「自ら考える授業への変革」武田忠 学陽書房 2011年 ① [読書記録 教育]
今回は、武田忠さんの
「自ら考える授業への変革」の紹介1回目です。
出版社の案内には、
「子ども自ら考えるためには『問い』が重要だ。その問いには四つのステップがある。そ
れを授業でどのように立て考えていくか、教科書の文学作品、歴史、生物等の実例をあ
げて示す。初めて『問い』を四つに系統立てて道筋を明らかにし、自ら考える授業をど
う創るか方法論を提示。」
とあります。
今回紹介文より強く印象に残った言葉は…
・「①学んだ結果としての学力 と ②学ぶ能力としての学力」
・「問いの研究を!」
・「考える前提は自発的な問い」
・「問い → 考え、調べ、確かめ、わかり、納得する」
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「自ら考える授業への変革」武田忠 学陽書房 2011年 ①
◇なぜ「問い」なのか
「覚えることが中心」授業が一般的
↑↓
「学ぶ」楽しさや「わかる」喜びが充実感が持てない授業
□「問い」 = 自分にとっての確かな理解を形成していく学びの出発点
何が確かかを「問い」「考える」ことなしに「おぼえる」ことを超えて自分なりの「理
解」にまでたどりつくことはできない
□学力
① 学んだ結果としての学力
② 学ぶ能力としての学力 問い、疑問
|
「自ら学ぶ」という営みにとって「問い」が不可欠であるという認識
「教える」ことが教育であり、それを「おぼえる」ことが「勉強」であるか?
|
「おぼえる」は「ゴール」に値するものなのか?
→「意味」が「分かる」ことが知識ではないか
□「覚える=理解」ではない
物事を理解するためには自分の知識につないで、そこに納得できる確かさ、真実性を見
出していくための新たな追求、思考の過程が不可欠となる。その自分にとって確かな「理
解」を形成していく学び方の出発点になるものが「問い」に他ならない。
□おぼえる < 問い考える
学力 ① 学んだ結果としての学力
② 学ぶ能力としての学力
↓
問いの研究を!
<問いから始まる自ら学び自ら考える授業への変革>
◇問いを忘れた日本の学校教育
「教える」こと中心、「問い」「考える」教育の放棄の責任 = 大人の責任
教師の可能性をも閉ざしている
→ 日常性のなかから問いを!
当たり前すぎることの中に「問い」がある
◇「自ら学び自ら考える授業」に何が必要か
「考える」
=「経験や知識を基にして路の事柄を解決(予測)しようとして頭を働かせる」(新明解)
考える前提は自発的な問い
知性 = 意味まで知っている確かな知識
↑
真実性は学び手の「問い」を通して、「内なる真実」として確信され、理解し直されて
いく過程を経てこそ初めて自分にとっての「確かさ」に結びつく
□「問い」→ 考え、調べ、確かめ、わかり、納得する
他人とは異なる自分の存在
□自己点検としての「自問自答」
◇「問い」を失った大学生とその「回復」の苦しみ
「自ら考える授業への変革」の紹介1回目です。
出版社の案内には、
「子ども自ら考えるためには『問い』が重要だ。その問いには四つのステップがある。そ
れを授業でどのように立て考えていくか、教科書の文学作品、歴史、生物等の実例をあ
げて示す。初めて『問い』を四つに系統立てて道筋を明らかにし、自ら考える授業をど
う創るか方法論を提示。」
とあります。
今回紹介文より強く印象に残った言葉は…
・「①学んだ結果としての学力 と ②学ぶ能力としての学力」
・「問いの研究を!」
・「考える前提は自発的な問い」
・「問い → 考え、調べ、確かめ、わかり、納得する」
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「自ら考える授業への変革」武田忠 学陽書房 2011年 ①
◇なぜ「問い」なのか
「覚えることが中心」授業が一般的
↑↓
「学ぶ」楽しさや「わかる」喜びが充実感が持てない授業
□「問い」 = 自分にとっての確かな理解を形成していく学びの出発点
何が確かかを「問い」「考える」ことなしに「おぼえる」ことを超えて自分なりの「理
解」にまでたどりつくことはできない
□学力
① 学んだ結果としての学力
② 学ぶ能力としての学力 問い、疑問
|
「自ら学ぶ」という営みにとって「問い」が不可欠であるという認識
「教える」ことが教育であり、それを「おぼえる」ことが「勉強」であるか?
|
「おぼえる」は「ゴール」に値するものなのか?
→「意味」が「分かる」ことが知識ではないか
□「覚える=理解」ではない
物事を理解するためには自分の知識につないで、そこに納得できる確かさ、真実性を見
出していくための新たな追求、思考の過程が不可欠となる。その自分にとって確かな「理
解」を形成していく学び方の出発点になるものが「問い」に他ならない。
□おぼえる < 問い考える
学力 ① 学んだ結果としての学力
② 学ぶ能力としての学力
↓
問いの研究を!
<問いから始まる自ら学び自ら考える授業への変革>
◇問いを忘れた日本の学校教育
「教える」こと中心、「問い」「考える」教育の放棄の責任 = 大人の責任
教師の可能性をも閉ざしている
→ 日常性のなかから問いを!
当たり前すぎることの中に「問い」がある
◇「自ら学び自ら考える授業」に何が必要か
「考える」
=「経験や知識を基にして路の事柄を解決(予測)しようとして頭を働かせる」(新明解)
考える前提は自発的な問い
知性 = 意味まで知っている確かな知識
↑
真実性は学び手の「問い」を通して、「内なる真実」として確信され、理解し直されて
いく過程を経てこそ初めて自分にとっての「確かさ」に結びつく
□「問い」→ 考え、調べ、確かめ、わかり、納得する
他人とは異なる自分の存在
□自己点検としての「自問自答」
◇「問い」を失った大学生とその「回復」の苦しみ