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「恵みあれば」 鈴木秀子  中央公論新社 1999年 ④ / 「巨大地震は必ず来る その十秒が命を守る」杉原義得 中経出版 2006年【再掲載 2011.5】 [読書記録 一般]

今回は、わたしの教育ノートから、9月17日に続いて、鈴木秀子さんの
「恵みあれば」4回目の紹介です。





出版社の案内には、


「自分だけが恵まれず、不幸だと感じたことはありますか? 満たされない、味気ない毎
 日だと思ったことはありますか? しかし、恵みはすべての人に訪れているのです。あ
 るがままの自分を見つめ、魂の奥深いところでの自分と他者とのあたたかいつながりに
 気づいたとき、新たな生がはじまる。」


とあります。



今回は、一房の葡萄(2)の紹介です。






もう一つ、再掲載となりますが、杉原義得さんの
「巨大地震は必ず来る その十秒が命を守る」を載せます。
頭の中に常においておきたいことですが、つい、おろそかにしてしまいがちです。



わらの片づけ.JPG
昨日は、わらの片付けをしました。
タマネギの苗.JPG
先日、種をまいたタマネギが少し大きくなりましたが、台風が気がかりです。




☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」




ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。








☆「恵みあれば」 鈴木秀子 中央公論新社 1999年 ④

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◇一房の葡萄(2)


  有島武郎の生涯


 有島の生涯は波瀾に富んだものでした。武郎は、明治維新の勝者である薩摩出身の父親
と、敗者側となった南部藩出身の母親との間に、長男として明治11年(1878)に生
まれます。


 弟に、洋画家の有島生馬や同じ作家の道を歩んだ里見とんがいます。


 晩婚婿だった両親は、武郎に愛情を注ぐ一方で、教育にも熱心でした。


 4歳の頃、大蔵省に勤める父親が税関長になって、横浜に移り住むことになりました。


 開港後、西欧文化の影響が大きかった横浜で、両親は、武郎と妹をアメリカ人の家庭に
預け、英語を学ばせました。


 英語が操れるようになると、今度は、外国人子弟の多い英和学校に入学させました。


『一房の葡萄』の舞台は、この学校の思い出につながっています。


 日本は当時、欧米各国から先進的な技術や知識を取り入れるのに熱心でしたから、父親
は、武郎が文明開化促進の力になることを期待したのでした。


 その一方で、家庭内では、漢籍を中心とした武士としての厳格な儒教教育が施されまし
た。


 英和学校では、自由な雰囲気のもとで、のびのびとした人間教育を受けていたので、こ
の教育が、幼い武郎の心に相剋を引き起こしたことは想像に難くありません。


 この相剋は、貴族性を重んじた父親の意志で、学習院に転校させられたことで、より強
まりました。


 そこでは、貴族社会と呼ばれるものの実体も垣間見ることになります。



 武郎は、成績優秀、品行方正の模範生とみなされました。


 さらに、そこで文学や絵画へ目を開く機会も得ました。


 しかし、後に「予は学習院における教育に負う所なし」と告白することになります。そ
れは、押しつけられた薫陶に対する心の葛藤があったからです。


 幼少年期を通して、儒教の厳格な教育と西欧ふうの人間的教育の相剋に悩み、その調和
を求めつづけた武郎は、精神の自由と高揚を得るために、過去を否定するしかなかったの
でしょう。



 学習院卒業後、少年期から漠然と考えていた農業の革新を目指して、母方の親戚の新渡
戸稲造が教授をしている札幌農学校に進みます。


 「少年よ、大志を抱け」の言葉で知られるクラーク博士が基礎を築いた農学校は、アメ
リカのフロンティアスピリットとキリスト教精神が建学の礎となっていました。


 武郎は、新渡戸が貧しい家庭の子どもたちの教育のために創設した遠友夜学校をしばし
ば訪れ、貴族社会とかけ離れた開拓地の実情を知ります。


 実業家に転じていた父が、羊蹄山のふもとに広大な土地を購入し、農場経営にとりかか
ったのもこの頃でした。


 キリスト教は、武郎の内面的な思索を促し、新しい生命への希望に導きましたが、同時
に、宗教的真理の探求が、罪の意識をもたらし、それが、幼児期からの心の相剋に拍車を
かけることになりました。



 農学校を卒業して、一年間の軍務生活を送った後、アメリカへ留学します。ハーバード
大学などで学ぶかたわら、精神病院での看護人の仕事なども体験しました。さらに、友人
を通じて社会主義思想を学び、社会の底辺にあえぐ人々の心情に思いを馳せることになり
ます。



 4年の米英留学を終えて、札幌農学校が昇格・改組された東北帝大農科大学に英語講師
として迎えられます。


 その前後から知り合いとなった志賀直哉、武者小路実篤らと、「白樺」の同人になりま
した。


 そこで、武郎は相剋を内在させる人間の本質に鋭い視線を向けた作品を次々に発表しま
す。



 生来の欲求に生きようとする人間を描くことで、的確な人間観察を進め、厳しい、真実
の人生の意味を求めつづけていきました。


 妻と父を相次いで亡くした大正5年から、創作活動に専念した武郎は 『カインの末裔』
『生れ出づる悩み』『或る女』など、文学史に残る作品を次々に生み出し、創作活動の絶
項期を迎えました。


 ところが、第一次大戦後、ロシア革命や日本における米駆動など、激しくなる社会運動
が、武郎の社会に対する考えを揺さぶりました。


 親から受け継いだ財産に依存して生きる罪意識に動揺した結果、「宣言一つ」を書いて、
財産放棄を目論み、北海道の所有地・農場を解放します。


 それは、武者小路実篤の「新しき村」運動とともに、人道主義、人間肯定を掲げた白樺
派の理想主義の実践でもありました。


 しかし、思想と生活の革新を目指しての激しい心の闘いは、武郎の創作力を衰えさせました。



 内外の苦悩は、ついに、人妻の雑誌記者との心中という形で、武郎を死に追いやること
となりました。















☆「巨大地震は必ず来る その十秒が命を守る」杉原義得 中経出版 2006年【再掲載 2011.5】

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◇実際に地震にあった時の対処法

(1)家の中で地震にあったら

□地震発生直後にすべきこと
 
1.家族の安全をはかる

 ・あわてずに地震の人きさを見極めて家族に声をかける

 ・ゆれを感じたら丈夫な机やテーブルの下に隠れる

 ・家具や家電の近くから離れる

 ・避難出口確保(ドアなど開ける)

     ガスやストーブを消す




2.発火や倒壊がないか確認
  
 ・家族の安全確認
  
 ・発火があれば初期消火
  
 ・家の中にいるべきか外へ避難か判断
  
 ・非常持ち出し品を確認
  
 ・外へ避難の場合はガスの元栓を閉め、電気のブレーカーをオフにする。
   
 ○ 戸締まりをして車ではなく徒歩で避難所へ。
   
 ○ 家族へは居場所をメモで残す






□地震の様子が分かったらすべきこと

※ 家族や自宅が無事な時は、近隣の安否や援助を行いたい。

1.地域の避難所に避難する



2.隣近所の安否を確認する



3.高齢者や一人暮らし家庭の安否の確認をする



4.近隣に火災があれば消火の手伝いをする



5.倒壊の家があれば住人の救助に当たる





□地域でしのぐ

※ 大地震であれば、地域での協力が大切である。

1.水や食料は備蓄で助け合う



2.壊れた家には入らない。余震でつぶれることが多い



3.デマには惑わされない



4.避難所ではマナーを守って






□避難時の持ち物
  
 ・水・食料・救急医療品・携帯ラジオ・懐中電灯・現金
  
 ・非常待ち出し品


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