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ふえる一方の不登校をどうとらえるか 「決断を次回送りにのばす悪癖の背景に」- 分かっていて動きのとれない、という心理- 伊藤友宣(神戸心療親子研究室・主宰) ① / 新津の伝説② 「強力勘右衛門」 浜松市神田町 【再掲載 2014.3】 [読書記録 教育]

今回は、伊藤友宣さんの
「ふえる一方の不登校をどうとらえるか」を紹介します。



出典、年度は不明ですが、平成14、15年頃の月刊「少年育成」誌ではないかと思われます。


不登校に悩んでいる子ども、保護者はまだまだ多く感じます。
難しい課題です。




もう一つ、再掲載となりますが、伝説「強力勘右衛門」を載せます。
今月オープンした、現在うなぎパイで知られる春華堂の「スイーツバンク」がある、
神田町にこのようなのんびりと感じる話が残っています。




<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト







ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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  ものづくりのまちとも言われる浜松。
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☆ふえる一方の不登校をどうとらえるか 「決断を次回送りにのばす悪癖の背景に」- 分かっていて動きのとれない、という心理- 伊藤友宣(神戸心療親子研究室・主宰) ① 


◇三十年来、ふえる一方である

 病気欠席でもなく、家庭によんどころない事情があるわけでもなくて、なんだか意味不
明のまま長く学校へ出て来なくなっているのを、以前は「登校拒否」と呼んでいましたが、
最近はもっぱら「不登校」と称されて、今では子どもの問題の代表と目される程に、一般
にありふれた現象となっています。



 ほぼ三十年前に、「登校拒否」(平井信義著)が公刊されたのが、世間にこの語のひろ
まった最初です。

 米語のスクール・フォビアが、これを直訳すれば「学校恐怖」ですが、わが国では「登
校拒否」と名づけられ、その当時は、全国で何千人にも昇るかも知れないと教育心理学な
どの研究課題になりはじめたのでした。


 それが年々ふえる一方で、その後の国の統計では、三十日以上意味不明で長期欠席する
のを「登校拒否」と見なして、発表される数が三万人になった、いや五万人になったと見
る間に、平成十三年には、十三万人と報告される次第です。


 世間では、病原菌の発見されない奇病が、なす術もなく子どもを襲っているとでも思われているふしもある程、正体不明と取り扱われがちなのですね。


 ですが、決して正体不明の難病などではありません。これは、子ども自体の個々の問題
と見る以上に、世の中全般の不用意な歪みのしわ寄せと見るべきでしょう。


 私は、町の中の小さなカウンセリング・ルームを開いて二十七年になります。わが子が
気になると訴えて相談来所なさる、主に母親との出会いを重ね続けて来ましたが、その中
に親が全く訳が分からなくて、学校にどうしても行ってくれないのですと嘆く例がちょく
ちょくあらわれはじめた時、直接家庭訪問して子どもに会っても、いわゆるよい子で、家
庭や親の様子も、家にこもりきりの子ども自体にも、とりたてて問題があるようには見え
ない。


 これは一体何だろうと首をかしげたものでした。





◇時代の変容に、心が取り残される

 思えば、私が今のカウンセリング・ルームを開く前の、ほぼ三十年昔迄は、(私自身は
それまでの十数年間は、親が育てられない事情にある子どもを、集団的な収容形態の養護
施設に代ってわが家で育てたいと志す里親をふやそうという、家庭養護促進の民間活動に
加わっていたのですが)子どもの問題といえば、両親あるいは片親の欠損とか、不運な事
態での家計の窮乏とかの、いわば家庭環境が整わないための止むを得ない長期欠席を問題
としていた訳です。


 それが,病気でもなく家庭が経済的に逼迫している訳でもなくて、子どもが何が問題だ
と訴えもしない、なのに、子どもなら文句なく駈けだしていく筈の学校には、明日は行く
と約束しながら、親や先生の気がかりをよそに、今日も又、朝にはいっかな動こうとしな
い。


 これは何だろうと、いぶかって子に問いただしても「何もないよ。だから明日から行く」
とそっけない返事がかえってくるばかり。


 で、やっぱり翌朝には、押しても突いても行こうとはしない。


 これはなんだろう、と大人はだれもみな首をかしげるしかないのです。


 それまでは、いいえ、多分にいまだにそうなのですが、子どもは文句なく、特に小中学
校なんて、みんな行ってるから自分も行くのが当り前とばかりに連れ立って元気に出て行
くものとされていて、もし行きしぶる子がいると、熱でもあるのであれば無理させること
はないや、とか、家の事情でどうにも行かせられない時には、親が、仕方なく学故に連絡
して休ませるものだという以上にむずかしく考えてはいないものなのですね。


 さしたる理由もなく動きの悪い子なんて、親が強く叱って、大人の圧力や指導力で強引
に行かせてしまえばいい、と、まあ、子どものことは深刻に考えないのが一般です。


 つまり、子はみんな連れ立って学校に行くのが当り前、行こうとしない子があれば、親
の権力で取りあえず行かせときゃいい、と、それでやって来たのですね、これまでずっと。


 それが、こんな風に三十年来、長く休み続ける子がふえる一方である。「なになのだ?」
と、世間の首のかしげ方は一向に変らないまま、その呼び名も、「登校拒否」が「不登校」
に、いつ変ったのだか、なぜ変ったのかもよく様子が分からないで、何もかも曖昧なので
すね。



 世界がどんどん変っている。


 電子機器の目まぐるしい変容で、人の行き来から、携帯の日常化、IT産業、流通、経
済の構造のすべてのありようを根底から日に日に動かし続けている時代ですのに、子ども
の暮しをめぐる学校なり家庭なり地域環境に停滞している、人の心のありようについては、
あまりにも旧態依然たる理解の程度でありすぎるわけです。





◇知力体力共に優秀な子の不登校の例

 加藤春作(高一)(仮名)の親が、弱り切って、私のところへ相談にきた時点では、と
びとびに三十余日休んでいて、科目によればそろそろ時間数が足りなくなると学校から通
告を受けている、とのことでした。


 明日は行く、と力み、月曜からは絶対に、と繰り返し約束し、結局は次の日もその次の
日も、朝になると人が変ったように動きがとれない。小中学では学業もスポーツも、親が
気になるような出来では全くなかった。


 それが神戸の学区制の高校群の中の二番手の高校に入らざるを得なかったのは、中一の
終り頃から、意欲不振もいいところで、低迷した故である。


 という親の話を聞いて、本人を私のところへ来所させるようにすすめたのでした。


 四回目の来所時に親が当人を伴って来ました。


 ほとんどの例では、不登校に入ってしまっている当人が、私のところなどへ容易には来
たがりません。


 春作は、親から、私が提案した勧め方を、再三再四聞かされた上で、来る気になったよ
うです。


 子を来所する気にさせる勧め方のポイントは、後にくわしく述べます。


 やる気がこれほどなくなったのはなぜだか分からない。


 自分が不登校に陥るなんて考えもしなかったことだと、ボツリポツリとながらの当人の
述懐をはさみながら、重い口は無理には開かせずに、私が主にしゃべります。












☆新津の伝説② 「強力勘右衛門」 浜松市神田町 【再掲載 2014.3】


 浜松市の南部にある浜松市神田町は、昔は明神野(みょうじの)という村の名前だった。


 その頃この村に、一人の浪人が往んで居た。


 この人は本名を、岡田勘右衛門と言ったが、またの名を、「強力勘右衛門」ともいわれ
ていて、それは非常な力持ちだったからである。



 勘右衛門はある時、これも力自慢の家来を一人連れて、京都へと旅して行った。


 すると、その日、京都では、蓮華王院の本堂の、三十三間堂を建てるために、棟木をあ
げているところだった。


 ところがその棟木の重いこと、何十人という人が集って持ち上けても、なかなかに動く
ものてはなかった。


 勘右衛門はそれを見ると、つかつかと歩みよって、


「拙者等が、お手伝い申さん」


と、人々が驚く間に、家来の男に目くばせして、二人して、棟木を軽々と持ち上げ、屋根
の上まで上げてしまった。


 見ていた人達はびっくりして、


 「あれはきっと、人間ではないだろう。何か仏様のご化身だろう」


という程だった。



 強力勘右衛門はこの他、各地でその強力を発揮して、いよいよ人々を驚かせたとにいう
ことである。


 それ程、勘右衛門は力持ちだったのである。


 今も神田町の岡田家には、勘右衛門が昔、力だめしに使ったという、大きな石が残って
いる。


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