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キーワード「新津」②-新津の地名 角川・静岡県の地名辞典(2)  / 『作文集 泣くものか』 養護施設協会編 亜紀書房 1977年(昭和53年度毎日出版文化賞受賞)③ー お酒をやめてくださいといえなかった13年の歳月  中2 武田 幸子(仮名)【再掲載 2012.3】 [読書記録 郷土]

今回は、8月26日に続いて、わたしの教育ノートから、
キーワード「新津」2回目の紹介です。



浜松市、新津地区。浜松市南部海岸沿いの地区です。
かつては、浜名郡新津村。







今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「正徳6年当村の下位彦兵衝・茂右衛門が遠州灘沿岸の芝地を開発し,のち浜蔵新田・
  野分新田・沖新田・沖新新田よりなる蔵松新田となる。」
- 下位彦兵衝家の長男には、代々「彦」の字がつけられています。現代の当主は、古く
 からの友人です。


・「産物は角豆(ささげ)・松露・西瓜・真瓜(まくわうり)(遠淡海地志)。」
- 西瓜は今でも作られています。昔は産地だったのですが、今は後継者が少なくなりま
 した。松露が採れたということに驚きます。


・「倉松由来和讃」
ー 津波の恐ろしさを伝えています。
  文亀(1501~1504)とありますが、明応7年(1498)の大地震かと思われます。
  寿福寺は堀江村(大沢家)下位彦左衛門により永禄12(1569)年より開発されたとの伝、
  寿福寺は江戸時代が始まる少し前に創設されたと考えられます。






もう一つ、再掲載となりますが、昨日に引き続き
『作文集 泣くものか』③を載せます。
読んでいて切なくなります。
このような思いをさせないために何をすべきか、社会全体で考える時代になってきたことはよかったと思います。しかし、今でも、武田さんと同様に苦しんでいる子どもがいることが想像されます。辛いです。、










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☆キーワード「新津」②-新津の地名 角川・静岡県の地名辞典(2)

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◇くらまつ 倉松<浜松市>

 鞍松・蔵松とも書く。佐鳴湖の南,遠州灘へ注ぐ馬込川下流右岸に位置する。地名の由
来は,松の老樹に囲まれたところに郷蔵があったことによると伝える。



[中世]鞍松郷

 室町期に見える郷名。遠江国敷智郡浜松荘のうち。寛正6年12月の北野社領文書目 
録の中に「遠江国鞍松郷」と見え,同じく文明元年5月および文明5年2月の同社所領 
目録にも松梅院不知行分として「遠江国浜松庄鞍松郷」が見え,当郷が浜松荘内にあり,

 当時すでに北野社領としてその実を失っていたことが知られる(北野社引付)。



〔近世〕蔵松村

 江戸期~明治22年の村名。敷知郡のうち。倉松とも書く。慶長6年浜松藩領、元和 
5年からは旗本大沢氏領.村高は「元禄高帳」49石余、「天保郷帳」186石余,「旧 
高旧領」301石余。慶長年間の「浜松藩郷村帳」では村高49石余,うち舟役1艘5 
石余・野銭3斗余,反別は田方1反余・畑方3町余。延宝5年「浜松町村帳」では高43 
石余,家数23。

 正徳6年当村の下位彦兵衝・茂右衛門が遠州灘沿岸の芝地を開発し,のち浜蔵新田・野
分新田・沖新田・沖新新田よりなる蔵松新田となる。

 慶応3年の本田は87石余・12町余,新田は208石余・50町余(下位家文書/浜
松市史2)。

 当村は三方原への入会権を保持していなかったことから天保4年隣村新津村組合6か村
と○場争論を起こしたりした(有玉村高林家諸用記/浜松市史史料編3)。

 産物は角豆(ささげ)・松露・西瓜・真瓜(まくわうり)(遠淡海地志)。

 寺社には浄土真宗寿福寺・松尾神社がある。明治元年堀江藩領、同4年堀江県、浜松県
を経て同9年静岡県に所属。 

 明治22年新津村の大字となる。



[近代]倉松 
 明治22年~昭和26年の大字名。はじめ新津村,昭和26年からは浜松市の大字。明
治24年の戸数124・人口720,厩18,船11。

 昭和26年倉松町となる。



〔近代〕倉松町 

 昭和26年~現在の浜松市の町名。もとは大字倉松。





[倉松由来和讃] 伝:寿福寺(何代目かの)住職作

 そもそも遠つ海の国

敷智郡の南なる

倉松村の由来をば

ここに遙かに尋ねるに

その上今の浜松を

引馬の宿と云ひしとき

今この倉松の地は

東海道の通路なり

その時この地は町並の

人家十町に及べりき

海のほとりに近き故

 累々うしほ押しかける

 文亀第二酉の秋

 八月二十日の夜のなかば

 はからず大潮来りてぞ

 町家すべて流しける

 寿福院の本尊の

 阿弥陀如来の本像は

 松にうつり飛びしかば

 阿弥陀松とぞ名付けける

 その時溺死の人数は

 三百五十余人なり

 残りし人々皆共に

 他国へ住居をうつしける

 その跡広き野となりて

 町の名のみぞ残りける

 勘助町に土器町

 天神前と呼びし跡

 鳥居の柱残りき

 中の宿に松尾町

 新船町のその間

 松尾明神の石垣と

 阿弥陀松より一町余

 東の方にあたりては

 浄光院のその跡に

 耳なし塚の松のみぞ

 その後永禄十二年

 堀江村の彦左衛門

 初めて此の地に来りてぞ

 天正年中に開発す

 近郷の人諸共に

 彦左衛門新田と呼びけるが

 つひに大沢高家より

 倉松村とぞ名づけらる














◇にっぱし<浜松市>

 佐鳴湖の南東,遠州灘に注ぐ馬込川下流右岸に位置する。地名の由来は高塚池と沼田池
の中間にある当地に長い橋が架けられたことにあると伝える。地内に古墳時代の新橋村東遺跡がある。



〔中世〕新橋郷

 戦国期に見える郷名。遠江国敷智郡浜松荘のうち。永禄10年2月29日の大通院宛今
川氏真判物で「遠江国浜松庄新橋郷の大通院寺内が安堵されているのが初見(大通院文書/県史料5)同様の文書は徳川家康の時代の天正14年9月14日にも出されている(同前)。

 永禄10年8月5日の今川氏真判物では氏真は鈴木重時・近藤康用に対して三河の吉河の替地として当郷を充行っている(鈴木重信氏旧蔵文/茨城県史料中世1〕。

 ところが,翌年暮れには今川氏真は駿府を武田信玄によって追われ,掛川城に入ると鈴
木重時・近藤康用らは徳川に走り,家康の遠江進攻に協力する。

 その功によって同年12月12日に家康の判物をもらい,改めて当郷を安堵されている
(同前)。

 さらに翌年12月19日には松下筑後入道が家康の判物をもらい,浜松荘の本知行の一
つとして「新橋国 上)



〔近世〕新橋村 

 江戸期~明治22年の村名。敷知郡のうち.慶長6年からは浜松藩領。村高は,「元禄高帳」139石余,「天保郷帳」367石余,「旧高旧領」355石余。

 慶長年間の「浜松藩郷村帳」では村高143石余,反別は田方10町余・畑方6町余。

 廷宝5年「浜松町村帳」では高134石余、家数84(うち役家71)。

「糀屋記録」によれば東海道浜松宿の大助郷を勤め,元禄15年の助郷高は128石(浜
松市史史料編1)。

 元禄3年三方原の野論裁許によって当村は入会権が保証された(浜松市史2)。また、
同4年当村ほか3か村は高塚村と高塚川の漁権をめぐって川論を展開したが,裁許は高塚
村の漁権を保謙するかたちで出され,藻草採取の入会権を得たにすぎなかった(浜松市史
1)。

 しかし正徳2年には小綱役を勤め,遠州灘沿騎士では地引網や鰯の漁労も行われた(同前)。天保15年の漁船は3艘(東京都立大学所蔵水野家文書/浜松市史2)。 

 文政8年志都呂村地先の川通りに新田開発のための新堤が築造されてからは水腐不作の
被害を受けるようになった。そこで同12年当村ほか11か村は旗本松平氏の志都呂特産
へ新埋撤去の嘆願運動を行った(浜松市史2)。

 天保4年にも蔵松村が三方原の入会権を侵したので、当村組合6か村と争論となった(有
玉村高林家諸用記/浜松市史史料編3)。

「遠淡海地誌」によれば、小地名に野崎が見え,産物は越瓜・角豆・松露とある。

 寺社には,臨済宗大通院・同宗蔵興寺(虚空蔵寺)・神明宮がある。明治元年駿府藩領
(同2年静岡藩と称する)、同4年静岡県,浜松県を経て同9年再び静岡県に所属。

 明治22年新橋村の大字となる。



〔近代〕新橋

 明治22年~昭和27年の大字名。はじめ新津村,昭和26年からは浜松市の大字。明治
24年の戸
  
 戸数115・人口682,厩7,掛10。新津村の役場所在地.昭和27年新橋町となる。



〔近代)新橋町 

 昭和27年~現在の浜松市の町名。もとは大字新橋の一部。














☆『作文集 泣くものか』 養護施設協会編 亜紀書房 1977年(昭和53年度毎日出版文化賞受賞)③ー お酒をやめてくださいといえなかった13年の歳月  中2 武田 幸子(仮名)【再掲載 2012.3】



◇お酒をやめてくださいといえなかった13年の歳月     中2 武田 幸子(仮名)

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「お父さんいってらっしゃい」


 父が仕事に出るときは、母や、姉、妹といっしょに見送ったものです。

 このことばで始まる毎日は、遠く遠く、まるで夢のようでさえあります。


 私が物心ついたときにほ、もう母の姿はありませんでした。


 またもどってきては、喧嘩別れして家をとびだした母。


 父になぐられ、顔をはらして泣いていた母のことを思うと今でも涙があふれてしまいそ
うです。



 それから父は、母をさがすようになりました。


 そのために、私たち姉妹は、何度学校をかわったことでしょう。



 もちろん父の仕事もかわりました。父は運転免許をもっているので、大部分は運転手で
した。


 私が小学校4年のころ、父の仕事が衛生車の運転手というだけで、皆から


「くさい、くさい」


ときらわれ、


「おまえもお父さんの仕事をやるんだろう」


とまで言われました。



 でも私は学校でそんなことがあっても、決して父には言いませんでした。


 一つは、父によけいな心配をかけたくなかったからです。


 母がいなくて、4人も子どもがいるのに、それだけのことで、父を悩ませたくなかった
からです。


 もう一つは、そんなこと言ったら、父はきっと


「あしたから学校なんかいかなくてもいい」


と言うでしょう。そう言われるのがいやで、学校をかわって引っ越すこともいやだったの
です。



 私が集金をもっていけないと、すぐ「休みなさい」といって休ませたものです。こんな
ことを言うと、まるで父がひどく悪者にきこえます。


 でも、私たちは父に対して、充分親孝行したでしょうか。


 お正月にもらったお年玉で″肩たたき″や″はしとはし箱″や″ゆのみ茶わん〃などを
姉や妹といっしょに買ってきて父にあげたことはありました。


 でも、それで充分だったでしょうか、私は今考えると、「あのときもっと手伝いをすれ
ばよかった」とか、「学習をもっとすればきっと喜んでくれただろう」と後悔の念をいだ
かずにはいられません。



 父は酒のみで、酔うと必ず母のことが出てきます。


 父は母を憎んでいたのでしょうか、それともまだ未練があるのでしょうか。


 苦しさ、悲しさを酒でまぎらわそうとした父。


 そんな中で私たちは、何人の人に迷惑をかけたでしょう。

 近所の人はもちろん、仕事仲間の人たちや学校の先生までに、心配をかけました。


 私の父は子どもが好きで、よく、買い物の帰りでも、小さな子が一人で遊んでいると話
しかけたりします。それだけに私たちに対しても、よく気をつかってくださいました。


 でも、洒をのむと、すごく恐しくなります。ちょっと、反発しようものなら、げんこつ
が飛んできます。


 でも、私が一番後悔しているのは、父にはっきりと「お酒はやめてください」と言えな
かったことです。



 私たちが何もいわず見ているだけだったので、父も気にせずに飲んでいたのかもしれま
せん。いくらなぐられても、その一言を言えば、父だって考えてくれたかもしれません。


 中学2年生、私が生まれて、もう14年めになっています。


 13年のうちで、いろいろなことがありました。

 幸わせだった時もなぐられた時も、学校がいやだった時も、そして思い出にむせび泣い
た時も…。



 私が幸せだと思うことはどんなことでしょう。


 まず、これだけははっきり言えます。


 幸わせとは財産が豊かだとは限らないのです。幸わせとは、両親がいて、家族の皆が健
康で、家庭内が平和であるということでしょう。


 これは私が、私の父、母に対する要求なのかもしれません。


 私のように、両親の不和のために生活に因っている人は何人でもいるでしょう。そして、
その中でも施設にもはいっていない人も多いでしょう。


 私の13年、幸せは多くはなかったですが、いまこうして施設にはいっていることが幸
せなのかもしれません。


 ※ 母は父の度重なる乱暴のため家出、父酒乱の父子家庭であった。

                         (1974年 静岡県 S寮)

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山本七平さんはこんなことを ⑮-「山本七平の知恵」谷沢永一 PHP1992年(7) / 『作文集 泣くものか』 養護施設協会編 亜紀書房 1977年 (昭和53年度毎日出版文化賞受賞) ①【再掲載 2012.1】 [読書記録 一般]

今回は、わたしの教育ノートから、8月20日に続いて、
「山本七平さんはこんなことを」14回目-「山本七平さんの知恵」7回目の紹介です。




出版社の案内には、


「日本人とは何か。そして日本社会は、いかなる見えざる論理で動いているのか ― こ
 のテーマに一貫して取り組み、比類なき足跡を残した思想家、山本七平。当代随一の読
 書人、人間通である著者・谷沢永一が、敬愛してやまない山本七平の代表的な著作から7
 5の視点を厳選して、そのエッセンスを紹介した山本日本学の真髄。」



とあります。





今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「施恩・受恩の絶対化と血縁関係の絶対化」


・「(善意の隣人よりも)悪意の隣人の方がまし ~ 遮断すればよいから」


・「日本は少能者天国  捨てずに活用する」


・「集団主義『見えざる規範』の手本
= 契約状方式 傘連判 発起人を隠す・誰がリーダーでもない」



いかにも日本的な「空気」。
ときどき、恐ろしく感じることがあります。




もう一つ、再掲載となりますが、
『作文集 泣くものか』①を載せます。
わたしが通った小学校の裏に、児童養護施設がありました。友達も多く、よく遊んだもの
でした。明るい子が多かったのですが、このような辛い思いをしていたことを想像してい
ませんでした。「すみれさん」は、もしかすると、同じ小学校に通っていた同窓生かもし
れません。
どの子も幸せだと思うことができる社会を目指していきたいですね。








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☆山本七平さんはこんなことを ⑮ -「山本七平の知恵」谷沢永一 PHP1992年(7)

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◇死よりも怖い血縁関係からの隔離

□施恩・受恩の絶対化と血縁関係の絶対化



□流罪 ~ 近親者からの仕送り

 しかし,血縁から切り離すことは死以上の刑罰



日本人が亡命しない理由 
   血縁のネットワークの中に生きているから

   血縁社会 共同体 血縁共同体・職場共同体・同業共同体・学会
 



◇社会的通念について

  社会的通念 = 全く成文化されていないルール   情状酌量
 



◇困りものの「善意の隣人」

□「日本人の親切」
    悪意の隣人の方がまし ~ 遮断すればよいから

    |

□感情移入
   - 相手に対して存在感を認めない議論

   両者の痛み分けができない
 




◇機能集団と共同体

□機能集団 → 共同体に  


 
□名経営者 
  
  = 共同体という性格を守りながら,機能集団としての能力を発揮しうるか

   |

※ 機能集団として突っ走るとつぶれる
共同体としてだけでもつぶれる

= ハーバードビジネススクール出身者には分からない



□松下幸之助「レイオフしない」

~ 共同体システム 
    ストレスが少ない = 長生き
少能者天国



□日本は少能者天国

 捨てずに活用する


少能者に対して「おまえは少能者だ」と言わない
※嘘でも「あんたしっかりやっているね」

マイペース
 




◇消費倫理を確立した社会

□消費倫理はすごい ~ 石田梅岩

 使うことにおいて気兼ねしなければいけない社会
     


□日本人の嫉妬心の強さ
  他人を自分と比較する

領主を羨望した
 





◇命令ができない・日本人のリーダー

 衆議で全員一致で行動 ~ 例え将軍の命令でも



集団主義「見えざる規範」の手本


 一 契約状方式 傘連判 発起人を隠す・誰がリーダーでもない
 










☆『作文集 泣くものか』 養護施設協会編 亜紀書房 1977年 (昭和53年度毎日出版文化賞受賞) ①【再掲載 2012.1】

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◇お父さんは変わってしまった-いままであったいろいろなこと 小5 浜田すみれ(仮名)

 わたしの、お母さんが死んでからもう6年もたってしまった。


 お母さんはからだが弱かったそうです。お母さんが死んだ日は、10月9日でした。
その日の前の日は、小学校の運動会でした。朝、お母さんが


「すみれ、きょう小学校の運動会にいくか。誠といっしょにいけはたのしいに」


といったこともおほえています。



 朝はとても元気だったお母さんが、急に昼ごろから気分が悪いからといって運動会に行
きませんでした。

 わたしは、「つまらないなぁ」と思いました。
 

 その夕方、夕はんはそこそこにして、すぐテレビを見ました。
 

 よるねているとお父さんにおこされました。
 

 びっくりしておきて見るとお母さんのロからあわがぶくぶくでていました。


 お父さんは、近所の人をおこしてきました。みんな


「さち子さんしっかりして」


「しっかりさち子さん」


と言っていました。


 わたしは、ただないて見ているだけでした。さっちゃんのおばさんが


「こんや家でねな、さっちゃんもいるで」


といったので誠といっしょにさっちゃんの家へいきました。



 朝、目をさますと、まくらもとにふくがおいてありました。それをきておばさんに、


「おばさんねまきどうする」


ときくと


「家においときな」


といいました。


 朝ごはんを食べてから、自分の家へいってテレビを見ました。そしたらきゅうに、おば
さんが、


「すみれちゃん誠ちゃん病院にいくよ」


といったので、すぐ出かけました。


 病院に入って中をきょろきょろ見ていたら、おばさんが


「すみれちゃんこっち」


といったのでひっぱられてお母さんのいるへやにつきました。


 ベッドを見ると、お母さんがねていたので誠が


「お母ちゃんなにねてるの、おきて」


といいました。お父さんは、


「誠、なにいってもだめ」


といった。


 それから、お父さんが


「死んでしまったよ」


といったそのとき、わたしは、びっくりしました。


 それからもうさっちんの家へとまりっきりでした。おそうしきのときお母さんのつとめ
ている会社の人もきました。


 わたしは、むかむかするきもちで、心がおちつきませんでした。


 おそうしきがすむと、よるさっちゃんの家にとまりました。


 そのつぎの日、四国にいきました。汽車の中で一日寝ました。それからタクシーでおば
あちゃんの家につきました。


 そこで、おはかを作りに山にいきました。二日とまって、お父さんはかえってそれから、
四国でくらしました。


 4か月ぐらいたったある日お父さんがむかえにきました。それから、浜松の、おじいさ
んの家にいきました。そこで1年生に入学しました。


 今度は、山梨にひっこし、2年3年とくらしました。


 お父さんとお母さんと弟とわたしと4人で、とてもたのしくくらしていたのに、お母さ
んが死んでしまってから、お父さんはとっても変わってしまいました。


 私達をおいてどこかに行ってしまいました。お母さんが死んでしまってから私の家は急
にメチャメチャになってしまいました。


 そして3年の終わりごろ浜松にきました。それで、寮にはいりました。


 いまでは、みんなとなかよく、くらしています。さみしくはありません。


※ 母は死亡。父は無職で子どもたちに食事すら与えず行方不明となったため入寮。一
 年後、父より再婚し九州にいるとの手紙があり、読んできかせると泣きだしてしまった。
  その時の気持を作文に「手紙がきてとてもうれしかった。でもよく考えてみたら私は
 手紙ではなく直接お父さんに会いたいと思った」と書いていた。
 
                            (1972年 S県 S寮)

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