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キーワード「新津」⑦-「潮かおる浜の里」新津公民館編 1995年(1) / 江戸時代の「津波避難タワー」 磯田道史(『歴史の愉しみ方』中公新書 2012年より)【再掲載 2019.1】 [読書記録 郷土]

今回は、9月29日に続いて、わたしの教育ノートから、
キーワード「新津」7回目の紹介です。



新津地区のことをまとめた「潮かおる浜の里」の紹介、1回目です。




今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「瓦塚遺跡  奈良時代の集落-奈良時代末・津波で廃絶」
「言い伝え  『明応の津波(1498年前後)村が消えた』」
- 新津地区が津波の被害を何回か受けたことがわかります。


・「鞍松郷 津波二回〔明応七年(1498)永正七年(1510) 家流れ去り溺死者多数 → 鞍松郷荒廃」
- ついこの間、一条工務店からの寄付をもとに大きな堤防が海岸線に完成しました。
  しかし、この文を読むとやはり怖く感じます。





もう一つ、再掲載となりますが、磯田道史さんの
「江戸時代の『津波避難タワー』」を載せます。
高塚熊野神社、
東海道線高塚駅の高架橋から南側を見ると、すぐ近くに認めることができます。
新津地区のすぐ北側、可美地区にあり、家から歩いて30分くらい、
このごろ週に一度は徒歩でお詣りに行っています。


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☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」




ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
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☆キーワード「新津」⑦-「潮かおる浜の里」新津公民館編 1995年(1)

◇砂堤列

 Ⅰ 第一砂堤 入野



 Ⅱ 第二砂堤 伊場遺跡



 Ⅲ 第三砂堤 可美地区



 Ⅳ 第四砂堤 小沢渡・新橋・法枝・田尻地区



 Ⅴ 第五砂堤 堤・倉松



 Ⅵ 第六砂堤 米津





◇新津地区の遺跡

 ① 堤町村東遺跡

    小楠義一方北東の畑  リンゴ箱一杯の土器

4世紀半ば~古墳時代前期



 ② 田尻遺跡   
 
    松本修次宅前・松本きぬ宅裏の間


    古墳・抜き取り痕 16個の要石


   「静岡県郷土研究」18巻 三口の直刀・須恵器坩



 ③ 新橋町村東遺跡

    親合神社境内付近 信州大教授・故小林国夫氏 須恵器採集



 ④ 瓦塚遺跡   

    倉松町・小字瓦塚

言い伝え
     「土器を積んだ船が難破してここに落とした」


※ 「昔ここで土器をつくっていた」

かわらけのような土師器・固い須恵器


   奈良時代の集落 - 奈良時代末・津波で廃絶


言い伝え
   ◎「明応の津波(1498年前後)村が消えた」






◇中世 

◇浜松荘 

 「東鑑」浜松郷中心-24郷(永禄十年今川氏真判物 )


 24郷の中に鞍松郷・新橋も



◇新橋郷

 永禄十年二月二十九日(1567年)大通院宛・今川氏真判物
  大通院の所領安堵


 天正十四年九月七日(1586年)徳川家康判物
大通院所領安堵 鈴木重時・近藤康用 今川氏方から家康へ

「新橋郷本所堤共」(堤は新橋郷の一部)





◇小沢渡郷 永禄十年八月五日 今川氏真判物 

 鈴木重時・近藤康用に三河国吉河替地としてあてがわれた村の一つ

 安堵状に小沢渡郷の名





                       
◇鞍松郷 

 寛正六年十二月(1465年)北野社領文書目録の中に 
「遠江国鞍松郷」



 文明元年五月(1469年)文明五年(1473年)の目録に
松梅院不知行分として「遠江国浜松荘鞍松郷」
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※ 津波二回
 〔明応七年(1498)永正七年(1510) 家流れ去り溺死者多数→鞍松郷荒廃〕
















☆江戸時代の「津波避難タワー」 磯田道史(『歴史の愉しみ方』中公新書 2012年より)【再掲載 2019.1】

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 次に大津波のきそうなところで、しばらく歴史津波の古文書をさがそうと思って、2012
年4月から静岡文化芸術大学にうつり、歴史上の津波の講義をはじめたら、授業後、女子
学生から悲痛な質問メールがきた。


「自分は海岸から2キロの場所に住んでいる。震災後、津波避難所ができたが、たいてい
 2階建ての屋上です。想定される最大11メートルの津波が来た場合、それに上がって
 助かるものでしょうか。」


 私には「武士の家計簿」やら「忍者の履歴書」やら発見困難な古文書をみつける運があ
るらしい。


 震災後ためしに地震津波の古文書をさがしてみたらいくつも新出史料がみつかった。


 平時なら忍者の古文書だけ研究して楽しく歴史に遊んでもいい。
 しかし列島が地震活動期にはいってしまった以上、そうもしていられない。


「磯田さん。あんた古文書捜査がそんなに速いなら地震津波の古文書をみつけなよ」。


 天に則ればその声が聞こえる。それで津波常襲地の大学にうつることにした。



 歴史事例から津波の怖さを学生にさんざん講義したら


「東海地震の怖さは小学生の頃からずっといわれてきたが、先生ほど具体的な話をする人
 はいなかった」


と件の質問がきた。


 内閣府の有識者会議が最大級の南海トラフ連動地震がおきたときの津波の高さを公表。


 女子学生の住む町は11メートル超、私の住む浜松は14メートル超の津波が予想されて
いる。


 人命のかかった質問だ。私はこう答えた。


「3月3日付の『日本経済新聞』(電子版)に『津波は対抗せずやり過ごせ』という記事が
 ある。浜松に地形がよく似た名取市閖上(ゆりあげ=宮城県)の事例だ。閖上の海岸には
 8.5メートルの津波が襲来。沿岸から2キロ内陸にいた人は高さ約5メートルの歩道橋
 にあがってギリギリ助かった。しかしこれが11メートルの津波であったら助からなか
 ったと考えるのが自然。貴君が心配するように2階建ての屋上は6メートル前後。最大
 級の津波には最低でも高さ8メートル以上の建物屋上への避難が必要ではないか」


 いま、津波避難タワーの建設がさけばれている。


 海岸ぞいで高台のない人口密集地ではまさに命綱だ。


 ふと考えた。江戸時代に津波避難タワーはなかったのか。


 ところが1か月もたたず、私は史料調査中にその現物をみつけてしまった。


 浜松駅の西に高塚という駅がある。


 近くの熊野神社に高い塚があるから高塚だ。


 神社の案内板をみて驚いた。

「此の地の神主さんが高い丘を作って人びとを救えと云う不思議な夢を見たので、村人と
 はかって神社の裏山に土を盛りあげた」。


 それは最古かもしれない津波避難タワーだった。


 高塚地区は海岸から2.2キロ。海抜約5メートル。巨大津波が来れば危ない。

 だからだろう。周囲の地面から高さ8メートルの砂山を作っていた。


 高塚の地名は江戸初期にはすでに見られる。


 砂山の麓には樹齢500年のシイの大木があった。


「大津波のため住んでいた人達が殆ど死んでしまった。村人は津波の犠牲者を此の地に葬
 り沢山の砂を浜から運んで高い塚を作った」。


 これはおそらく明応の超巨大津波(1498)の時のことだろう。明応津波は安政地震津波
(1854年)の3~4倍の高さとされる。


 巨大津波で高塚集落は一度壊滅したらしい。


 しかし

「安政の大地震が起り津波のため多くの死者が出たが、高塚の人達は此の丘に避難して被
 害を免れた」。


 このタワーは機能したのだ。

 この集落は、神の声、神主の発案でこの避難タワーを作り「維新頃に至るまで毎年正月
元旦に氏子が土砂を盛」っていた(『入野沿革誌』)。



 しばらくして例の女子学生からメールがきた。


「近くに8メートル以上の4階建てがあるからそこに逃げるようにします」。


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