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キーワード「新津」⑯-「ふるさと新津」新津婦人学級 昭和57年3月5日発行(1) / 「米津浜の松風」井口周治 私家版 ②(後半)【再掲載 2014.12】 [読書記録 郷土]

今回は、11月12日に続いて、わたしの教育ノートから、
キーワード「新津」16回目の紹介です。

新津婦人学級による「ふるさと新津」一回目の紹介です。



今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「強風除けのため屋敷周囲に槇(細葉)」


・「昭和30年 全戸数の45%が農家
昭和55年 全戸数の16%が農家(うち87%が兼業農家)」

「作物 タマネギ,サツマイモ,スイカ,エシャレット,白ネギ」


・「 昔の天竜川の本流は馬込川 - 河口に田尻湊」


・「江戸送り地蔵 1773年」






もう一つ、再掲載となりますが、井口周治さんの
「米津浜の松風」私家版 ②(後半)を載せます。
「江戸送り地蔵」についても書かれています。


<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト




☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」




ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
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☆キーワード「新津」⑯-「ふるさと新津」新津婦人学級 昭和57年3月5日発行(1)

◇新津のすがた

□空から見た新津

 東西約5㎞×南北約2.5㎞  
   細長い帯
 

 畑は砂地  風除け・麦殻
 

 強風除けのため屋敷周囲に槇(細葉)




□人口 

 昭和55年10月1日 13708人(男6840 女6768)


 一世帯あたり 1950年 6.2人

1980年 3.7人(核家族化傾向)


 昭和55年 
  新橋町  3952人 1111戸

小沢渡町 3394人  860戸

米津町  2385人 687戸

倉松町 1521人 380戸

堤町 736人 181戸

田尻町 705人 162戸

法枝町 976人 262戸

卸本町 39人 11戸

  合計 13708人 3654戸




□産業

<農業>
  昭和30年 全戸数の45%が農家


昭和55年 全戸数の16%が農家(うち87%が兼業農家)


  耕地 1962年 516ヘクタール

1980年 315ヘクタール 一戸あたり0.53ヘクタール

  作物 タマネギ,サツマイモ,スイカ,エシャレット,白ネギ


<工業>
  1961(昭和36)年 小沢渡鉄工団地

鈴木自動車の関連工業が集団化 
    浜松最初の工業団地


<商業>
  1965(昭和40)年頃から増えてきた

古橋石油(GS 昭和36)スズキ(食料品小売り 昭和36)
   飯田屋(文具 昭和36)クリーニング(昭和37)はきもの(昭和41)
   米(昭和2)タネヤ(日用品 昭和45)


  卸商団地 繊維問屋 中心部から
昭和43(1968)年 90社 → 昭和46(1971)完成




□施設

 ・新津公民館 昭和56.4

・国立浜松職業訓練短大 昭和57.4

 ・南高校 昭和38.4

・清明寮 昭和27.4 舘山寺の福音寮が移転

・市立小沢渡保育園 昭和47

・赤門幼稚園 昭和21.4 赤門寺(光勝院)

 ・恵学園 恵松学園 昭和45 昭和54

・勤労者体育センター 昭和53







◇新津のむかし(1)

1.新津に人が住み始めた頃

  3000年前
    砂丘列3本(東西に)


1500年前 
    堤村東遺跡 土器片

新橋村東遺跡

田尻古墳 

※堤町 小楠清太郎さん 昭和32年9月
畑地下80cmから土器がリンゴ箱一杯
土器片の高坏 海成平野で1500年前より生活



2.大通院と通応和尚

 大通院
   臨済宗方広寺派の中本山

千手観世音菩薩 末寺48寺 格式高い

境内5771坪

応永8(1401)年 無文元選和尚の三世的伝

住職輪番制 明治末譲獄文周まで370世

全国臨済宗の僧侶も養成

大通院の名残 山門(黒門)と「禁葷酒」の石と森



 通応和尚(1801~1854)
新津小運動場東側に大通院の墓苑 - 歴代住職の墓石

竜神に祈り降雨



3.田尻湊

  1338年 宗良親王 白羽湊

昔の天竜川の本流は馬込川 - 河口に田尻湊

法枝町 - 舟着辺り



   1625年 麁玉郡新原村に新堤防

支流であった現在の天竜川が本流になった

↑↓

田尻湊の役割の終焉
回船業権利復活運動 1833年 → しかしかなえられず



4.江戸送り地蔵

  安永2(1773)年 紀州御用船の遭難
荷物不足 → 紀州役人の陰謀説

6人の組頭が名乗り → 盗みもしない人を下手人

    200両を浜松藩へ → 行方知れず

6人は小塚原の刑場へ



  涙ながらに小さな石地蔵

「罪人を仏として祀るとは何ごとか」とのお叱り

→ 境内の藪かけに密かに埋納

  
  昭和10(1935)年秋 墓地拡張のおり掘り出した


昭和48(1973)年 二百回忌 二百年祭


昭和55年3月 白羽町 太田康次氏が本格的な地蔵堂建立














☆「米津浜の松風」井口周治 私家版 ②(後半)【再掲載 2014.12】

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◇米津の江戸送り地蔵

□安永2(1773)年秋 
   
 無実の罪で6人が江戸小塚原の刑場の露に

米津の義民




□昭和10(1935)年10月
   
 安泉寺住職13世小林鶴洲師が土中より発見


 台座に「安永2巳年難船ニ付江戸総代為菩提村中に…」


 土中に160余年埋もれていた

   
 総代 又三郎(隠居船=字名 ハマコウ註) 半五郎(本船) 仙之助(六軒)
権兵衛(清三) 仁左衛門(中船) 寅之助(新船)




□安永の大難

 安永2(1773)年の初秋 紀州御用船が座礁 
   不幸 = 紀州
→ 荷の不足を訴えられる

※古老の言い伝え
 「下田港で豪遊し積み荷に手を付けたため,暴風雨のあったことをよいことに米津海岸
  に座礁した」(口伝)


 字名 - 地引き網船の名が小字名に転化した

        
※権力の前に否応なしに下手人を仕立てた

 → 「救うために200両調達せよ」(浜松藩)
 
 → 63軒で200両を作った


 村人 ~ 土中で陰まつり (紛失)

  ↓

 米津浜の自浜が狭いのは難破船を恐れて浜の権利を譲った
(漂着物届出の義務を避けるため)



□昭和29年10月6日 市史編纂室 
   
 馬渕紫陽
  「米津地蔵由来記」「夢枕」




□昭和33年10月

 渥美実「土のいろ」に




□松島町でも同様のことが‥

 寛政12(1799)年正月

※ 紀州船が松嶋村の海岸に漂着した際,荷物を内分にて処理したという理由で庄屋,組頭,百姓代の三人が江戸に送られ,米津のように亡くなっている。  

           |

しかし,松嶋村ではすでに風化してしまっている




□新津小元校長(昭和16~19)

 阿部一夫先生のみ賛同

 「君,調べた物があるなら書物を村中に配ろう」

  → 「米津の江戸送り地蔵」小冊子を450戸全戸に




□昭和48(1973)年8月13日

 寺施餓鬼の後
   御遺族,阿部一夫氏とほんの数人で…


「江戸送り地蔵尊二百年祭」
第14世磯谷光山師 地蔵尊小祠の前で



□昭和55(1980)年春 篤志家…太田泰次氏により地蔵堂が建立

平成13年より8月24日に近い日曜日に開催



昭和56(1981)年 「劇団たんぽぽ」の小百合葉子さんが劇化






◇米津の御台場

□昭和34(1959)年6月18日 浜松市指定史跡「米津台場跡」



□安政3(1856)年浜松城主・井上河内守正直が三基建立

 幕末には全国で一千か所も御台場が築かれた 
 
 米津に三つの史跡 台場跡 現台場跡の東西150mのところ 

当時 高さ27m  海への前面には石積み(大知波村の石)

内部に砲弾・砲弾を貯蔵する穴蔵 後方は円形



□砲弾 
 
 米津庄屋 鳥居太郎左右衛門家の大威助氏が新津小に寄贈


 → 平成5年7月 浜松市博物館より里帰り - 新津小校長室に現存


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