郡東和町大字西方1962番地は、周囲の人からそのよ
うによばれることはほとんどない。


 みな長崎の宮の下といっている。


 長埼はもとは地名であったが今は土地台帳にその名はない。つまり通称なのである。


 地方をあるいていると通称の生きている例は実に多い。


 一定の土地に人が住み続けている場合にはこれまで旧地名は通称として残っていった。


 そしてそれは今日もかわりないものと思う。


 しかし住民の移動の甚だしい都会地では旧地名は消えやすい。


 旧地名にともなう体験も思い出も特っていないからである。


 地名を守るということはその土地にどれほど愛着を持ち永住性を持つかによって問題と
されてよいものであって、新しい住宅団地などに住む者にとっては旧地名よりも新地名の
方がかえってのぞましいかと考える。


 その土地はすっかり改造されてイメージもまたかわってしまっているのである。


 ただ新しい地名をえらぶ場合に、その地名がその土地にふさわしいか否が問題になるの
ではなかろうか。



 私は地名のかわっていくことにむしろ歴史の流れを感ずるものであり、新しい地名のつ
け方にこの時代の姿を見るように思う。


 そして大切なことは、そこに住む人たちがどれほどその土地を愛し執着を持つかに一切
がかかっているように思う。


 ということはさきにもいったように、新しい地名がつけられても、ほんとうに愛着をお
ぼえる地名ならば通称として残っていくものだからである。

 と同時に民衆がもう少し腰をおちつけて物を考え、物を言うようになってほしいのであ
る。
               (「伝統と現代」53、伝統と現代社、昭和53年7月)


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