「私塾の研究」童門冬二 PHP文庫 1993年 ③ /「昭和30年代」 塩田潮 平凡社新書 2007年 ①【再掲載 2013.2】 [読書記録 教育]
今回は、1月30日に続いて、童門冬二さんの
「私塾の研究」3回目の紹介です。
出版社の案内には
「松下村塾、適々塾、藤樹書院など、江戸期の私塾からは有能な人材が輩出し、近代日本
をつくる大きな原動力となった。なぜ若者は私塾にひかれ、いったいそこでどんな教育
が行なわれたのか。本書は全国の著名な私塾20カ所を取材し、当時の状況を詳しく解
説した。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「自分にも他人にも厳しかった師 腐敗の中の孤独な誇り 大塩平八郎」
・「お米のやりくり・心のやりくり モットー「井戸端で交わす言葉で教える」石田梅岩」
「梅岩は士農工商を横のつながりと考える = 役割分担」
・「水野忠邦に対する評価 人間における分断評価 - 褒める所とけなす所」
・「『日本外史』の頼山陽はもと登校拒否児 5年間の座敷牢生活」
もう一つ、再掲載となりますが、塩田潮さんの
「昭和30年代」①を載せます。
わたしが生まれた昭和30年代、ほとんど皆が貧しかった頃の生活を思い出します。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「私塾の研究」童門冬二 PHP文庫 1993年 ③
◇洗心洞(大阪市)
救済の狼煙をあげた大塩平八郎の私塾
大阪市北区新川町
庶民に目を向けた英雄
知行合一
自分にも他人にも厳しかった師
腐敗の中の孤独な誇り
隠居生活 東町奉行
→ 反乱
◇心学塾(京都市)
商人の心を変えた石田梅岩の人の道
石田梅岩の掛行灯
人の道と心の倹約
黒柳呉服店の番頭
教えた人から学ぶ人間学
人間の心の持ち方を教えた
ただ一人の聞き手を相手に
お米のやりくり・心のやりくり
モットー
「井戸端で交わす言葉で教える」
商人の主人は客である
士農工商 - 儒学の教え
石田の史跡
梅岩は士農工商を横のつながりと考える = 役割分担
「自分は梅岩先生の弟子だ」と称した人はたくさんいる
手嶋堵庵 「道話」を初めて心学を普及
鳥野辺
亀岡に生家
反逆者の町 明智光秀・大本教
亀岡市東別院町 東懸村
生涯独身
◇青藍舎(茨城県水戸市)
枠組みを破る藤田東湖の婆娑羅精神
国中から若者を集めた藤田東湖
東湖「尊王攘夷論」
- 「正気歌」「常陸帯」「回天詩歌」
水戸っぽ
- 頑固で意地っ張り
日本の若者の場作り
東湖はタテ社会をヨコ社会に変えた
弘道館と東湖の史跡
朝文夕武の法
卒業制度作らず
農村一揆に味方した父・幽谷
東湖の複眼の思想
1827年1月 彰考館入り
斉昭を藩主に擁立
水野忠邦に対する評価
人間における分断評価 - 褒める所とけなす所
藩士ではなく日本の志士になれ
西郷隆盛 スパイ役
1855年10月2日江戸大地震にて圧死
◇山紫水明処(京都市)
志士を導いた「日本外史」の頼山陽
人の痛みの分かる師
細川重賢 「よき師は国の名大工だ」
藩校 時習館 - 痛みの原体験
「日本外史」の頼山陽
もと登校拒否児
学者の多い家 父・春水 三男・春風 四男も
三頼
内向的問題児とその母
頼春水
→ 大阪・懐徳堂 1870.12.27山陽(久太郎)誕生 母・しづ子
藩校でいじめられっ子
仏からオニへ = 母親急変
座敷牢の中の教育
20歳で15歳の娘と結婚
父は山陽を狂人として廃婚した
甥を跡継ぎに
↓
母親
「思い通りに育ててよいか」
「座敷牢で一人でお暮らしなさい。面倒はわたしが見ます。」
↓
山陽
生き生きとしてきた → 「日本外史」
誘惑の中にあって勉学心を保つ
5年後座敷牢を解かれた
→ 菅茶山の簾塾へ
脱走 → 出張教授
☆「昭和30年代」 塩田潮 平凡社新書 2007年 ①【再掲載 2013.2】
<出版社の案内>
1955年体制の確立に始まり、東京オリンピックと池田勇人首相の退陣で幕を閉じた昭和30
年代。日本はその十年で世界中が驚く成長と飛躍を遂げた。この時代を動かしたエネルギ
ーの源は、豊かさへの強い欲求と、共通目標に向かう人々の連帯意識の高まりであった。
「成長と飛躍」を生み出した数々の実験と挑戦を人物のドラマを通して探る戦後史ノンフ
ィクション。
◇昭和34年春の4つの出来事
□1955年体制
昭和30.11.15
自由民主党 対 左右社会党の統一
□もはや戦後ではない
植木等と石原兄弟 S31.1芥川賞
□ピークの昭和39年
池田勇人の広島演説 - 「所得倍増」
□ミッチーブーム
東海道新幹線起工式
東京オリンピック招致決定 - 東龍太郎都知事1959年
□黄金の1960年代
対決の岸
→ 寛容と忍耐の池田 = 経済にシフト
「黄金時代」の4つの代表選手
昭和34年
① 池田所得倍増論
② 皇太子成婚
③ 東海道新幹線起工
④ 東京オリンピック招致
◇池田勇人の選択 所得倍増という実験
□月給二倍論
→ 「月給二倍」から「所得倍増」へ
中山伊知郎の賃金倍提唱
□2つの所得倍増プラン
不運から強運へ
池田前半生は不運 しかし、当選一回で蔵相
□所得倍増政策の産みの親
下村治 マルクス経済学では説明がつかない
□下村と「在庫論争」
高橋亀吉
→ 木曜会の「七人の侍」経済で日本を変える
◇プリンス明仁の恋 -「心の師」小泉信三
□「皇室に新しい血を」
小泉信三(東宮職御教育参与)
□軽井沢のテニス
S33.7.23葉山
天皇は2人の結婚に同意
□「仲人役」小泉信三
テニス仲間郁沃会 8.15天皇のゴーサイン
東宮職御教育参与 小泉信三 S21.4.1~
S20.5.25 空襲で顔面と右手に大やけど 6ヶ月入院
※ 両まぶたは動かなくなった → 寝るときは手ぬぐいで目隠し
近代経済学の立場からマルクス批判
→ スター学者 昭和天皇が小泉を望む
昭和天皇は皇太子を小泉の手に託した
□「アメリカの民主主義」に負けた
小泉信三 明治21.5.4 芝区三田生
父・信吉 紀州藩下級武士 → 明治20慶應義塾塾長
6歳で父を失う → 母親共々諭吉に引き取られ邸に移り住む
大卒後、独・英に3年余留学 → 27歳で慶大教授
昭和8年 45歳で塾長
□皇室にとっての羅針盤
文部大臣を蹴って東宮職御教育参与に就任
S22.4.27 初めて皇太子と会った
◎ 戦争で一人息子の小泉信吉を失い、自身も重傷を負いながら、なお無私の心で皇室
に尽くそうとした
整えられた結婚 恋愛結婚問題
小泉信三「恋愛ではないがアレンジド・マレッジだ」
菊のカーテンの向こう側
学習院・常磐会の反対 → 婚約成立後は「美智子妃いじめ」
美智子妃の「心の師」
「私塾の研究」3回目の紹介です。
出版社の案内には
「松下村塾、適々塾、藤樹書院など、江戸期の私塾からは有能な人材が輩出し、近代日本
をつくる大きな原動力となった。なぜ若者は私塾にひかれ、いったいそこでどんな教育
が行なわれたのか。本書は全国の著名な私塾20カ所を取材し、当時の状況を詳しく解
説した。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「自分にも他人にも厳しかった師 腐敗の中の孤独な誇り 大塩平八郎」
・「お米のやりくり・心のやりくり モットー「井戸端で交わす言葉で教える」石田梅岩」
「梅岩は士農工商を横のつながりと考える = 役割分担」
・「水野忠邦に対する評価 人間における分断評価 - 褒める所とけなす所」
・「『日本外史』の頼山陽はもと登校拒否児 5年間の座敷牢生活」
もう一つ、再掲載となりますが、塩田潮さんの
「昭和30年代」①を載せます。
わたしが生まれた昭和30年代、ほとんど皆が貧しかった頃の生活を思い出します。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「私塾の研究」童門冬二 PHP文庫 1993年 ③
◇洗心洞(大阪市)
救済の狼煙をあげた大塩平八郎の私塾
大阪市北区新川町
庶民に目を向けた英雄
知行合一
自分にも他人にも厳しかった師
腐敗の中の孤独な誇り
隠居生活 東町奉行
→ 反乱
◇心学塾(京都市)
商人の心を変えた石田梅岩の人の道
石田梅岩の掛行灯
人の道と心の倹約
黒柳呉服店の番頭
教えた人から学ぶ人間学
人間の心の持ち方を教えた
ただ一人の聞き手を相手に
お米のやりくり・心のやりくり
モットー
「井戸端で交わす言葉で教える」
商人の主人は客である
士農工商 - 儒学の教え
石田の史跡
梅岩は士農工商を横のつながりと考える = 役割分担
「自分は梅岩先生の弟子だ」と称した人はたくさんいる
手嶋堵庵 「道話」を初めて心学を普及
鳥野辺
亀岡に生家
反逆者の町 明智光秀・大本教
亀岡市東別院町 東懸村
生涯独身
◇青藍舎(茨城県水戸市)
枠組みを破る藤田東湖の婆娑羅精神
国中から若者を集めた藤田東湖
東湖「尊王攘夷論」
- 「正気歌」「常陸帯」「回天詩歌」
水戸っぽ
- 頑固で意地っ張り
日本の若者の場作り
東湖はタテ社会をヨコ社会に変えた
弘道館と東湖の史跡
朝文夕武の法
卒業制度作らず
農村一揆に味方した父・幽谷
東湖の複眼の思想
1827年1月 彰考館入り
斉昭を藩主に擁立
水野忠邦に対する評価
人間における分断評価 - 褒める所とけなす所
藩士ではなく日本の志士になれ
西郷隆盛 スパイ役
1855年10月2日江戸大地震にて圧死
◇山紫水明処(京都市)
志士を導いた「日本外史」の頼山陽
人の痛みの分かる師
細川重賢 「よき師は国の名大工だ」
藩校 時習館 - 痛みの原体験
「日本外史」の頼山陽
もと登校拒否児
学者の多い家 父・春水 三男・春風 四男も
三頼
内向的問題児とその母
頼春水
→ 大阪・懐徳堂 1870.12.27山陽(久太郎)誕生 母・しづ子
藩校でいじめられっ子
仏からオニへ = 母親急変
座敷牢の中の教育
20歳で15歳の娘と結婚
父は山陽を狂人として廃婚した
甥を跡継ぎに
↓
母親
「思い通りに育ててよいか」
「座敷牢で一人でお暮らしなさい。面倒はわたしが見ます。」
↓
山陽
生き生きとしてきた → 「日本外史」
誘惑の中にあって勉学心を保つ
5年後座敷牢を解かれた
→ 菅茶山の簾塾へ
脱走 → 出張教授
☆「昭和30年代」 塩田潮 平凡社新書 2007年 ①【再掲載 2013.2】
<出版社の案内>
1955年体制の確立に始まり、東京オリンピックと池田勇人首相の退陣で幕を閉じた昭和30
年代。日本はその十年で世界中が驚く成長と飛躍を遂げた。この時代を動かしたエネルギ
ーの源は、豊かさへの強い欲求と、共通目標に向かう人々の連帯意識の高まりであった。
「成長と飛躍」を生み出した数々の実験と挑戦を人物のドラマを通して探る戦後史ノンフ
ィクション。
◇昭和34年春の4つの出来事
□1955年体制
昭和30.11.15
自由民主党 対 左右社会党の統一
□もはや戦後ではない
植木等と石原兄弟 S31.1芥川賞
□ピークの昭和39年
池田勇人の広島演説 - 「所得倍増」
□ミッチーブーム
東海道新幹線起工式
東京オリンピック招致決定 - 東龍太郎都知事1959年
□黄金の1960年代
対決の岸
→ 寛容と忍耐の池田 = 経済にシフト
「黄金時代」の4つの代表選手
昭和34年
① 池田所得倍増論
② 皇太子成婚
③ 東海道新幹線起工
④ 東京オリンピック招致
◇池田勇人の選択 所得倍増という実験
□月給二倍論
→ 「月給二倍」から「所得倍増」へ
中山伊知郎の賃金倍提唱
□2つの所得倍増プラン
不運から強運へ
池田前半生は不運 しかし、当選一回で蔵相
□所得倍増政策の産みの親
下村治 マルクス経済学では説明がつかない
□下村と「在庫論争」
高橋亀吉
→ 木曜会の「七人の侍」経済で日本を変える
◇プリンス明仁の恋 -「心の師」小泉信三
□「皇室に新しい血を」
小泉信三(東宮職御教育参与)
□軽井沢のテニス
S33.7.23葉山
天皇は2人の結婚に同意
□「仲人役」小泉信三
テニス仲間郁沃会 8.15天皇のゴーサイン
東宮職御教育参与 小泉信三 S21.4.1~
S20.5.25 空襲で顔面と右手に大やけど 6ヶ月入院
※ 両まぶたは動かなくなった → 寝るときは手ぬぐいで目隠し
近代経済学の立場からマルクス批判
→ スター学者 昭和天皇が小泉を望む
昭和天皇は皇太子を小泉の手に託した
□「アメリカの民主主義」に負けた
小泉信三 明治21.5.4 芝区三田生
父・信吉 紀州藩下級武士 → 明治20慶應義塾塾長
6歳で父を失う → 母親共々諭吉に引き取られ邸に移り住む
大卒後、独・英に3年余留学 → 27歳で慶大教授
昭和8年 45歳で塾長
□皇室にとっての羅針盤
文部大臣を蹴って東宮職御教育参与に就任
S22.4.27 初めて皇太子と会った
◎ 戦争で一人息子の小泉信吉を失い、自身も重傷を負いながら、なお無私の心で皇室
に尽くそうとした
整えられた結婚 恋愛結婚問題
小泉信三「恋愛ではないがアレンジド・マレッジだ」
菊のカーテンの向こう側
学習院・常磐会の反対 → 婚約成立後は「美智子妃いじめ」
美智子妃の「心の師」