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「宮本常一伝書鳩のように」石川直樹 平凡社 2019年 ⑥ / 「宮本常一逸脱の民俗学者」岩田重明著(河出書房新社・2520円)-読書案内 131117 中日新聞朝刊「読む人」より【再掲載 2013.12】 [読書記録 民俗]

今回は、9月25日に続いて、石川直樹さんの
「宮本常一 伝書鳩のように」の紹介 6回目です。



歩く民俗学者と呼ばれた宮本常一さんについて詳しく書かれています。




出版社の案内には、


「日本各地を歩き、漂泊民や被差別民、歴史の表舞台に姿を現さなかった無名の人々の営
 みや知恵に光を当てた『野の学者』宮本常一。膨大な著作のエッセンスを一冊に集成。」


とあります。





今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「百姓が土を恐れんようでは一人前とは言えぬ」


・「お前はキャラメルのような男だ。上あごにつけば上あごの形が付き、下あごにつけば
下あごの形が付く」


・「世間がその人を必要としなくなったら、可美はその人の存在を認めなくなるだろう。
 その人が生きているということは必ず存在の理由があるものだ。(森信三先生)」


・「私の一生は伝書鳩のようなものであったのかもわかりません。しかし、決していい伝
書鳩ではなかった。先人の意思をなん十分の一も伝えることができないからです。」






もう一つ、再掲載となりますが、岩田重明「宮本常一 逸脱の民俗学者」の書評を載せます。







☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」




ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。



☆「宮本常一伝書鳩のように」石川直樹 平凡社 2019年 ⑥

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◇母の思い出 1962年 55歳
 
 桑畑に言った思い出


「不平も愚痴もほとんど言わぬ人であった。冬になると毎日のように機を織り、それで着
 物を縫うて着せてくださった。家の中から機を織るオサの音が聞こえると私は安心して
 仲間たちと遊んだ。」





◇私の祖父 1960年 53歳
 
 祖父 宮本市五郎
 
 『物いわぬ農民』

 『民話を生む人々』




◇父親の躾 1943年 36歳

 「ショウネ(性根)のすわっていない者くらいショシャ(所作)の悪いものはない」


 「男は仕事に惚れなくてはいかん」


 ものには必ず持つところがあり腰の曲げ方にも基準があった。


 鍬の土を手で取ると必ず叱られた。
  「手が荒れるに分らんか」


 土は恐るべき力をもっていたしこれを恐れないようでは、真の百姓とは言えなかった。 

 土のおきて


 「土の性を知らぬようでは百姓が勤まらん」


 「百姓が土を恐れんようでは一人前とは言えぬ」
    大阪府南河内郡古老左近熊太翁も腰に鍬の土を落とす木の片




◇伝書鳩のように 1970年 63歳

「国語通信」

 哲学の先生から、
  「お前はキャラメルのような男だ。上あごにつけば上あごの形が付き、下あごにつけ
   ば下あごの形が付く」
  
 国語の先生から
  「お前はブレーキの利かない男だ」
 

 郵便局員 → 小学校の先生
 

 渋沢恵三
  「全国を歩いてみないか」



 旅が自分を引き付けたもの~ 村人の愛情と老人の謙虚な姿

   話してくれる人は今から思い出してみれば皆珠玉のような人だ 
 

※「あの人は良い人だ」と村の人に言われた老人を訪ねていって失望させられたというこ
  とはただの一回もありませんでした。どの村にも立派な人がいました。しかもその大
  半が村の中流層以下の人であったということはいろいろなことを考えさせられまし
  た。村の人はそういう人を○○にして生きていたのですね。そういう人たちは、また、
  心の柔らかな人でした。仮に三日もお世話になると、たいてい涙を流してお別れを惜
  しんだものでした。



 渋沢先生から
  「その人を必要としないとき邪魔にならないようにしていることである」



 哲学の先生(森信三先生)

  世間がその人を必要としなくなったら、可美はその人の存在を認めなくなるだろう。
 その人が生きているということは必ず存在の理由があるものだ。
  


 何べんも死にかかりつつ誰かに助けてもらいました。誰かが助けてくれたのです。貧し
くても死ななかったのはそのためです。



「・・・多少とも相違と見えるものがるとすれば、それは私の創意ではなく、私の接した
 人たちの創意です。実に多くのことを教えられました。私が多少とも気の利いたことを
 言ったりしたことがあるとすれば、どこかで誰かに示唆を受けたものです。」



「私の一生は伝書鳩のようなものであったのかもわかりません。しかし、決していい伝書
 鳩ではなかった。先人の意思をなん十分の一も伝えることができないからです。」















☆「宮本常一逸脱の民俗学者」岩田重明著(河出書房新社・2520円)-読書案内 131117 中日新聞朝刊「読む人」より【再掲載 2013.12】

<生活を記す学問の可能性>

 本書は、近年再評価が著しい宮本常一の生涯と思想を、貴重な第一次資料に基づきなが
ら概説し、現在でも色褪せないその可能性を浮き彫りにした労作である。


 著者は言う。


 クロポトキンの『相互扶助論』を続むことから始まった宮本の学問は、柳田國男の民俗
学からも渋沢敬三の民具学からも「逸脱」していた。



 「逸脱」はプラスの意昧を持っている。



 宮本は、客観性を条件とする通常の学問では許されない主観的な記述を決して排除する
ことなく、人々の[生活誌」を描き続けた。



 宮本は常に「私」から語った。



 だからこそ、宮本は繰り返し「故郷」周防大島に還っていったのである。そこには学問
の抽象化と体系化に抗う人々の生活があった。



 無数の島々からなる列島に移り住んだ人々は海と山を生活の場とし、自然の資源を有機
的に活用することで生活を成り立たせていた。


 「定着」以前に「漂泊」があり、「稲作」以前に「畑作」があり、漁撈と狩猟があった。


「民具」はそうした生活全体の中から捉え直される必要がある。


 宮本は、柳田民俗学と渋沢民俗学を内側から食い破ってしまったのだ。





 「生活誌」を根幹に据えた宮本の学問を、著者は複眼的な視点からなる「総合社会史」
とし、こう記す。



「総合社会史としての畑作農耕文化の把握は、たとえば、柳田國男がそうであったような
 稲作単一農耕文化論の日本文化論に対して、狩猟・畑作農耕文化を対照的に示すととも
 に、さらには、農業以外の漂泊民文化、漁業文化をも提示することにより、複合文化論
 (多元的文化論)としての日本文化論をおのずと提出することにもなっていく」


 もちろんその過程で、戦争中の宮本の発言が「大日本帝国」を根底から支えた「根深い
次元からの保守主義」に基づいていることを著者は見逃していない。


 農村の現実と直結した独白の保守思想を徹底することが戦後の創造的な見解につながっ
ていった。歴史の暗部をも見据えたフェアな評伝である。


                         (評者安藤礼二=文芸評論家)
 
 いわた・しげのり 1961年生まれ。中央大教授。著書『墓の民俗学』など。

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