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「新津地区愛称標識の由来」 1989年 ② /「時評 平成の教育1989-2000」下村哲夫 教育出版 2000年 ①【再掲載 2013.5】 [読書記録 郷土]

今回は、12月16日に続いて新津地区愛称標識設置委員会による
「新津地区愛称標識の由来」の紹介 2回目です。

今回は、新津地区(浜松市南部 海岸沿い)の冊子の内容を紹介します。


昭和63年から平成元年にかけて市内各地域で「愛称標識の由来」冊子が出されました。
歴史的な由来に基づいて設置された愛称標識を説明した冊子です。
その冊子が出されました。「ふるさと創生事業」に関連するのかとわたしは思っています。

その地域の歴史や産業などを知るのによい資料となるものです。
しかし、設置されて30年以上…。
近くにあった標識は朽ち、危険性のためかいつの間にか撤去されていました。
記入されている施設もだいぶ変わりました。
難しいことかもしれませんが、再整備されることを願っています。


前回の「地区名、町名の由来」に続いて、今回は「愛称標識の由来」についてです。






もう一つ、再掲載となりますが、下村哲夫さんの
「時評 平成の教育1989-2000」①を載せます。
学校週五日制が話題となっていた時代。
随分前になりますが長女が生まれた年でもあり、懐かしく思い出しました。
このころから様々な審議会・委員会がつくられたのことですが、
それがよいことなのかかえってよくないことなのか…。



<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

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 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
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☆「新津地区愛称標識の由来」 1989年 ②

◇愛称標識の由来①

1赤門東通り〔あかもんひがしどおり〕   (新橋町東)
  
 臨済宗方広寺派禅定山光勝院の東側の道で,北には西南部排水路(高塚川)に架かる二
建橋(にけんばし)があり、南は掛舞線(県道竜洋舞阪線)に通じる。

  
 このお寺の門は、昔から西の大通院の黒門に対して赤門と呼ばれてきたので、この 愛
称を付けた。


 初めて門が造られたのは、かなり古く、文正元年(1466年)といわれる。


 現在の門は近年再建された3代目のものである。 (光勝寺東 南北に走る)





2宮東通り〔みやひがしどおり〕       (新橋町東)

 親合神社(むつあいじんじゃ)の東側の道で、北には西南部排水路(高塚川)に架かる
東新橋があり、南は掛舞線に通じる。

 近くに大工場があり、朝夕の通勤の車がかなり多い道である、
  

 親合神社は、昔は八柱神社といわれてきたが、明治の終りごろ、いまの神明組の青年 
会館の辺りにあった神明宮を合祀してから、この名前に改められたという。


 また、近くの虚空蔵きまは、知恵福徳を授ける仏きまとして有名であり、例年2月13
日のお祭りの日は、特別なにぎわいを見せている。 (親合神社東 南北に走る)





3  妙典山〔みょうでんやま〕          (新橋町東)
  
 地家七軒島(じげしちけんじま)の地に、内山治郎大夫の元屋敷があり、そのなかに築
山があって、妙典様をまつる法要塔が建っている。


 地元では妙典山と親しみ呼ばれている。
  

 昔、この山に入って木を切った人があり、妙典様のたたりにあったとの言い伝えもあ 
るほど、神聖でけがれを嫌う場所として、代々守り伝えられてきた由緒ある土地である。
  

 内山家の本家治郎衛門家は代々大通院寺領の差配管理の家柄であり、妙典様という方は
本家11代目の分家から3代目に当たる治郎太夫政五郎のことである。


 政五郎は日本六十六州をめぐり、大乗妙典・僧都・法眼大和尚といわれた守山和尚その
人で、その生涯を仏に徹した高徳の名僧であった。

 この守山和尚は、文久2年(1862年)12 月107歳で大往生を遂げている。
                          (新橋町公民館前 東西を走る)





4  学校通り[がっこうどおり]         (新橋町東)

 この道路は、別名請願道路ともいって、地区住民の願いが実を結んだ新しい道である。


 新津連絡所跡地南から西へ小沢渡町住宅に通じる延長3、000mの間を、貫通した立派
な道路にしてほしいと、昭和32年8月に市に陳情し、30年代後半に完成したもので、以
後、当地区内の主要幹線道路となった。
  

 通称、新津校前通り線といわれてきたので、学校通りと名付けた。
(新津小前 東西に走る)




5  御台場通り[おだいばどおり]      (新橋町東)
  
 浜松西農協新津支店西側の道で、この付近から南へ向い、台場跡を通り米津の浜へ通じ
ている。


 昔からこの道は、海岸へ通じるメイン道路であった。
  

 この通りに沿った米津町地内には、幕末に日本の海岸に出没しはじめた黒船に備えて、
浜松藩主井上河内守正直が幕府の命を受け砲台を設置した台場跡がある。
  

 台場跡は現在高さ約10メートル、周囲約30メートルで、市の指定史跡になっている。
  

 また、昭和12年ごろ、この道は約15メートルぐらいに広げられた。


 軍隊が米津に高射砲の訓練場を造ったためである。


 当時、道路の拡幅調印にあたって、役場の前に国旗をたて、地主を集めてようかんをわ
けたとのこと。


 この高射砲の訓練場へ行くために広げられたので、一時高射砲通りともいわれた。


 このとき、東若林から新橋入口までは新道(しんみち)とも呼ばれた。                    (新津農協西 南北に走る)





6 大通院通り[だいつういんどおり]    (新橋町西)
  
 大通院は応永8年(1401年)、奥山方広寺無文和尚の三世の法孫、的伝一著(てきでん
いっちゃく)大和尚によって開創された臨済宗方広寺派の中本山である。
  

 かつては末寺を48寺も抱えた大きなお寺であったが、大正15年、不慮の火災により焼
失した。


 現在は黒門が、傍の「禁筆洒」の碑とともに往時をしのばせている。
  

 大通院の本殿は、現在の清明寮の敷地内にあったといわれる。


 ここから、掛舞線まで の通りを大通院通りと名付けた。 (新津小西 南北に走る)





7 学校通り〔がっこうどおり〕        (新橋町西)
  
 この通り沿いには新津小学校、中学校があり、朝夕には児童生徒たちでにぎわってるの
で学校通りと名付けた。





8 おきゃあら (水遊びの跡)
   〔おきゃあら(みずあそびのあと)〕          (新橋町西)
  
 可美村との境界をなす高塚川の辺りは、昔、一面の湿地帯で行き交う人が腰までつかっ
たり、ぶくぶくと沈んだりという所だったらしい。


 可美村方面へ出かけていく時は、わらを置いてその上を渡っていったという。
  

 その「置きわら」ということばがなまって、いつのまにか「おきゃあら」となったよ 
うである。
  
 60歳すぎの人たちにとっては、子どものころ、かっこうの遊び場であり、暑い時は 
水遊びに興じたり、ふな、こいなどをとったりしたものである。


 なお、お百姓はらっきょう、さといもなどを洗って、翌朝大八車で市場へ引いて出かけ
ていったという。


 現在は改修されて昔の面影はない。 (遠鉄ストア西 南北に走る)




9 西瓜山[すいかやま]            (新橋町西)
  
 昭和の初めころまでであろうか、ここは松林で、夏でもさわやかな涼風が吹きぬけてい
た。
  

 特産の西瓜をここで検査して出荷していた。


 西瓜を出しおわると、大勢のお百姓が車座になって談笑している風景がいつも見られた
ものである。
  

 それも農協活動が盛んになるにつれて、いつの間にかなくなってしまった。


 60歳過ぎの人たちにとっては昔なつかしい遊び場でもあった。
                       (旧下位ストア東 南北に走る)





10 大通院[だいつういん]           (新橋町西)
  
 現在の大通院は黒門の北にあり。近隣の善男善女が日曜日の早朝に集まり、お経をあげたり、茶飲み話をしている。














☆「時評 平成の教育1989-2000」下村哲夫 教育出版 2000年 ①【再掲載 2013.5】

<出版社の案内>
私たちは「不透明な時代」の過中にある。その中で、教育学、特に教育政策学を専攻して
きた者の一人が、戦中から戦後を通じての自らの教育体験を通じて、この教育改革の急速
な流れにどのような思いを抱いてきたかを「じひょう」の形で語ってきたのがこの本であ
る。

教育学、教育政策学を専攻する著者が、平成元年からの11年あまりにわたって、教育改
革の急速な流れ、折々の教育問題などを評したもの。『週刊教育プロ』での連載をまとめ
た。
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◇まえがき 

□急速な変容

「臨時教育審議会」 中曽根首相
1985(昭和60)年6月 臨教審第一次答申

1986(昭和61)年4月 臨教審第二次答申

1987(昭和62)年4月 臨教審第三次答申

8月 臨教審第四次答申



21世紀のための教育改革のための地ならし



中央教育審議会,教育課程審議会,大学設置・学校法人審議会
文部省教育改革推進会議

  ~ 様々な審議会・委員会



□「第15期中教審」
 
  不透明な時代の中で,教育学校の中で生きる子どもたちのため、「生きる力」と「ゆ
 とり」を標榜し,新学習指導要領作成



平成10年 学習指導要領の改訂
ロケットはいよいよ先行き「不透明な時代」に向かって飛び立つ



□「じひょう」平成元年~12年7月まで連載

 『週刊教育プロ』誌上




<平成元年-1989年> 

◇天皇をどう教えるか(1月)

 天皇 

 ① 大元帥陛下   現人神

 ② 国民統合の象徴 中年紳士



◎ 現憲法下の位置づけをしっかり教えておく必要がある


◎ 現天皇-戦後民主主義の中で「私たちの真ん中」象徴天皇
憲法第4条 国事行為のみ

 


◇世界の中の日本人(2月)

 新学習指導要領「世界の中の日本人」

憲法前文の精神をふまえて

 
「個性を生かす教育」の具現化



やる気のある生徒をどう集めるか


 新学力観 = 新しい学習指導要領の提起した学力観
 



◇五分と五分のやりとりを(3月)

 教科書検定の見直し

 - 教科書調査官の位置づけ・待遇・選考基準

 → 人を得るかどうかで検定規則に血が通う


 

◇教師ともあろうものが(4月)

 教師の不祥事件
「上好むところ下これに従う」

「濁しても盗泉の水を飲まず」

 
 附属小学校

  - 研究校実験校の原点に

  → 改革が必要 教員採用公募,公立との交流,異動,学区制


 

◇家庭訪問・指導要録・情報化(5月)

 家庭訪問と教育情報
家庭訪問で玄関先での立ち話が多くなった

プライバシーの問題
      指導要録の「特記事項なし」につながる

 


◇初任者研修制度の本格実施にのぞむ(6月)

教員の研修 平成元年本格実施

◎課題山積
   指導教員に適材を得ることができるかどうか

→ 大切なのは「教えすぎない」こと

・ 授業の基礎を教え相手にじっくり考えさせ疑問に答える
   筋道立てて答える
     
   ・ 教育観、子供観を初任者に押しつけない
      教えるものではなく感得するもの          

 


◇高校教務内規の見直しを(7月)

留年者のほとんどが中途退学
留年ボーダーライン 三教科九単位


 もともと高校は単位制が建前
= 留年したらその単位だけ履修すればよいはず



◎「救えるものは救う」追試や補習



単位制高校

 
 ◎ 教務内規の見直しに学校としての自主的な取り組みに期待する(下村)
 



◇「怠け者礼賛」の時代(8月)

夏休み雑感
「戦災で何もない昭和20年の夏休みは子供が最も子供らしくあり得たひととき」だった



◎「忙しいことがよいこと」の考え方にすっぱり清算

  → 怠け者の哲学を身につける時代

 


◇週休二日制と学校五日制は前輪と後輪(9月)

予定に上がった学校五日制 
   受け皿の検討


 学校五日制(教育問題)と週休二日制(勤務問題)



  ◎ 要は金勘定の問題

 
  ← ※ 教職員定数改善を嫌う政府当局は,当初から両者を連動して考えてきた

 


◇昭和であけ平成で暮れる(12月)

新学習指導要領の告示
  「各人各様の個性」

 
 日教組分裂 
   社会党系-連合に参加

  共産党系-全教結成-全労連

 
 登校拒否 4万人超

 
 高校中退11万人超
   大学入学資格検定出願者1万7千人

 
 家永裁判
   第二次却下 第三次一部勝訴

 
 リクルート事件

 
 11月20日「児童の権利条約」国連で可決

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