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キーワード「新津」③-新津の地名 角川・静岡県の地名辞典(3) / 「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公 町ぐるみが小楠姓の浜松市堤町一帯」出典不明【再掲載 2017.3】 [読書記録 郷土]

今回は、8月31日に続いて、わたしの教育ノートから、
キーワード「新津」3回目の紹介です。



浜松市、新津地区。浜松市南部海岸沿いの地区です。
かつては、浜名郡新津村。







今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「正徳6年当村の下位彦兵衝・茂右衛門が遠州灘沿岸の芝地を開発し,のち浜蔵新田・
  野分新田・沖新田・沖新新田よりなる蔵松新田となる。」
- 下位彦兵衝家の長男には、代々「彦」の字がつけられています。現代の当主は、古く
 からの友人です。


・「産物は角豆(ささげ)・松露・西瓜・真瓜(まくわうり)(遠淡海地志)。」
- 西瓜は今でも作られています。昔は産地だったのですが、今は後継者が少なくなりま
 した。松露が採れたということに驚きます。




もう一つ、再掲載となりますが、堤町に伝わる話、
「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公 町ぐるみが小楠姓の堤町」
を載せます。
わたしの子ども時代に比べると、減ってはきましたが、今でも堤町は小楠姓が多い町です。
幼稚園から高校まで同じ学校に通った小楠姓の友人は、現在、オリーブ農家です。
昨年度から、始めたのですが、その勇気と実行力に驚きました。



昨日は、午前中三時間、畑の草取りをし、午後はタマネギの種まきの手伝いをしました。
種まきと言っても、わたしはほとんど見ていただけの状況。
一緒に苗を育てる親戚筋の方にほとんどやっていただきました。
これからの雨が気に掛かります。
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☆キーワード「新津」③-新津の地名 角川・静岡県の地名辞典(3)

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◇つつみ 堤く浜松市>
  
 佐鳴湖の南東,馬込川下流右岸に位置する。地名の由来は,当地海岸に波除堤があった
ことによると伝える。地内に古墳時代の堤町村東遺跡がある。



〔中世〕堤

 戦国期に見える地名。遠江国敷智郡浜松荘のうち。

 永禄12年2月19日の徳川家康判物写によれば,松下筑後入道に安堵された浜松荘内
の本知行の1つに「新橋国本所・堤共」が見える(古文書集/ 家康文書上)。

 当時は新橋の一部であったようである。



〔近世〕堤村

 江戸期~明治22年の村名。敷知都のうち。慶長6年からは浜松藩領。

 村高は,「元禄高帳」24石余,「天保郷帳」75石余,「旧高旧領」76石余。慶長年
間の「浜松 藩郷村帳」では村高24石余1うち舟役高5石余・野銭ノ石1石余,反別は
田方1町余・畑方1町余。

 延宝5年「浜松町村帳」では高24石余,家数はすべて役家で23。「遠淡海地志」では戸
数50。

 「椛屋記録」によれば、東海道浜松宿の大助郷を勤め,元禄15年の助郷高は24石(浜
松市史史料編1)。正徳2年には小網役を勤め,遠州灘沿岸では地引網や鰯の漁労も行われ
た(浜松市史2)。


 天保15年の漁船は1艘(東京都立大学所蔵水野家文書/浜松市史2)。産物は越瓜・

西瓜(遠淡海地志)。寺社には臨済宗好徳寺・六所神社がある。また,波除堤が築かれて
いた(風土記伝)。

 明治元年駿府。駿府藩領(同2年静岡蕃と改称),同4年静岡県,浜松県を経て同9年
再び静岡県に所属。

 明治22年新津村の大字となる。



〔近代〕堤

 明治22年~昭和26年の大字名。はじめ新津村,昭和26年からは浜松市の大字。明
治24年の戸数36・人口203,厩9,船6。昭和26年堤町となる。



〔近代〕堤町

 昭和26年~現在の浜松市の町名。もとは大字堤。








◇たじり 田尻く浜松市>

 佐鳴湖の南東遠州灘に注ぐ馬込川の下流右岸こ位置する。地名の由来は,浜名平野にお
ける稲作栽培可能地の限界点という田の尻の意味にあると伝える。



〔近世〕田尻村 

 江戸期~明治22年の村名。遠江国敷知都のうち。慶長6年からは浜松藩領。

 村高は「元禄高帳」97石余,「天保郷帳」199石余,「旧高旧領」200石余。慶長
年間の「浜松藩郷村帳」では村高95石余,うち同所新田30石(反別畑方6町)・野方
5石余・小網ノ石2石・舟役5石余,反別は田方2町余・畑方6町余。

 慶長15年「浜松 御領知行割」てせは高95石余。延宝5年「浜松町村帳」では高9
7石余,家数35(うち役家32)。「遠淡海地志」では戸数80。小地名に新田があり戸
数20。「糀屋記録」によれば,東海道浜松宿の大助郷を勤め,元禄15年の助郷高は9
7石(浜松市史2)。 

 往古当村は回船問屋株を保持する天竜川の流末村で諸国回船が入津する田尻湊を擁して繁栄した。ところが,のち麁玉郡新原村地先の川筋へ築堤されてから河道が変わり田尻湊
は衰退した。

 天保4年当村庄屋たちはかつての回漕業の既得権を掛塚湊において復活するよう要求し
たが実現しなかった。(浜松発展史)

 また,正徳2年には小網役を勤めており,遠州灘沿岸では地引き網や鰯の漁労も行われ
た(浜松市史2)。

 天保15年の漁船は1艘(東京都立大学所蔵水野家文書/浜松市史2)・産物には大角
豆(ささげ)・越瓜(しろうり)・松露がある(遠淡海地志)。寺社には臨済宗宝勝寺・八
柱神社がある。

 明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県,浜松県を経て同9年再び静
岡県に所属。明治22年新津村の大字になる。
 


〔近代〕田尻

 明治22年~昭和26年の大字名。はじめ新津村,昭和26年からは浜松市の大字。明
治24年の戸数56・人口331,船8。昭和26年田尻町になる。
 


〔近代〕田尻町
   
 昭和26年~現在の浜松市の町名。もとは大字田尻。昭和46年区画整理事業により一
部が卸本町となる。














☆「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公 町ぐるみが小楠姓の浜松市堤町一帯」出典不明【再掲載 2017.3】


 浜松市の南部新津海岸の近くに堤町という戸数70戸ほどの町がある。


 旧浜名郡新津村堤で、江戸時代には敷地郡堤村として、米津、小沢渡、新橋、などと共
に浜松の井上河内守の領下にあった。



 遠江風土記伝によると


「堤村高24石7斗4合、海に属る、波除堤高さ巾定まらず、舞阪宿に至る間、南間の波
 涛を除く…」


とある。


 つまり堤の地名は海岸に構築された堤があったところからつけられたものであろう。


 浜松の市街地を西に東海道(国道1号緑)を進むと、浜名郡可美村との境界地点で道路
が右にゆるやかなカーヴをみせているが、そのカーヴ地点から東海道に分れ、南にのびて
いる市道を米津海岸にむかって1㎞ほど入った農村地帯が堤町である。


 今でこそ(おそらくは40~50年前=ハマコウ註)70戸を数えるようになったが、明治か
ら大正そして昭和も戦前までは50戸たらずの小部落であった。


 しかも、50戸のうちの80%が小楠姓を名乗っている特異な同姓部落である。


 おもしろいことには、この小楠一統の人たちはすべて自分たちの先祖は大楠公楠木正成
の一族であり、後裔であると信じ、忠臣華やかなりし戦前までは大変な鼻いきであったと
いう。


 今では正成、正行の相場下落で、若者たちは口にせぬようになったが、里の古老の頭の
中には、いまだ楠公の権威が生きているのである。


 では、堤町の小楠一族と楠正成とは一体どういう関連をもっているのであろうか…。


 この点については確たる史料も根拠もなく、将来においてもこれを裏づける史料の発見
もまず期待出来ないだろうからいきおい口碑伝説にたよる以外にはなかろうが、本誌編集
部がルポしたところによると次のような巷談が成立した。





◇南臣・楠木伊兵衛

「神主小楠の祖は楠正成公家の士族にして、君公より姓を賜ひこの地に来り、引馬海道堤
 新田を開発し、土民となり、正平3年君公正行卿四条畷合戦の時、明神へ皇軍勝利を御
 祈願ありしと。又寛文6丙午年、領主太田備中守資宗殿、御造営ありと云ひ伝う。今、
 小楠家は分家一族45社頭と共に盛なり」


 この古文は郷土雑筆遠南のしぶきにみえているものであるが、小楠と楠正成とを結びつ
けている資料としてはこれだけであって、これも良質の史料ではない。古文のなかにみえ
ている「明神へ皇軍勝利を御祈願云々」とある明神とは現在堤街にある六所神社(戦前ま
で村社)のことで、土地っ子は六所明神とも呼んでいる。


 東海道から分かれて米津海岸にゆく道路の西側にある森が六所神社で、神社の道をへだ
てて東側にある堂宇が、馬頭観世音をまつる観音堂で、昔は好徳寺(堤町)の境外仏堂で
あった。   


 ところで小楠一族の初代は小楠伊兵衛を名乗った南朝の武士であったという。

 その伊兵衛が遠州のこの海岸にやってきたのは遠江において南朝方の臣を募るためで、
時に南北朝時代であった。

 楠正成の出身については不詳なところが多く、決めつけることは出来ないが、河内の土
豪であったことは間違いない。


 農村部における新興勢力を背景に台頭、やがて後醍醐天皇の討幕計画にまっさきに参加、
赤坂城や千早城にたてこもつて奮戦、建武中興後は検非違使左衛門尉兼○○○○の反乱に
あったが他の諸将と共に尊氏軍を破り九州に走らせた。

 
 しかし軍勢をたてなおした尊氏は20万の大軍をもって東上してきた。


 これよりさき、正成はなんとしてでも自軍の拡大強化をしなくてはと一族の一人伊兵衛
を呼び、遠江において勤王の士を募り勢力の結集をはかってもらいたい…と頼んだ。


 伊兵衛の遠江入りはこうした動機によるものだったという。


 伊兵衛は一族と共にはるばる遠江の土を踏み、小楠の姓を名乗って堤に居を構えた。そ
の頃伊兵衛は楠木を名乗っていたが、世をしのび、敵の目をくらますために小楠としたも
のだという。



◇伊之助と伊左衛門

 しかし伊兵衛による南朝方の志士結集はそうたやすいものではなかった。


 第一遠江は今川氏の勢力圏内にあり、土豪のうちにも今川氏に従属していた者が少くな
かったからである。


 伊兵衛が遠江で東奔西走している間に天下の形勢はガラリとかわった。

 九州より東上の足利勢の大勢を前にした正成は、足利尊氏に和議を申入れたが聞き入れ
られず、わずか700騎をもった。


 正成の子正行も父の遺風をうけ南朝につかえ、一時は勢力をもりかえしたが、南下した
高師直の大軍と河内国四条畷においてぶつかり、壮烈な死をとげた。


 それより前南朝勢危し!とみた正行は遠江において勤王の志士を募っていた小楠伊兵衛
のもとに家来を発し、援軍をたのんできたのである。


 正行は使者を遠江に出発させるにさいして、自分の持っていた剣を手渡し、「伊兵衛に
この剣を…」とたのんだ。


 剣をしっかり抱いた家来は夜を日に次いで東海道を東下遠江についた。


 が、しかし、伊兵衛には援軍を組織するだけの兵がなく、自分自身の身体さえ自由がき
かなくなっていた。


 そこで正行の剣を六所明神に奉納し、ただひたすら南朝の勝利を祈願し続けた。


 ところが祈りも空しく、正行四条畷の討死の報せに、伊兵衛は刀をすてて一百姓として
堤村に帰農してしまったのである。


 正行の剣はそのまま六所神社に宝物としてつたえられ、昭和も戦前まで保存されていた
というが今はない。(昨年度のNHK大河ドラマ『いだてん』主人公の一人田畑政治氏の実家
にあったという話もあります=ハマコウ註)


 伊兵衛には3人の男子があった。長男伊兵衛(襲名)、次男伊之助、三男伊左衛門であ
る。


 長男伊兵衛の子孫はその後数代にわたって堤村に居住、新家や分家を生んでいったが正
統の伊兵衛家(何代かは判らない)は江戸時代に下諏訪に移っていったという。


 下取訪では生糸問屋を開き、屋号は本祖橘家の名に因んで橘屋と呼んでいたという。 

  
 次男伊之助は堤村の西のはづれに分家した。屋敷を構えたところは堤から小沢渡に行く
道路の北側で今は畑地となっている。


 この伊之助の流れも新家や分家をつくり野崎一帯で小楠姓を名乗っているのはみな伊之助の一統であるという。


 三男伊左衛門は伊之助の屋敷の西側に分家したといい、その後裔が現在堤西に住んでい
る小楠伊吉さん(教員・倉松)である。   <60年くらい前の文章だと思われます。


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