SSブログ

(1)草柳大蔵さんはこんなことを⑨  (2)「楊子町で声張り上げたひばりと川田晴久」『東海展望』1959年8月号 【再掲載】 [読書記録 一般]

「本当の優しさを持つことのできる人は、しっかりとした心構えがある人だけだ。優しそ
 うに見える人は、通常、弱さだけしか持っていない人だ。そして弱さはわけなく気むず
 かしさになりかわる」    ラ・ロシュフーコー









今回は、8月24日に続いて、わたしの読書ノートから、
「草柳大蔵さんはこんなことを」9回目の紹介です。




今回も、大和書房から出された「知っていますか男の偏差値」からの紹介です。



出版社の案内には、

「貴女の男性理解はたしかですか。惚れ惚れするような男から、うんざりする男まで。現
 代の男性を解像する草柳大蔵の『女性のための男性論』。」



とあります。



今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「『やさしい』という高級な概念が一般化して、ブランドものの鞄やスカーフのように
  持ち運びされるようになったのか」


・「人間は強くなければ生きられない。しかし優しくなければ生きていく資格がない」


・「優しさ → 人を憂うる
人を憂うる能力がある人が優しい人」





もう一つ、再掲載となりますが、かつての月刊誌『東海展望』より、
「楊子町で声張り上げたひばりと川田晴久」を紹介します。

林泉寺は、わたしが大変お世話になった正明先生のお宅。
I先生が亡くなられてからしばらく訪れていませんが、
寺内案内を見るとI先生らしさが表れています。
「美空ひばりが浜松の白脇小学校で歌った」「消防団の車に乗っていった」等、
その頃の話を正明先生からも伺ったことを懐かしく思い出します。

最近、この話を同僚にも話したのですが、
誰も「地球の上に朝が来た」の川田晴久さんのことを知らず、自分の年齢を感じました。






<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。

浜松ジオラマファクトリー




(1)草柳大蔵さんはこんなことを⑨


1.jpg

☆「知っていますか男の偏差値」草柳大蔵 大和書房 1988年(4)

◇やさしい男

□やさしさを誤解していないか

 高級化・上質化はゴメン


 わけ 
   ① 普通の水準そのものが排除されてしまう

   ② 高級化を志向する社会には、ニセの高級品が表れること

     ↓

   お嬢さんが結婚相手に望むものは「やさしさ」

   
 口を開けばやさしさの行列

  「やさしい」という高級な概念が一般化して、ブランドものの鞄やスカーフのように
  持ち運びされるようになったのか





□やさしさの前に強さがある

 レイモンド・チャンドラー 『プレイバック』

「人間は強くなければ生きられない。しかし優しくなければ生きていく資格がない」


 ラ・ロシュフーコー
「本当の優しさを持つことのできる人は、しっかりとした心構えがある人だけだ。優し
  そうに見える人は、通常、弱さだけしか持っていない人だ。そして弱さはわけなく気
  むずかしさになりかわる」
 




□やさしさは料理で言えば「隠し味」
 
 米国 - 一貫して男性像 
      チャールズ・ブロンソン 
      リチャード・バートン


 男が女に優しくするのは、男の方に「自分は強いんだから」という自信があるからだ 
                            増田光吉教授(甲南大学)


 増田光吉教授(甲南大学)
 「やさしさなんてものは一般的な性能でね。古来の日本風に言えば、やさしさなんて、
  女の持っていたもの、そういうと怒られるかもしれんけど、大和撫子的なもんです。
  男が女から’この人優しいから好き’なんていわれるのは男性性が希薄だということ
  ですよ。」

= 男のエネルギーのガス漏れ


 やさしさは「隠し味」
普段不器用で口下手でちっともスマートのところのない男が、折にふれてチラッと
  見せる「やさしさ」これこそ本質。

  = やさしさが両面に出た男なんて料理で言えば「隠し味」がベタベタ出ているよう
   なもので、とても食べられたものではない。 

  |



  「やさしさ」を最初に求めてしまうと、調味料を山のようにふりかけた料理を食べさ
  せる始末になる。


 「やさしさ」とは人を憂うる能力


 つよさ 
   逆境に負けない困難にくじけないのも「つよさ」

   フィジカルな「つよさ」よりもメタフィジカルな「つよさ」の方が大事

            |

   身体に障害のある人々の存在 - 一様に優しかった


 「優しさ」 → 人を憂うる

          人を憂うる能力がある人が優しい人











(2)「楊子町で声張り上げたひばりと川田晴久」『東海展望』1959年8月号 【再掲載】

 浜松市楊子町の古刹林泉寺の境内にある毘沙門天は花柳界の守り本尊である。


 毎月3日の縁日にはいろいろの願いごとを胸に畳んだ綺麗どころの一団で百花が妍を競
う。


 ことに4月3日は縁日中の縁日で咲きこぽれる桜の花が文字通り錦上華を添えるのであ
る。


 今から12、3年前まだ終戦政府の混乱も跡を絶たず、一方娯楽に飢えた国民によって
素人の村芝居などが機会あるごと俄かづくりの舞台で幕をあけたり閉めたりしたころ、や
っと甘味がかすかに舌の先にのこる綿菓子を片手で頬ばり乍ら,飛入りで集うみすぼらし
い少女があった。


 色褪せたつんつるてんのスカート、小指の飛び出したズック、どうみても、闇米で肥え
ふとった農家の娘たちよりは貧相な身装りの女の子だった。


 然し綿菓子をほうばりほうばりの片手間にロからとび出す並木みち子のヒット曲「林檎
の唄」を真似る声はスカートやズックとは似ても似つかぬ素晴らしさで喝釆の嵐浴びてい
た。




◇重症カリエスで来浜

 歌謡漫談の一座「ダイナブラザー」のチーフ川田晴久が重症の脊椎カリエスを療養する
ため文子夫人を同伴して林泉寺本堂に身を寄せたのは22年春先きだった。


 両足がつって歩行さえもまゝにならぬという最悪の症状にいた川田晴久はここで大河内
仁三郎さんの灸療法をうけるために来ていた。


 川田晴久の脊椎カリエスはほとんど固疾といってもよい程の持病になっていた。


 いま北寺島町で大河内温熱療院を経営している仁三郎さんが子供の時の大火傷から両手
両足が変型し整型外科治療をうけるため信濃町の慶応病院に入院した昭和17、8年当時
隣室のベッドで脊椎カリエスの療養を続けていたのが川田晴久だった。


 大河内さんは全快し、川田も小康を得てそれぞれ退院してからも入院中培った二人の友
情はそれ以来、一昨年6月川田晴久が死ぬまでの十年間兄弟以上のよしみとして続けられ
た。



 鴨江で戦災をうけ水窪に疎開していた大河内さんは戦火が消えるとともに市中に引き揚
げ家を新築するまで檀家寺にあたる林泉寺の一室を借りこゝで灸点を始めた。



 そこへ終戦前後の過労でまたぶり返した持病の相談を川田晴久からうけた大河内さんは
自分の手許に呼んで灸療法でいくらかでも治やしてやろうということになった。


 しかし物堅いお寺にとって芸人が間借りするということはちょっとした問題であった。


 芸人とは世間の常識から一歩外れた日常生活を階級と考えられていたのだから問題にさ
れたのも当然だった。





◇綿菓子片手に歌う小娘

 然し林泉寺に来た川田の常住座臥は謹直そのもゝ、前身が女優の婦人がモンペはきで遠
くから炊事の水を運び男下駄で買物に行く地味な姿と共隣隅近所の人々をびっくりさせ
た。


 健康な時には野菜はおろか飯もくわず肉ばかりを貪り喰うといった極端な偏食も批処に
来てからは大河内さんや文子夫人の忠告を守ってせっ生を続けた。



 近所の青年たちが来れば布団の上に起き直ってギター、ウクレレを教えた日もあった。


 そんな日常のつれづれを慰めるかたわら彼に歌をおそわりに横浜から度々訪れて来る、
みすぼらしい少女があった。


 名前は加藤和枝といった。


 来る時はいつも母と一緒だった。


 当時流行し始めた素人のど自慢で笠置しず子そっくりのおませな真似をして歌謡界から
注目し始められた加藤和枝を将来が楽しめそうだと期待をかけたのが川田晴久だった。



 和枝はその真似ぶりを見込まれて藤尾純、伴淳三郎、日暮里子らが組織していた新風
ショーに子役として出るようになった。


 しかしあくまでも人真似の彼女の喉は本格的な歌謡歌手という訳にはゆかなかった。


 川田晴久は一人前の歌手として成長させるために当時まだ小学校5年かそこらの彼女を
頻繁に林泉寺に呼んで本格的な練習をつませた。


 部落の人たちを集めてその前で歌わせ舞台度胸をつけさせることも修業の一つだった。


 綿菓子をほうばり乍ら歌った少女がこの加藤和枝だったのである。





◇灸療師と3人の歌手

 昭和23年6月横浜の国際劇場で開かれた歌謡大会で笠置しず子と揃って出演した少女
歌手美空ひばりはあたかも笠置と競演という皮肉な結果になり、笠置はひばりのためにジ
ャズ歌手の王座から引きづり下ろされ、ひばりが大きく流行歌手としてクローズアップさ
れるに至った。



 浜松市外の片田舎で色褪せたスカートに指の出たズック、綿菓子片手に身ぶり手ぶりで
謳った加藤和枝が美空ひばりと名のり、五彩のライトを満身に浴びての晴れの舞台姿だっ
た。



 23年暮大河内仁三郎氏の友情をかけた治療によって頑固な脊椎カリエスも癒えた川田
晴久は大河内氏、林泉寺、そして地元の人々の熱い情けに幾度も感謝の頭を垂れて東京に
引き揚げて行った。




 一昨年初め、舞台の階段でつまずいて赤坂の前田外科に入院したが治療中腎臓結核を
併発、6月20日遂に50歳で病苦の生涯を閉じた。


 会葬通知の友人総代に名を連ねていた美空ひばりの成長ぶりは川田晴久にとって何より
の嬉びであり供養だったに違いない。



 美空ひばりによって王座から蹴落とされた笠置しず子も昭和19年、まだ花月劇場とい
った頃の浜松座に出演中急性リユウマチで大河内さんの許にはこばれたこともあったとい
うから大河内さんを取巻く因しき三人歌手の因縁ともいえよう。




 いまスランプにあるといわれる美空ひばり、東京で旅館「川田」を経営する文子未亡人、
吉本興行の御曹子との間に出来た一人粒しつましく生きている笠置しづ子、近づく楊子六
所神社の夏まつりを前にそれぐ思い思いの追想を浜松の空に馳せていることだろう。



nice!(148)  コメント(5) 
共通テーマ:学校