谷昌恒さんはこんなことを⑤-「ひとむれ第8集」評論社 1994年(5) / 「東京12チャンネル運動部の情熱」布施鋼治 集英社 ①【再掲載 2020.7】 [読書記録 教育]
今回は、6月25日に続いて、わたしの教育ノートから、
「谷昌恒さんはこんなことを」⑤を紹介します。
評論社「ひとむれ第8集」の要約 5回目です。
出版社の案内には、
「教護院・北海道家庭学校真の愛に貫ぬかれた教育の軌跡。傷ついた少年たちの心を変革
しようと願う教育の姿を伝え、大きな感動と共感をよんだ、珠玉のエッセイ集。 」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「寛容と互譲と忍耐」
・「石井十次のことを『明治から大正にかけて駆け抜けた巨大な火の玉』」
・「憎しみの相手はいつも不在 - 自分勝手に想像する相手を憎んでいる」
・「少年たちの行動は,実は大人一般への不信,反発でもある
私たちに求められているものは待つこと耐えること」
もう一つ、再掲載となりますが、布施鋼治さんの
「東京12チャンネル運動部の情熱」を載せます。
東京12チャンネル運動部、職員の情熱ずっと観ることができませんでした。
☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆谷昌恒さんはこんなことを⑤-「ひとむれ第8集」評論社 1994年(5)
<1994年>
◇試練
□だんだん喧嘩をしなくなる
← 「お互い様」だと分かってくるから
□寛容と互譲と忍耐
◎人に教えられ忠告や助言を受けて心が育つ
□サイラス・W・フィールド
何度の失敗にも負けず大西洋に海底電線
謗られ罵られ殆ど葬り去られた後フィールドは立ち上がった
◇ふるさとを訪ねて
□岡山孤児院 無制限に孤児を収容する
明治24年10月 濃尾地震 93人
37,38年 日露戦争 160人
39年 東北大飢饉823人 一時期1200名も収容
□石井氏没後
中国財界 大原孫三郎が継承
留岡らが反対するも後解散
□昭和20年 戦災孤児
石井十次の孫 児島虓一郎「石井記念友愛社」
児島草次郎「友愛社」
草次郎 石井十次のことを
「明治から大正にかけて駆け抜けた巨大な火の玉」
◇愛と許しと
□ある哲学者「憎しみは不在の感情」
憎しみの相手はいつも不在
自分勝手に想像する相手を憎んでいる
□真にその人を愛するならば,相手は常に新鮮
歳月は真実の愛をいよいよ強固なものにする
志賀直哉「和解」
□家庭は地上における最高の許しの場所
夫は妻を許し,妻は夫を許し,互いに限りない愛と慰めと希望をくみかわす
∥
人生の荷物の共有
◇憎しみあるところに愛を
□塩尻公明
「天分と愛情の問題」「自と他の問題」「ある遺書について」 木村久夫戦犯
□少年たちの行動は,実は大人一般への不信,反発でもある
|
私たちに求められているものは待つこと耐えること
∥
愛と忍耐に向けた対応がゆっくりと少年を変える
☆「東京12チャンネル運動部の情熱」布施鋼治 集英社 ①【再掲載 2020.7】
◇まえがき
12チャンネル 敏腕プロデューサー 運動部部長 白石剛達
白石一家
昭和40年代 「3強1弱1番外地」
◇12チャンネル運動部の夜明け(昭和42~43年)
□初代運動部部長 白石剛達という男
12チャンネルの母体は日本科学技術振興財団
科学技術の普及目的 - お堅いテレビ局
□昭和39年4月12日開局
当時白石はレスリング全日本チームの強化コーチと早大レスリング部監督
|
昭和39年8月1日付で入社 35歳
事業普及部部長
□昭和39年10月10日「題名のない音楽会」公開放送コーディネート
オリンピック選手村シアターで
3本柱 科学技術学園工業高校
科学技術館
テレビ事業本部 経営は数百社からの1回百万円の寄付による
↓
□不況により営業
2年後 昭和41年放送時間5時間半に(うち3時間通信制高校講座)
182名の大量リストラ
□早稲田大学新宿夜間部
白石 海軍兵学校78期生
↓
元の中学に復学 2年後第一早稲田高等学院(理工科系)入学
レスリング部
暴れっぷりは「早稲田大学新宿夜間部」
□昭和42年4月1日 運動部-編成局編成部参与に抜擢
東京本部長:村木武夫(住友工業副社長)
視聴率本位に
□昭和44年11月1日 日経新聞が経営に参画
□昭和48年11月1日 教育専門局 → 一般総合局
□昭和50年10月1日 中川順(すなお)社長 翌年黒字
□昭和56年10月1日 東京12チャンネル → テレビ東京
□3大都市ネットワーク S57テレビ大阪 S58テレビ愛知
□プロ野球中継スタート
昭和42年4月11日~ プロ野球ナイター中経
サンケイアトムズVS広島カープ 19:00~21:30 1.3%
主にサンケイ・大洋ホエールズ・東京オリオンズ3チーム
野球中継に教育をトッピング
□東京スタジアムの風景
球団広報は橋爪四郎(ヘルシンキ1500m自由形銀メダリスト)
南千住(荒川区)
□男の約束がつかんだ巨人戦
昭和42年4月29日 巨人戦 こぼれたゲーム 12.9%
□バックスクリーンからの映像を導入
12チャンネル 野球中継 わずか3台で → 予算
「谷昌恒さんはこんなことを」⑤を紹介します。
評論社「ひとむれ第8集」の要約 5回目です。
出版社の案内には、
「教護院・北海道家庭学校真の愛に貫ぬかれた教育の軌跡。傷ついた少年たちの心を変革
しようと願う教育の姿を伝え、大きな感動と共感をよんだ、珠玉のエッセイ集。 」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「寛容と互譲と忍耐」
・「石井十次のことを『明治から大正にかけて駆け抜けた巨大な火の玉』」
・「憎しみの相手はいつも不在 - 自分勝手に想像する相手を憎んでいる」
・「少年たちの行動は,実は大人一般への不信,反発でもある
私たちに求められているものは待つこと耐えること」
もう一つ、再掲載となりますが、布施鋼治さんの
「東京12チャンネル運動部の情熱」を載せます。
東京12チャンネル運動部、職員の情熱ずっと観ることができませんでした。
☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆谷昌恒さんはこんなことを⑤-「ひとむれ第8集」評論社 1994年(5)
<1994年>
◇試練
□だんだん喧嘩をしなくなる
← 「お互い様」だと分かってくるから
□寛容と互譲と忍耐
◎人に教えられ忠告や助言を受けて心が育つ
□サイラス・W・フィールド
何度の失敗にも負けず大西洋に海底電線
謗られ罵られ殆ど葬り去られた後フィールドは立ち上がった
◇ふるさとを訪ねて
□岡山孤児院 無制限に孤児を収容する
明治24年10月 濃尾地震 93人
37,38年 日露戦争 160人
39年 東北大飢饉823人 一時期1200名も収容
□石井氏没後
中国財界 大原孫三郎が継承
留岡らが反対するも後解散
□昭和20年 戦災孤児
石井十次の孫 児島虓一郎「石井記念友愛社」
児島草次郎「友愛社」
草次郎 石井十次のことを
「明治から大正にかけて駆け抜けた巨大な火の玉」
◇愛と許しと
□ある哲学者「憎しみは不在の感情」
憎しみの相手はいつも不在
自分勝手に想像する相手を憎んでいる
□真にその人を愛するならば,相手は常に新鮮
歳月は真実の愛をいよいよ強固なものにする
志賀直哉「和解」
□家庭は地上における最高の許しの場所
夫は妻を許し,妻は夫を許し,互いに限りない愛と慰めと希望をくみかわす
∥
人生の荷物の共有
◇憎しみあるところに愛を
□塩尻公明
「天分と愛情の問題」「自と他の問題」「ある遺書について」 木村久夫戦犯
□少年たちの行動は,実は大人一般への不信,反発でもある
|
私たちに求められているものは待つこと耐えること
∥
愛と忍耐に向けた対応がゆっくりと少年を変える
☆「東京12チャンネル運動部の情熱」布施鋼治 集英社 ①【再掲載 2020.7】
◇まえがき
12チャンネル 敏腕プロデューサー 運動部部長 白石剛達
白石一家
昭和40年代 「3強1弱1番外地」
◇12チャンネル運動部の夜明け(昭和42~43年)
□初代運動部部長 白石剛達という男
12チャンネルの母体は日本科学技術振興財団
科学技術の普及目的 - お堅いテレビ局
□昭和39年4月12日開局
当時白石はレスリング全日本チームの強化コーチと早大レスリング部監督
|
昭和39年8月1日付で入社 35歳
事業普及部部長
□昭和39年10月10日「題名のない音楽会」公開放送コーディネート
オリンピック選手村シアターで
3本柱 科学技術学園工業高校
科学技術館
テレビ事業本部 経営は数百社からの1回百万円の寄付による
↓
□不況により営業
2年後 昭和41年放送時間5時間半に(うち3時間通信制高校講座)
182名の大量リストラ
□早稲田大学新宿夜間部
白石 海軍兵学校78期生
↓
元の中学に復学 2年後第一早稲田高等学院(理工科系)入学
レスリング部
暴れっぷりは「早稲田大学新宿夜間部」
□昭和42年4月1日 運動部-編成局編成部参与に抜擢
東京本部長:村木武夫(住友工業副社長)
視聴率本位に
□昭和44年11月1日 日経新聞が経営に参画
□昭和48年11月1日 教育専門局 → 一般総合局
□昭和50年10月1日 中川順(すなお)社長 翌年黒字
□昭和56年10月1日 東京12チャンネル → テレビ東京
□3大都市ネットワーク S57テレビ大阪 S58テレビ愛知
□プロ野球中継スタート
昭和42年4月11日~ プロ野球ナイター中経
サンケイアトムズVS広島カープ 19:00~21:30 1.3%
主にサンケイ・大洋ホエールズ・東京オリオンズ3チーム
野球中継に教育をトッピング
□東京スタジアムの風景
球団広報は橋爪四郎(ヘルシンキ1500m自由形銀メダリスト)
南千住(荒川区)
□男の約束がつかんだ巨人戦
昭和42年4月29日 巨人戦 こぼれたゲーム 12.9%
□バックスクリーンからの映像を導入
12チャンネル 野球中継 わずか3台で → 予算