教育技術「体育」① / 「楊子町で声張り上げたひばりと川田晴久」『東海展望』1959年8月号【再掲載 2011.8】 [読書記録 教育]
今回は、わたしの教育ノートのまとめから、
キーワード「体育」①を紹介します。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「汗をかくこと」
・「中指に力を入れろ」
もう一つ、再掲載となりますが、かつての浜松の雑誌「東海展望」より、
「楊子町で声張り上げたひばりと川田晴久」を載せます。
恩師であり教職の大先輩でもある、亡くなられた正明先生のお寺・林泉寺は、良い雰囲気のお寺です。
美空ひばりさんの話を伺ったことを思い出します。
☆学校休業中の子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆教育技術「体育」 ①
◇逆上がり
飯田・根本式 段階別台付き逆上がり(教育ノート1巻1ページ参照)
◇体育準備運動
「おしゃべりタイム」 2人組 走りながら3周
<走>
1人 ①右回り
②A君を追い抜かない
③コースロープ上
④B君先頭
⑤鼻だけで呼吸
⑥息を止めて○㍍
⑦後ろ向き
⑧スキップ
⑨ギャロップ
⑩混ぜて
2人 ①パートナーと手をつないで
②一周走る毎に先頭を交代して
3人 ①先頭の人同様
②肩に手を掛けて
◇体育(向山)
1 安全への配慮
2 汗をかくこと
3 技能の向上
◇体育授業
三層の指導の違い
①どこまで上手になれるのか
②どのくらいの指導が必要なのか
③上達はどのように訪れるのか
◇跳び箱「開脚跳び」
①マットを使ってウサギ跳び(突き放し,遠くに手を付く)
②3~4m マットの先端を見て
③認める - 少しでも伸びれば「よし,それでよし」
◇リレー
①リレーゾーンの2メートル手前に白線を引く
前走者が線を踏んだら,次走者が全力で走り出す練習をさせる
②次走者が全力で走り出すとき,右手を腰の所に当てて走る
手のひらは空に
③前走者がバトンを渡すときは,次走者の横に並んだ瞬間に渡す練習を
◇姿勢
「中指に力を入れろ」
☆「楊子町で声張り上げたひばりと川田晴久」『東海展望』1959年8月号【再掲載 2011.8】
浜松市楊子町の古刹林泉寺の境内にある毘沙門天は花柳界の守り本尊である。
毎月3日の縁日にはいろいろの願いごとを胸に畳んだ綺麗どころの一団で百花が妍を競
う。
ことに4月3日は縁日中の縁日で咲きこぼれる桜の花が文字通り錦上華を添えるのであ
る。
今から12、3年前まだ終戦政府の混乱も跡を絶たず、一方娯楽に飢えた国民によって
素人の村芝居などが機会あるごと俄かづくりの舞台で幕をあけたり閉めたりしたころ、や
っと甘味がかすかに舌の先にのこる綿菓子を片手で頬ばり乍ら,飛入りで集うみすぼらし
い少女があった。
色褪せたつんつるてんのスカート、小指の飛び出したズック、どうみても、闇米で肥え
ふとった農家の娘たちよりは貧相な身装りの女の子だった。
然し綿菓子をほうばりほうばりの片手間にロからとび出す並木みち子のヒット曲「林檎
の唄」を真似る声はスカートやズックとは似ても似つかぬ素晴らしさで喝釆の嵐浴びてい
た。
◇重症カリエスで来浜
歌謡漫談の一座「ダイナブラザー」のチーフ川田晴久が重症の脊椎カリエスを療養する
ため文子夫人を同伴して林泉寺本堂に身を寄せたのは22年春先きだった。
両足がつって歩行さえもまゝにならぬという最悪の症状にいた川田晴久はここで大河内
仁三郎さんの灸療法をうけるために来ていた。
川田晴久の脊椎カリエスはほとんど固疾といってもよい程の持病になっていた。
いま北寺島町で大河内温熱療院を経営している仁三郎さんが子供の時の大火傷から両手
両足が変型し整型外科治療をうけるため信濃町の慶応病院に入院した昭和17、8年当時
隣室のベッドで脊椎カリエスの療養を続けていたのが川田晴久だった。
大河内さんは全快し、川田も小康を得てそれぞれ退院してからも入院中培った二人の友
情はそれ以来、一昨年6月川田晴久が死ぬまでの十年間兄弟以上のよしみとして続けられ
た。
鴨江で戦災をうけ水窪に疎開していた大河内さんは戦火が消えるとともに市中に引き揚
げ、家を新築するまで檀家寺にあたる林泉寺の一室を借りこゝで灸点を始めた。
そこへ終戦前後の過労でまたぶり返した持病の相談を川田晴久からうけた大河内さんは
自分の手許に呼んで灸療法でいくらかでも治やしてやろうということになった。
しかし物堅いお寺にとって芸人が間借りするということはちょっとした問題であった。
芸人とは世間の常識から一歩外れた日常生活を階級と考えられていたのだから問題にされ
たのも当然だった。
◇綿菓子片手に歌う小娘
然し林泉寺に来た川田の常住座臥は謹直そのもゝ、前身が女優の婦人がモンペはきで遠
くから炊事の水を運び、男下駄で買物に行く地味な姿と共隣隅近所の人々をびっくりさせ
た。
健康な時には野菜はおろか飯もくわず肉ばかりを貪り喰うといった極端な偏食も批処に
来てからは大河内さんや文子夫人の忠告を守ってせっ生を続けた。
近所の青年たちが来れば布団の上に起き直ってギター、ウクレレを教えた日もあった。
そんな日常のつれづれを慰めるかたわら彼に歌をおそわりに横浜から度々訪れて来るみ
すぼらしい少女があった。
名前は加藤和枝といった。来る時はいつも母と一緒だった。当時流行し始めた素人のど
自慢で笠置しず子そっくりのおませな真似をして歌謡界から注目し始められた加藤和枝を
将来が楽しめそうだと期待をかけたのが川田晴久だった。
和枝はその真似ぶりを見込まれて藤尾純、伴淳三郎、日暮里子らが組織していた新風シ
ョーに子役として出るようになった。
しかしあくまでも人真似の彼女の喉は本格的な歌謡歌手という訳にはゆかなかった。川
田晴久は一人前の歌手として成長させるために当時まだ小学校5年かそこらの彼女を頻繁
に林泉寺に呼んで本格的な練習をつませた。部落の人たちを集めてその前で歌わせ舞台度
胸をつけさせることも修業の一つだった。
綿菓子をほうばり乍ら歌った少女がこの加藤和枝だったのである。
◇灸療師と3人の歌手
昭和23年6月横浜の国際劇場で開かれた歌謡大会で笠置しず子と揃って出演した少女
歌手美空ひばりはあたかも笠置と競演という皮肉な結果になり笠置はひばりのためにジャ
ズ歌手の王座から引きづり下ろされ、ひばりが大きく流行歌手としてクローズアップされ
るに至った。
浜松市外の片田舎で色褪せたスカートに指の出たズック、綿菓子片手に身ぶり手ぶりで
謳った加藤和枝が美空ひばりと名のり五彩のライトを満身に浴びての晴れの舞台姿だっ
た。
23年暮大河内仁三郎氏の友情をかけた治療によって頑固な脊椎カリエスも癒えた川田
晴久は大河内氏、林泉寺、そして地元の人々の熱い情けに幾度も感謝の頭を垂れて東京に
引き揚げて行った。
一昨年初め、舞台の階段でつまずいて赤坂の前田外科に入院したが治療中腎臓結核を併
発、6月20日遂に50歳で病苦の生涯を閉じた。
会葬通知の友人総代に名を連ねていた美空ひばりの成長ぶりは川田晴久にとって何より
のよろこびであり供養だったに違いない。
美空ひばりによって王座から蹴落とされた笠置しず子も昭和19年、まだ花月劇場とい
った頃の浜松座に出演中急性リユウマチで大河内さんの許にはこばれたこともあったとい
うから大河内さんを取巻く因しき三人歌手の因縁ともいえよう。
いまスランプにあるといわれる美空ひばり、東京で旅館「川田」を経営する文子未亡人、
吉本興行の御曹子との間に出来た一人粒しつましく生きている笠置しづ子、近づく楊子六
所神社の夏まつりを前にそれぐ思い思いの追想を浜松の空に馳せていることだろう。
キーワード「体育」①を紹介します。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「汗をかくこと」
・「中指に力を入れろ」
もう一つ、再掲載となりますが、かつての浜松の雑誌「東海展望」より、
「楊子町で声張り上げたひばりと川田晴久」を載せます。
恩師であり教職の大先輩でもある、亡くなられた正明先生のお寺・林泉寺は、良い雰囲気のお寺です。
美空ひばりさんの話を伺ったことを思い出します。
☆学校休業中の子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆教育技術「体育」 ①
◇逆上がり
飯田・根本式 段階別台付き逆上がり(教育ノート1巻1ページ参照)
◇体育準備運動
「おしゃべりタイム」 2人組 走りながら3周
<走>
1人 ①右回り
②A君を追い抜かない
③コースロープ上
④B君先頭
⑤鼻だけで呼吸
⑥息を止めて○㍍
⑦後ろ向き
⑧スキップ
⑨ギャロップ
⑩混ぜて
2人 ①パートナーと手をつないで
②一周走る毎に先頭を交代して
3人 ①先頭の人同様
②肩に手を掛けて
◇体育(向山)
1 安全への配慮
2 汗をかくこと
3 技能の向上
◇体育授業
三層の指導の違い
①どこまで上手になれるのか
②どのくらいの指導が必要なのか
③上達はどのように訪れるのか
◇跳び箱「開脚跳び」
①マットを使ってウサギ跳び(突き放し,遠くに手を付く)
②3~4m マットの先端を見て
③認める - 少しでも伸びれば「よし,それでよし」
◇リレー
①リレーゾーンの2メートル手前に白線を引く
前走者が線を踏んだら,次走者が全力で走り出す練習をさせる
②次走者が全力で走り出すとき,右手を腰の所に当てて走る
手のひらは空に
③前走者がバトンを渡すときは,次走者の横に並んだ瞬間に渡す練習を
◇姿勢
「中指に力を入れろ」
☆「楊子町で声張り上げたひばりと川田晴久」『東海展望』1959年8月号【再掲載 2011.8】
浜松市楊子町の古刹林泉寺の境内にある毘沙門天は花柳界の守り本尊である。
毎月3日の縁日にはいろいろの願いごとを胸に畳んだ綺麗どころの一団で百花が妍を競
う。
ことに4月3日は縁日中の縁日で咲きこぼれる桜の花が文字通り錦上華を添えるのであ
る。
今から12、3年前まだ終戦政府の混乱も跡を絶たず、一方娯楽に飢えた国民によって
素人の村芝居などが機会あるごと俄かづくりの舞台で幕をあけたり閉めたりしたころ、や
っと甘味がかすかに舌の先にのこる綿菓子を片手で頬ばり乍ら,飛入りで集うみすぼらし
い少女があった。
色褪せたつんつるてんのスカート、小指の飛び出したズック、どうみても、闇米で肥え
ふとった農家の娘たちよりは貧相な身装りの女の子だった。
然し綿菓子をほうばりほうばりの片手間にロからとび出す並木みち子のヒット曲「林檎
の唄」を真似る声はスカートやズックとは似ても似つかぬ素晴らしさで喝釆の嵐浴びてい
た。
◇重症カリエスで来浜
歌謡漫談の一座「ダイナブラザー」のチーフ川田晴久が重症の脊椎カリエスを療養する
ため文子夫人を同伴して林泉寺本堂に身を寄せたのは22年春先きだった。
両足がつって歩行さえもまゝにならぬという最悪の症状にいた川田晴久はここで大河内
仁三郎さんの灸療法をうけるために来ていた。
川田晴久の脊椎カリエスはほとんど固疾といってもよい程の持病になっていた。
いま北寺島町で大河内温熱療院を経営している仁三郎さんが子供の時の大火傷から両手
両足が変型し整型外科治療をうけるため信濃町の慶応病院に入院した昭和17、8年当時
隣室のベッドで脊椎カリエスの療養を続けていたのが川田晴久だった。
大河内さんは全快し、川田も小康を得てそれぞれ退院してからも入院中培った二人の友
情はそれ以来、一昨年6月川田晴久が死ぬまでの十年間兄弟以上のよしみとして続けられ
た。
鴨江で戦災をうけ水窪に疎開していた大河内さんは戦火が消えるとともに市中に引き揚
げ、家を新築するまで檀家寺にあたる林泉寺の一室を借りこゝで灸点を始めた。
そこへ終戦前後の過労でまたぶり返した持病の相談を川田晴久からうけた大河内さんは
自分の手許に呼んで灸療法でいくらかでも治やしてやろうということになった。
しかし物堅いお寺にとって芸人が間借りするということはちょっとした問題であった。
芸人とは世間の常識から一歩外れた日常生活を階級と考えられていたのだから問題にされ
たのも当然だった。
◇綿菓子片手に歌う小娘
然し林泉寺に来た川田の常住座臥は謹直そのもゝ、前身が女優の婦人がモンペはきで遠
くから炊事の水を運び、男下駄で買物に行く地味な姿と共隣隅近所の人々をびっくりさせ
た。
健康な時には野菜はおろか飯もくわず肉ばかりを貪り喰うといった極端な偏食も批処に
来てからは大河内さんや文子夫人の忠告を守ってせっ生を続けた。
近所の青年たちが来れば布団の上に起き直ってギター、ウクレレを教えた日もあった。
そんな日常のつれづれを慰めるかたわら彼に歌をおそわりに横浜から度々訪れて来るみ
すぼらしい少女があった。
名前は加藤和枝といった。来る時はいつも母と一緒だった。当時流行し始めた素人のど
自慢で笠置しず子そっくりのおませな真似をして歌謡界から注目し始められた加藤和枝を
将来が楽しめそうだと期待をかけたのが川田晴久だった。
和枝はその真似ぶりを見込まれて藤尾純、伴淳三郎、日暮里子らが組織していた新風シ
ョーに子役として出るようになった。
しかしあくまでも人真似の彼女の喉は本格的な歌謡歌手という訳にはゆかなかった。川
田晴久は一人前の歌手として成長させるために当時まだ小学校5年かそこらの彼女を頻繁
に林泉寺に呼んで本格的な練習をつませた。部落の人たちを集めてその前で歌わせ舞台度
胸をつけさせることも修業の一つだった。
綿菓子をほうばり乍ら歌った少女がこの加藤和枝だったのである。
◇灸療師と3人の歌手
昭和23年6月横浜の国際劇場で開かれた歌謡大会で笠置しず子と揃って出演した少女
歌手美空ひばりはあたかも笠置と競演という皮肉な結果になり笠置はひばりのためにジャ
ズ歌手の王座から引きづり下ろされ、ひばりが大きく流行歌手としてクローズアップされ
るに至った。
浜松市外の片田舎で色褪せたスカートに指の出たズック、綿菓子片手に身ぶり手ぶりで
謳った加藤和枝が美空ひばりと名のり五彩のライトを満身に浴びての晴れの舞台姿だっ
た。
23年暮大河内仁三郎氏の友情をかけた治療によって頑固な脊椎カリエスも癒えた川田
晴久は大河内氏、林泉寺、そして地元の人々の熱い情けに幾度も感謝の頭を垂れて東京に
引き揚げて行った。
一昨年初め、舞台の階段でつまずいて赤坂の前田外科に入院したが治療中腎臓結核を併
発、6月20日遂に50歳で病苦の生涯を閉じた。
会葬通知の友人総代に名を連ねていた美空ひばりの成長ぶりは川田晴久にとって何より
のよろこびであり供養だったに違いない。
美空ひばりによって王座から蹴落とされた笠置しず子も昭和19年、まだ花月劇場とい
った頃の浜松座に出演中急性リユウマチで大河内さんの許にはこばれたこともあったとい
うから大河内さんを取巻く因しき三人歌手の因縁ともいえよう。
いまスランプにあるといわれる美空ひばり、東京で旅館「川田」を経営する文子未亡人、
吉本興行の御曹子との間に出来た一人粒しつましく生きている笠置しづ子、近づく楊子六
所神社の夏まつりを前にそれぐ思い思いの追想を浜松の空に馳せていることだろう。