小浜逸郎さんはこんなことを⑨-「14歳 日本の子どもの謎」イースト・ブック 1997年 (3) /「遠江の里」ひくまの出版 1979年 ②【再掲載 2014.8】 [読書記録 教育]
今回は、11月27日に続いて、
「小浜逸郎さんはこんなことを」9回目、
「14歳 日本の子どもの謎」3回目の紹介です。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「『性に目覚めるころ』の危うさ」
・「近代以降、労働現場と家庭が切り離され、学校という特別な場ができ、子供が囲い込
まれた。」
・「通過儀礼が教育課程に置き換えられたことで,大人と子供の境界が曖昧になり,本当
に大人になったと思える時期が無期延期される。」
・「第三次産業(サービス業)中心の社会になったことが、大人になったと思える時期の
無限延期や,大人であることの確信の得られなさにつながった。三次産業は扱いにく い対象である『ひと』が相手だから」
もう一つ、再掲載となりますが、ひくまの出版の
「遠江の里」②を載せます。
地域の歴史を知ろうとすることは楽しいことです。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆小浜逸郎さんはこんなことを⑨-「14歳 日本の子どもの謎」イースト・ブック 1997年 (3)
◇「性に目覚めるころ」の危うさ①
□子供はいつから「未熟で保護と育成を必要とされる存在」になったのか
「大人-子供」関係の枠組み 経緯と意味
近代以前の通過儀礼
元服・若者宿,娘宿
= 上からの強制力
↓
近代以降
① 労働現場と家庭が切り離される
② 学校という特別な場ができる
↓
◎子供囲い込み
「未熟で保護と育成を必要とされる存在」
∥
◎親や教師がクローズアップ
= 子供は外側へ飛び出しにくくなる
□「子供」とも「大人」とも呼べない「ヘンな存在」
近代以前
◎適当に遊ばせておいて幼年期を脱するくらいになると早々に大人の労働に参加させた
↓
近代以降
◎「子供」を「子供」として意識的に見るようになり次第に繊細な視線を注ぐようにな
る
|
◎教育への関心が高くなる
- 細かく区分
|
◎教育課程が長くなる
※ 子供はいったいいつになれば自分が大人になるのか分からなくなってきた
∥
※ 通過儀礼が教育課程に置き換えられたことで,大人と子供の境界が曖昧になり,
本当に大人になったと思える時期が無期延期される。
□ 大人になったと思える時期の無限延期や,大人であることの確信の得られなさには
それなりの理由がある。
↑
◎産業構造の変化
※第三次産業(サービス業)中心の社会になったから
第一次産業 自然相手 一人前のイメージ
第二次産業 モノ相手
∥
◎個人の扱う対象・作業がはっきりしているので,自分の仕事に自信が持てる
↑↓
◎三次産業 「ひと」相手 扱いにくい対象
☆「遠江の里」ひくまの出版 1979年 ②【再掲載 2014.8】
◇野と人と 那須田稔
<三方原合戦>
□元亀3(1572)年10月
武田信玄
元亀3(1572)年10月
犬居城に入る(京を目指す大進撃)
もう一軍は気賀から井伊谷へ
家康の部下・懸城の石川家成、高天神城の小笠原長忠
信玄は懸城、高天神城をそのままにして突然森、袋井、磐田
↑
徳川家康
あわてて磐田見附に出陣
三箇野から一言坂へと退却に次ぐ退却
□元亀3(1572)年12月
武田信玄
二俣城が信玄の手に墜ちる
信玄軍は南進
有玉 → 西へ 追分で全軍統一
→ 北進 根洗松 → 礼田の坂で軍を留めた
徳川家康
浜松城を無視して京へ向かう信玄に腹を立てる
・信長の意見も退けて出陣
◎三方ヶ原の戦い
<徳川家康軍> VS <武田信玄軍>
1万騎 3万騎
31歳 52歳
鶴翼の陣 魚鱗の陣
↓
◎家康軍総崩れ
家康は浜松城に逃げ帰り全門を開けて篝火を焚き大太鼓
↑ 大太鼓・酒井忠次「酒井の大太鼓」
↑ 太鼓は見付学校→磐田北小→見付天神社
信玄は奇計をおそれて引き返す
家康は百人の陣で犀ケ崖に奇襲
信玄軍兵、驚きあわてて崖の谷に墜ちる
犀ケ崖 深さ40m幅50m長さ2㎞
現在 宗円堂
◇掘留川 亘理宏
掘留運河
井ノ田川掘割850間=1.5㎞
悪水堀 ~ 田の灌漑用悪水放出用水路
|
田尻排水路
次計池(現体育センター北)
明治4年開通 田圃の中を蒸気船が行く
掘割事業 村人が無給奉仕
↑
井上氏 運河経営者となる
明治14年浜名橋
明治20年 東海道線開通 → 衰退
菅原町 ~ 浜二塗料わき
伊場道路橋下
田尻からの悪水と合する出会いの場所
→ 共に入野へと悪水は「悪水堀」
◇大刀洗池のことなど 平松實
東京大学・高柳光寿博士
昭和36(1961)年 週刊朝日に「家康史跡の物語」
大刀洗池
コンクリートで市会議長に壊される
→ 揮毫・高柳博士 昭和39(1964)年12月
◇築山殿月窟廟の再興 大澤稔
高松山西来院(浜松市広沢)
昭和51(1971)年多額の寄付を一女性が
→ 家康の命によって命を絶った野中三五郎重政燈籠奉献
「小浜逸郎さんはこんなことを」9回目、
「14歳 日本の子どもの謎」3回目の紹介です。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「『性に目覚めるころ』の危うさ」
・「近代以降、労働現場と家庭が切り離され、学校という特別な場ができ、子供が囲い込
まれた。」
・「通過儀礼が教育課程に置き換えられたことで,大人と子供の境界が曖昧になり,本当
に大人になったと思える時期が無期延期される。」
・「第三次産業(サービス業)中心の社会になったことが、大人になったと思える時期の
無限延期や,大人であることの確信の得られなさにつながった。三次産業は扱いにく い対象である『ひと』が相手だから」
もう一つ、再掲載となりますが、ひくまの出版の
「遠江の里」②を載せます。
地域の歴史を知ろうとすることは楽しいことです。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆小浜逸郎さんはこんなことを⑨-「14歳 日本の子どもの謎」イースト・ブック 1997年 (3)
◇「性に目覚めるころ」の危うさ①
□子供はいつから「未熟で保護と育成を必要とされる存在」になったのか
「大人-子供」関係の枠組み 経緯と意味
近代以前の通過儀礼
元服・若者宿,娘宿
= 上からの強制力
↓
近代以降
① 労働現場と家庭が切り離される
② 学校という特別な場ができる
↓
◎子供囲い込み
「未熟で保護と育成を必要とされる存在」
∥
◎親や教師がクローズアップ
= 子供は外側へ飛び出しにくくなる
□「子供」とも「大人」とも呼べない「ヘンな存在」
近代以前
◎適当に遊ばせておいて幼年期を脱するくらいになると早々に大人の労働に参加させた
↓
近代以降
◎「子供」を「子供」として意識的に見るようになり次第に繊細な視線を注ぐようにな
る
|
◎教育への関心が高くなる
- 細かく区分
|
◎教育課程が長くなる
※ 子供はいったいいつになれば自分が大人になるのか分からなくなってきた
∥
※ 通過儀礼が教育課程に置き換えられたことで,大人と子供の境界が曖昧になり,
本当に大人になったと思える時期が無期延期される。
□ 大人になったと思える時期の無限延期や,大人であることの確信の得られなさには
それなりの理由がある。
↑
◎産業構造の変化
※第三次産業(サービス業)中心の社会になったから
第一次産業 自然相手 一人前のイメージ
第二次産業 モノ相手
∥
◎個人の扱う対象・作業がはっきりしているので,自分の仕事に自信が持てる
↑↓
◎三次産業 「ひと」相手 扱いにくい対象
☆「遠江の里」ひくまの出版 1979年 ②【再掲載 2014.8】
◇野と人と 那須田稔
<三方原合戦>
□元亀3(1572)年10月
武田信玄
元亀3(1572)年10月
犬居城に入る(京を目指す大進撃)
もう一軍は気賀から井伊谷へ
家康の部下・懸城の石川家成、高天神城の小笠原長忠
信玄は懸城、高天神城をそのままにして突然森、袋井、磐田
↑
徳川家康
あわてて磐田見附に出陣
三箇野から一言坂へと退却に次ぐ退却
□元亀3(1572)年12月
武田信玄
二俣城が信玄の手に墜ちる
信玄軍は南進
有玉 → 西へ 追分で全軍統一
→ 北進 根洗松 → 礼田の坂で軍を留めた
徳川家康
浜松城を無視して京へ向かう信玄に腹を立てる
・信長の意見も退けて出陣
◎三方ヶ原の戦い
<徳川家康軍> VS <武田信玄軍>
1万騎 3万騎
31歳 52歳
鶴翼の陣 魚鱗の陣
↓
◎家康軍総崩れ
家康は浜松城に逃げ帰り全門を開けて篝火を焚き大太鼓
↑ 大太鼓・酒井忠次「酒井の大太鼓」
↑ 太鼓は見付学校→磐田北小→見付天神社
信玄は奇計をおそれて引き返す
家康は百人の陣で犀ケ崖に奇襲
信玄軍兵、驚きあわてて崖の谷に墜ちる
犀ケ崖 深さ40m幅50m長さ2㎞
現在 宗円堂
◇掘留川 亘理宏
掘留運河
井ノ田川掘割850間=1.5㎞
悪水堀 ~ 田の灌漑用悪水放出用水路
|
田尻排水路
次計池(現体育センター北)
明治4年開通 田圃の中を蒸気船が行く
掘割事業 村人が無給奉仕
↑
井上氏 運河経営者となる
明治14年浜名橋
明治20年 東海道線開通 → 衰退
菅原町 ~ 浜二塗料わき
伊場道路橋下
田尻からの悪水と合する出会いの場所
→ 共に入野へと悪水は「悪水堀」
◇大刀洗池のことなど 平松實
東京大学・高柳光寿博士
昭和36(1961)年 週刊朝日に「家康史跡の物語」
大刀洗池
コンクリートで市会議長に壊される
→ 揮毫・高柳博士 昭和39(1964)年12月
◇築山殿月窟廟の再興 大澤稔
高松山西来院(浜松市広沢)
昭和51(1971)年多額の寄付を一女性が
→ 家康の命によって命を絶った野中三五郎重政燈籠奉献