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(1)「学習課程論」-『図説 小学校社会科授業の事典』小学館より ③(最終)   (2)「何がいじめを生み出すのか」 『子どもが問題行動を起こす前に読む本』②八ッ塚実 1994年 より【再掲載】 [読書記録 教育]

今回は8月27日に続いて、「図説 小学校社会科授業の事典」より、
「学習課程論」の紹介3回目 最終です。


分かりやすくまとめられています。
今回は8月24日に続いて、「図説 小学校社会科授業の事典」より、
「学習課程論」の紹介 2回目です。


要約からは想像できないかもしれませんが、分かりやすくまとめられています。
「発問」の言葉がコンパクトに紹介されています。



もう一つ、再掲載(2018.8)となりますが、八ッ塚実さんの
「何がいじめを生み出すのか」(『子どもが問題行動を起こす前に読む本』②)を紹介します。
次の言葉、

「いじめの風土の基底は迎合なのだ。迎合は、正しい人間のつきあいではない。」

が、心に響きます。

厳しい言葉ですが、教員も、家庭も耳を傾けなければ埋けない言葉だと思います。





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(1)「学習課程論」-『図説 小学校社会科授業の事典』小学館より ③(最終)

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◇グループ学習 バズ・セッション 
  
バズ・セッション  

 話題を明確に。

 事前に必ず個人のアイデアや考えをまとめる時間。

無理にグループにまとめない。



□グループ学習    
 
 4人まで (5~6人)。

 リーダーとフロア(成員)の間に大きな差がないように。






◇指導の基礎技術
  
(1)発問

 ① 問題に気付く段階  

   ・見たことがあるか。  

   ・聞いたことがあるか。

   ・知っているか。

   ・やったことがあるか。

   ・何だろう。

   ・どうなっているのか。



 ② 問題を明確にする段階

   ・それでよいのか。   

   ・比べるとどうか。

   ・おかしなところはないか。

   ・どこがどのように違うのか。

   ・どんなことに気付いたか。



 ③ 学習の計画を立てる段階

   ・何を調べたらよいか。

   ・どんな方法で調べるか。



 ④ 追究する段階    

   ・なぜだろう。 

   ・どういう理由か。

   ・どんなことが考えられるか。

   ・どうしたらよいだろうか。

   ・どんなつながりがあるか。

  ・どうしてそうか。



 ⑤ まとめる段階    

   ・何が分かったか。 

   ・どんなことが言えるか。

   ・他にこのようなことはないか。                          
   ・これからどうするか。





(2)板書

□意義 
 ① 要点提示

 ② 内容の省略・精選

 ③ 記号・図形による重点化

 ④ 学習内容の継続的提示

 ⑤ 完成までのプロセスに意味を持たせる。














(2)「何がいじめを生み出すのか」 『子どもが問題行動を起こす前に読む本』②八ッ塚実 PHP 1994年 より【再掲載】

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○子ども集団が持つ力は大きい

 小学校で開かれる授業研究に参加させていただいた。


 授業前、教室に行って子どもたちとおしゃべりをした。
 三年生の教室。
 どの子もはじけるような元気者ばかり。

 招待授業の時は、こうして少しでも気心を通じさせておく。

 なにしろ、授業を成り立たせる一番大きな力は、人間関係だからだ。


 「これは何?」

 私が指さす大きな模造紙に、みんなは声を揃えて答えてくれる。


 「ザンパン調査!」


 みんなの名前の下に、オパミ、オパミと書き込んである。


 「オはねえ、おかず。パはねえ、パン。ミはねえ、ミルク」


 オパミの意味を解説してくれる。


 「じゃ、この人は毎日残しているわけ?」


 毎日、オパミが書き込まれている子が、数人いる。


 「この子たちは、リッパだね。毎日残さず食べているわけだ」


 名前の下が真っ白の子も堂々といる。そんな話をしていると、ちょっと気取った感じの
女の子が、私に向かっていった。


 「給食はねえ、まずくていや! 私の目には合わないの」


 「そうよ!私も」


 その子の言葉を応援するように三人はどの女の子も声を揃えた。


 「給食、そんなにマズイ?」


 私の質問に、グループを形成しているらしいその女の子たちは一斉に答えた。


 「マズイ、マズイ。私ら全然食べないもん」


 給食を残すことを踏み絵にして、グループの仲間にしてもらっているんだなと、私には
構成の力学が読める。


 もちろん中心になるリーダーは、はじめに口を切った気取った女の子にちがいない。


 子どもの世界に長年生きてきた私には、彼女たちの言動の裏がすぐに読み取れる。


 この教室のほんとうの担任(私は招待された身だから)は、この種のグループ化に気が
つかないといけないな、と思った。


 「この子ら、食い意地がはっているから、あんなマズイ物をガツガツ食べるのよ」


 名前の下が真っ白な子のところを指さしながら、彼女たちは同級生の何人かをはずかし
める。


 「そうじゃないよ。この子らいい子だよ。給食を残さず食べているんだから」


 表を見ると、毎日残す子、時々残す子、毎日きちんと食べる子、オパミの長さでひと目
でわかる。


 その点検を、いやしいだの、ガツガツしているだのという材料に使うなんて、私はおど
ろいてしまう。


 私が、食べる子を支持しているとわかった女の子たちは、


 「ふん、いやなセンセ!」


 そういって、私から離れていった。

 同意を求めて、一緒にはずかしめてやろうと思ったのに、うまくいかなかったので、ア
テが外れたのだろう。




 何のための給食残飯点検なんだろう、と思う。


 できるだけ食べて、残さないようにしようというのが目的ではないのだろうか。


 授業(子どものための人間科)は、楽しく構成することができたけれど、私はこのオパ
ミ表が、その日から心にひっかかったままだ。



 「迎合」「調子合わせ」「へつらい」が基底となって、教室内では必ず小さなグループ
が形成される。


 中心には、その時点で一番有力な子がすわる。


 リーダーの傘下に入るということは、自分がいじめられないという保証でもある。


 どんなことをしてでも、グループに加わりたい。迎合など何でもないのだ。


 オパミの点検表の前で、「私ら、あんなマズイ物は食べたくない」といった腰巾着さん
たちがその例なのだ。


 リーダーが、自分の個人的な好みを、配下の子たちに押しつけているだけだ。


 その中には、食べたい子だっているだろうに。


 低次元の共有点のために、心にもないことをいう。「食べない」だけで、仲間に入れて
もらえるのだから、空腹の辛抱もできるのだろう。

 こんな悲しい優越感があるだろうか。




 子どもの世界では、給食に限らず、それ以外のことでもいくらでも起こるのだ。学級担
任や親が、この種のグループ形成の力学に無関心である限り、悲しいへつらいは跡を絶た
ない。


 この種のグループが進んで、奉仕作業をするとか、共同学習をするとかという道を歩む
ことは、まずない。


 この種のグループの中心になる子には、次のような不思議な共通点がある。


 リーダーになりたいという「気心」が、いくぶん優越感を秘めているからではなかろう
か。


 ・独善的、独り善がり

 ・見下し意識

 ・正しく主張する自己素材のなさ


 リーダーの幼稚な自尊心が、この種のグループの共有する価値となる。


 親は、自分の子どもを育てていると思っているかもしれないが、子どもはひとたび家を
離れると、低次元なリーダーの意識に、身も心も捧げているのだ。


 教師や親の教育力よりも、はるかに大きな力をもつのが、子ども集団といえる。


 なにしろ、目の前の学校生活が楽しくなくては、何のために学校にきているのかわから
ないから。


 手っ取り早く、今すぐいいカッコさせてくれるグループに入れたしあわせ。

 のめり込み、忠誠をちかい、道化師の役だって平気。


 直接責任を負う関係にある親や教員が育てているのではなくて、全く何の責任も負って
くれない他人が、最も大切な教育をしていることになる。


 小グループの形成に、もっと敏感にならなくてはならない。中学・高校生と年齢が進ん
でも、やはり同し理屈でグループができることに変わりはない。






○地道な指導が大切


 世はあげてのグルメブーム。


 味がどうの、こだわりがどうの、素材がどうの、と異常とも思えるほどの比重で登場す
る「食文化」。


 私も食い意地がはっているほうだから、テレビのそうした番組の「あっ、おいしい!」
にはよく目がいく。


 子育てとは、全く関係ないように思えるのだが、実はこのグルメブームは、発達途上の
子どもの心にも大きな影を落としている。


 大人の意図とは裏腹に、このブームが子どもの上にもたらすものは、「ぜいたく」。


 食文化を理解した人が、年を重ねてたどりつく美食の世界は、それなりに文化を構成す
る。


 しかし、子どもの世界にまともに提供されるそうした美食の経験は、「傲慢を伴ったぜ
いたく」心の突出にしかならないのだ。


 年端もいかない子が、口に合うだの、合わないだのと、五十年早いのだ。



 家庭によっては、親たちまでが、そのとりこになって、「気障な食通ぶり」が、まかり
とおっている。


 先にあげたリーダーの家庭が、まさにそれにちがいない。


 その子は、それをじかに教室にもち込む。たしなめ、正してやらなくてはならない。
この場合、親にはできない。親は、それを育てているのだから。



 じゃあ教員は?



 気がついていないのであれば、何をかいわんや。おそらく野放しなのだろう。


 給食を廃止するというと、ただちに金切り声の猛反対にあう。

 ところが、実際には、「給食はありがたくいただいてくるのよ」というような、地道な
指導を家庭でやっている親は少ない。


 毎日つくられる残飯の山が、心の痛みを伴わないで積み上げられている現実は悲しい。





○いじめられたくない者がいじめる


 個人を大切にする社会は、本来は他人の言動に尊敬の気持ちを抱く。


 ひらたくいえば、人に迷惑をかけないという大原則を守っている限り、何をしようと勝
手なのだ。


 とやかくいわれたり、はずかしめを受けるいわれは全くないのだ。


 理屈めいた言い方をすれば、「いじめ」は最も身近な、最も直接的な、最も実害型の「人
権侵害」なのだ。

 人間の宝ともいうべき、「自由の侵害」そのものなのだ。


 私たちは、「いじめ」を、出来事の陰惨さや過酷さで語ることが多いが、程度の問題で
はないのだ。


 「ささいなこと」と「すさまじいこと」との間に線などない。


 給食を食べる子を、平気でさげすむ神経は、人を死に至らしめるいしめと本質的になん
ら変わるところはない。


 犯罪的であることでは、両者は同じなのだ。


 行きつくところまでいってしまった子。


 そういう子は、たいてい「わる」と呼ばれ「手のつけられない非行少年少女」といわれ
る。

 しかし、はじめからそうだった子は一人もいないということを忘れてはいけない。


 どうして、そこまで無軌道になれるのか、理解できないという人もあろう。


 一気にそうなったのなら、それは理解の外だ。


 だが、一気ではないのだ。ゆっくりと、周囲も気がつかないうちに、そこへ至るのだ。


 ・軽い迎合

 ・少々気の乗らない迎合

 ・無理をした迎合

 ・強制された迎合

 ・慣れてしまい麻痺した迎合

 ・身についてしまった迎合

 ・エスカレートして、心にもない迎合


 人間、誰だって冷静であれば、とんでもない無茶はやるものではない。にもかかわらず、
そこへ至る。


 それは、グループヘ入りたいという切ないまでの迎合であることを、見落としてはなら
ない。


 「のけ者にされたくないという気持ちが、のけ者を生む」


 「いじめられたくない者が、人をいじめる」


 今の教育現場が、なぜいじめの風土なのか。

 それは社会全体が同じ風土だからだ。

 いじめの風土の基底は迎合なのだ。迎合は、正しい人間のつきあいではない。


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