『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)静岡県女子師範学校郷土研究会編 1994年 25 (最終) [読書記録 郷土]
今回は、10月30日に続いて、静岡県女子師範学校郷土研究会編による
『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)25回目 最終の紹介となりました。
戦前に女子師範学校の学生さんがまとめた昔話集です。
その努力のおかげで、現在のわたしたちが楽しむことができます。
今回も前回に続き「植物に関する話」です。
木に関する話が多いのですが、家康さんに関わる伝説が浜松近辺に如何に多いのか、
ということに本書が改めて気付かせてくれました。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)静岡県女子師範学校郷土研究会編 1994年 25(最終)
11 植物の話 続き
(5)雲立の楠 (浜松市)
浜松市八幡町にある八幡神社の拝殿の左側に、三抱えも四抱えもある大きな楠の木があ
る。
非常によく茂って、根元には大きな穴が出来ている。そこに「雲立の楠」と刻んだ石が
立っている。
これは、以前は御旗の楠と言っていたという。
それは、前九年の役に八幡太郎義家が奥州に向かう途中、この楠の元に源家の旗を建て
て武運長久を祈ったからだといっている。
それが「雲立の楠」というようになったのは、徳川家康が三方原の合戦に敗れ、この所
に退いて祈願をこめた時、たちまち瑞雲が現れた。それからだという。
(金原せつ)
(6)小判松 (浜松市)
市内の刑務所の近くに大きな松があった。
それが沖を通る船から見ると、小判が一ぱいなっているように見えたというので、小判
松といった。
現在は無い。(金原せつ)
(5)幡懸松(引佐郡三ケ日町)
大福寺境内の西北隅に、幡懸松といって、周り二丈(約6.1㍍)余りで、実に千歳の
寿を保ったかと思われる松の木があったが、明治初年に枯死したとか。
鳳来山の幡教寺(現大福寺の旧名)を現在の地へ移転した時、幡教寺の和尚は開山の故
智にならい、幡を高く投げ上げて占った。
すると幡は高く舞い上がり、紫の雲につつまれて、はるかに飛んで、堂山のふもとの松
の梢にかかった。
それで、この松の所に堂答を建立して移転した。
ここは時の帝の勅願所となり。勅額を賜って幡教寺を改めて、大福寺と号した。
(掘川てる子)
(6)大楠 (引佐郡三ケ日町)
いつのころに芽生えたのか分からないけれど、五風十雨の恵みをうけ、数知れぬ星霜を
重ね、世にも珍しい大木よ、神木よと、はやされた日比沢の楠は、幹の周り実に五丈一尺
(約15.5㍍)、高さ十二、三間(約22~23㍍)、枝を張ること五畝に及び、根は
四方に広がり、所々に狐の穴等があった。
冬時は狐が朝早く鳴くこともあり、人々が「楠木様が鳴く」などと言っていた。
それが不思議にも明治十年、風も凪いだ静かな朝、百雷の一時に落ちるような大音響と
共に、大きな枝(枝とはいえ、なかなか、木の幹にもまさる)が落ちて来たが、その枝の
空洞に巣くつていた朽縄蛇も枝と共にちぎれて落ちた。
その後の明治21年にも、再び同様の事があったという。
樹の下に楠木神社、稲荷明神の二社を祀り、毎年2月初午の日を例祭とした。
上下の旅人の立ち寄る者が多かった。
昔、薩州侯 (薩摩の殿様)が家臣に三間(約5.4㍍)の槍を横に構えさせ、この木
をへだてて、これを見たが、一向に穂先も石突きも見えなかたという。
いかに大きかったかがわかる。
だが、明治23年、商人に買われてその形を断たれた。
昔、東照権現(家康)がこの空洞に隠れたとか、または忠臣、楠正成はこの所に生まれ
たのだとか、種々の伝説もある。
(掘川てる子)
(7)家康の隠れ松(引佐郡あら玉村・現浜北市)
浜名郡赤佐村小野の山に石碑のような石が立っていて、松が5、6本生えている所があ
る。
これは戦国のころ、徳川家康が武田氏と戦って敗れ、浜松へ逃げる途中、ここに隠れて
敵の目をくらましたといわれる。
(大西とき子)
『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)25回目 最終の紹介となりました。
戦前に女子師範学校の学生さんがまとめた昔話集です。
その努力のおかげで、現在のわたしたちが楽しむことができます。
今回も前回に続き「植物に関する話」です。
木に関する話が多いのですが、家康さんに関わる伝説が浜松近辺に如何に多いのか、
ということに本書が改めて気付かせてくれました。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
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お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)静岡県女子師範学校郷土研究会編 1994年 25(最終)
11 植物の話 続き
(5)雲立の楠 (浜松市)
浜松市八幡町にある八幡神社の拝殿の左側に、三抱えも四抱えもある大きな楠の木があ
る。
非常によく茂って、根元には大きな穴が出来ている。そこに「雲立の楠」と刻んだ石が
立っている。
これは、以前は御旗の楠と言っていたという。
それは、前九年の役に八幡太郎義家が奥州に向かう途中、この楠の元に源家の旗を建て
て武運長久を祈ったからだといっている。
それが「雲立の楠」というようになったのは、徳川家康が三方原の合戦に敗れ、この所
に退いて祈願をこめた時、たちまち瑞雲が現れた。それからだという。
(金原せつ)
(6)小判松 (浜松市)
市内の刑務所の近くに大きな松があった。
それが沖を通る船から見ると、小判が一ぱいなっているように見えたというので、小判
松といった。
現在は無い。(金原せつ)
(5)幡懸松(引佐郡三ケ日町)
大福寺境内の西北隅に、幡懸松といって、周り二丈(約6.1㍍)余りで、実に千歳の
寿を保ったかと思われる松の木があったが、明治初年に枯死したとか。
鳳来山の幡教寺(現大福寺の旧名)を現在の地へ移転した時、幡教寺の和尚は開山の故
智にならい、幡を高く投げ上げて占った。
すると幡は高く舞い上がり、紫の雲につつまれて、はるかに飛んで、堂山のふもとの松
の梢にかかった。
それで、この松の所に堂答を建立して移転した。
ここは時の帝の勅願所となり。勅額を賜って幡教寺を改めて、大福寺と号した。
(掘川てる子)
(6)大楠 (引佐郡三ケ日町)
いつのころに芽生えたのか分からないけれど、五風十雨の恵みをうけ、数知れぬ星霜を
重ね、世にも珍しい大木よ、神木よと、はやされた日比沢の楠は、幹の周り実に五丈一尺
(約15.5㍍)、高さ十二、三間(約22~23㍍)、枝を張ること五畝に及び、根は
四方に広がり、所々に狐の穴等があった。
冬時は狐が朝早く鳴くこともあり、人々が「楠木様が鳴く」などと言っていた。
それが不思議にも明治十年、風も凪いだ静かな朝、百雷の一時に落ちるような大音響と
共に、大きな枝(枝とはいえ、なかなか、木の幹にもまさる)が落ちて来たが、その枝の
空洞に巣くつていた朽縄蛇も枝と共にちぎれて落ちた。
その後の明治21年にも、再び同様の事があったという。
樹の下に楠木神社、稲荷明神の二社を祀り、毎年2月初午の日を例祭とした。
上下の旅人の立ち寄る者が多かった。
昔、薩州侯 (薩摩の殿様)が家臣に三間(約5.4㍍)の槍を横に構えさせ、この木
をへだてて、これを見たが、一向に穂先も石突きも見えなかたという。
いかに大きかったかがわかる。
だが、明治23年、商人に買われてその形を断たれた。
昔、東照権現(家康)がこの空洞に隠れたとか、または忠臣、楠正成はこの所に生まれ
たのだとか、種々の伝説もある。
(掘川てる子)
(7)家康の隠れ松(引佐郡あら玉村・現浜北市)
浜名郡赤佐村小野の山に石碑のような石が立っていて、松が5、6本生えている所があ
る。
これは戦国のころ、徳川家康が武田氏と戦って敗れ、浜松へ逃げる途中、ここに隠れて
敵の目をくらましたといわれる。
(大西とき子)