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キーワード「新津」④-新津の地名 角川・静岡県の地名辞典(3) / 『米津の話』(「米津浜の砲台」、「米津浜の人魚」)【再掲載 2014.4】 [読書記録 郷土]

今回は、9月6日に続いて、わたしの教育ノートから、
キーワード「新津」4回目の紹介です。



浜松市、新津地区。浜松市南部海岸沿いの地区です。
かつては、浜名郡新津村。

前回、キーワード「新津」③には、大勢の方に御訪問いただき、驚きました。
そのわけは何だろうかと考えております。






今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「(法枝の)地名の由来は,法が仏法を意味し仏教が栄えたことにあると伝える。」

「明治初年廃仏毀釈の運動が展開し,住民はこぞって仏教から神道(禊教)へ集団転○
した。そのため清陽寺は廃寺となる。」

- このようなことが各地で起こったのかもしれません。
  地名の由来を考えると皮肉なことだと思います。


・「寛保4年米津浜に大魚が2尾あがり,人魚に相違ないと評判になった」

- 気に掛かります。


・「安政3年藩は米津浜に高さ約15間・周囲約40間の円丘をした台場を築き,500
貫以上の大砲3門を設置した」

- 米津台場跡は、今でも残されていますが、思っているより小さく感じます。
  また、砲弾は、わたしの母校の校長室に今でも飾られています。


・「安泉寺内には安永2年難破船から抜荷をしたかどで冤罪の犠牲となった村民6名の菩
提のため建立したと伝える地蔵尊がある」






あわせて、再掲載となりますが、「米津浜の砲台」と「米津浜の人魚」を載せます。
自分の住む地域の昔の話、伝説はおもしろいですね。



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☆キーワード「新津」④-新津の地名 角川・静岡県の地名辞典(3) 

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◇のりえだ <浜松市>
  
 佐鳴湖の南東遠州灘に注ぐ馬込川支流の堀留川流域に位置する。地名の由来は,法が 
仏法を意味し仏教が栄えたことにあると伝える。



〔近世〕法枝村 
  
 江戸期~明治22年の村名。遠江国敷知郡のうち。慶長6年からは浜松藩領。村高は,
「元禄高帳」58石余,「天保郷帳」228石余,「旧高旧領」229石余。


 慶長年間の「浜松藩郷村帳」では高56石余,反別は田方3町余・畑方6町余。延宝5
年「浜松町村帳」では高58石余,家数49(うち役家43)。


「遠淡海地志」では戸数100。


「椛屋記録」によれば東海道浜松宿の助郷を勤め,元禄15年の助郷高は69石(浜松市市史資料編1)。


 文政8年志都呂地先内の川通りに新田開発のための新堤が築造されたため,当村ほか11か村は水腐不作が続くようになった。

 そこで同12年12か村は旗本松平氏の志都呂陣屋に対して新堤撤去の嘆願運動を行っ
た(岡部家文書/浜松市史2)。


 天保15年の漁船は1艘(東京都立大学所蔵水野家文書/浜松市史2)。寺社には臨済
宗清陽寺・八柱神社がある。


 米麦のほか角豆・越瓜などを栽培する。


 明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県浜松県を経て同9年再び静岡
県に所属。


 明治初年廃仏毀釈の運動が展開し,住民はこぞって仏教から神道(禊教)へ集団転○し
た。そのため清陽寺は廃寺となる。明治22年新津村の大字となる。



〔近代〕法枝
   
 明治22年~昭和26年の大字名。はじめ新津村,昭和26年からは浜松市の大字。明
治24年の戸数42・人口206,厩8、船2。昭和26年法枝町となる。



〔近代〕法枝町
   
 昭和26年~現在の浜松市の町名。もとは大字法枝。







◇よねづ 米津<浜松市>
  
 遠州灘に注ぐ馬込川の河口右岸に位置する。



〔近世〕米津村

 江戸期~明治22年の村名。遠江国敷知郡のうち。


 「天保郷帳」の塩町の条に「古は米津村・塩町・名残追分新田村三ケ村」とあり,一時
塩町に合併されたが,幕末には再び分離。浜松藩領。


 村高は,「元禄高帳」212石余,「旧高旧領」266石余。


「遠淡海地志」によれば,戸数80,小地名に六軒が見え,産物は奈良漬けに適した越瓜
とある。

「風土記伝」では漁猟場とある。


「青山御領分絵図」には米津浜には茶屋があり,当時は浜遊びといえば米津浜とされた(浜
松市史2)。


 寛保4年米津浜に大魚が2尾あがり,人魚に相違ないと評判になった(都田村年代手鏡
/浜松市史史料編2)。


 天保15年の浜松藩軍制改革によって米津浜は海防の重要基地とされ,弘化3年アメリカ
合衆国東印度艦隊司令長官ビッドルの率いる軍檻2隻が遠州灘に現れたときには三河国吉
田藩とともに米津浜に出兵している(浜松市史2)。


 安政3年藩は米津浜に高さ約15間・周囲約40間の円丘をした台場を築き,500貫
以上の大砲3門を設置した(浜名郡誌)。 


 安政2年の大地震によって倒壊した家は27軒(変化抄/浜松市史2)。


 寺院には寛文11年新橋村大通院内から当村に移転した臨済宗安泉寺がある(浜松市史
1)。


 同寺内には安永2年難破船から抜荷をしたかどで冤罪の犠牲となった村民6名の菩提の
ため建立したと伝える地蔵尊がある(同前)。明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),


 同4年静岡県,浜松県を経て同9年再び静岡県に所属。明治22年新津村の大字となる。



〔近代〕米津
  
 明治22年~昭和26年の大字名。はじめ新津村,昭和26年からは浜松市の大字。 


 明治24年の戸数106・人口563,厩20,船45。昭和26年米津町となる。



〔近代〕米津町
  
 昭和26年~現在の浜松市の町名。もとは大字米津。昭和27年大字新橋の一部を編入。


 昭和46年区画整理事業により一部が卸本町になる。












☆「米津浜の砲台」  浜松市米津町 出典不明【再掲載 2014.4】 

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「最近、アメリカ、イギリスなどの黒船、日本の各地を窺がっている。


 貴藩に於ても、海岸に砲台を作り、黒船近づきなば、直ちに砲撃せよ。


 弘化4年(1847年)5月、当時諸外国から、開国通商を強要されながらも、依然として、
鎖国主義を続けようとする徳川幕府は、浜松城主井上河内守正直に対しても、斯う言う外
国船打払いの命令を通達して来たのであった。


 井上河内守は、


「尤もな次第、早速にも」


と直ぐ、兵法学者として全国的にも知られている、部下の藩士、岡村杢之進に、


「普請奉行となって、米津浜海岸に早急に3ケ所の砲台を作れ」


と命じた。


「承知いたしました」


 杢之進は即日、配下の武士十数人を連れて、浜松の南の米津村の海岸に行った。


 そして地形を調査し、海岸に近い砂山の、適当な位置を選定して、地元の百姓達を労役
に使って、砲台の築造にかかった。


 杢之進は兵法学者だけに、当時とすると、可成りに理想的な台場を作った。


 この台場は高さ20メートル、周囲80メートルの円丘型で、前面は石で以って積み上げ、
内部の下層は地下室の形をして、石階を以って上部に出ると、そこに2トンの重さの大砲
一門を備えるのだった。


 勿論この土を盛る事は砂丘を利用したのであるか、併し当時としては、目をみはる程の
大砲台と思われるのであった。


「なる程、これなら」


 農民も、又藩の武士達も感心するのだった。


 斯うした同型の砲台を、嘉永元年(1848年)9月までに、東、中、西の3基を作ったので
ある。


 そしてこの砲台にはそれぞれ、「お台場役」と言う井上藩の武士22名宛、併せて66人が
昼夜交代で勤務しているのであった。


 そして万一外国船が海岸に近づけば、各砲台1発宛、3発の威嚇発砲をして、それでも尚
近づいて来るときは、砲撃して撃沈してもいい事となっていた。


 だからお台場役人は、


「近寄ると、あぶないぞ」


と、戦争のつもりで、張り切って居たという。


 だが黒船の外国船は、幾回となく沖合を航行したが、この米津浜には、一度も上陸する
気配を見せたことはなかった。

 だから張り切っているだけで、一度も砲弾を撃つ事はなかった。


 併しこの大威張りの大砲も、砲弾は丸い石の玉、試みに撃って見ると、漸く波打ちぎわまでしか届かなかったという。




 太平洋戦争の昭和19年頃、米軍が米津浜に上陸すると言って、竹槍を持って戦々恐々と
していたのと、大部よく似ている。


 今、米津浜に残る砲台跡は、中台場が一つのみ、周囲70メートルの小丘には、緑りの松
が茂って、小さい記念碑が建っている。


 大砲は姿を見せないが、砲弾は1個だけ、浜松市立新津小学校にある。直経約15センチ
メートル程の、花崗岩を丸くしたものだ。


 尚、大砲は何処から持って来て、最後はどう処分されたか、よく分らない。











☆「米津浜の人魚」 浜松市南区米津町 出典不明【再掲載 2014.4】

 延享元年(1744年)というから、今から凡そ230年も前のことである。

  
 浜松市の南の海岸、米津町の米津浜は、その頃は鰯や太刀魚など、いろいろな魚のよく
取れる浜で、村の大半は漁師であった。



 春のある日である。



 村の漁師の彦八は、いつものように沖へ出て、網をかけていた。所がどうした事か、そ
の日に限って漁がなかった。


「ちえっ 馬鹿な日だな」


 彦八は舌打ちしながらも、傾むく日を眺めて、


「もう一度だけだ。これでやめだ」


と、最後の網をかけた。するとその網は、急に重い手答えになった。


「や、いるぞ」


 彦八はにこにこしながら網を上げると、大きな魚が2匹入っている。よく見るとそれは、
上は人間の顔をしているが、下半身は魚、しかも1匹は男、1匹は女の姿をしていた。


「おお、これが噂に聞いた、人魚というものか」


 彦八はふと、これを見世物にするよう、香具師に売って、金儲けをしようかなと考えた
が、併し2匹の人魚が、哀しそうに涙ぐんで居るのを見ると、思わずも可哀そうになって、


「もう二度と、人につかまるなよ」


と、海へ放ってやった。


 人魚は嬉しそうに、にこにこしながら、海の中に消えてしまったと。


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