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「新津地区愛称標識の由来」 1989年 ⑤(最終) /「東京12チャンネル運動部の情熱」布施鋼治 集英社 2012年 ③【再掲載 2015.1】 [読書記録 郷土]

今回は、1月14日に続いて新津地区愛称標識設置委員会による
「新津地区愛称標識の由来」の紹介5回目 最終です。


浜松市の南部、海岸沿いの新津(しんづ)地区の、40か所に据えられた「愛称標識」の説
明が記された冊子です。
立てられてから20数年たち、木製のものは朽ちて、すでに撤去されています。
近くにもいくつか立てられていたのですが、確認に行ったところ、見つけられませんで
した。
標識がなくなっても、この冊子のおかげで地域のかつてのことを知ることができるのはあ
りがたいことです。
新津地区愛称標識設置委員会には感謝するのみです。
それでも、できれば、再設置していただきたい…。



浜松市立中央図書館のデジタルアーカイブによると(簡単に要約しました)、

「『「愛称標識』は、浜松市(旧)内それぞれの町の歴史的ないわれのある坂、道、橋、場
 所などを将来に伝えるため自治会連合会が設置しており、市全体では1300本超あると
 言われる。擬木(コンクリート製)のもの木製のもの2種がある。浜松市の設置事業は昭
 和57年度から始まり、平成10年まで行われた。それぞれの地区で愛称標識設置委員会
 を組織して取り組み、(旧)市内35、各地区ごとに各標識についての説明をまとめた冊
 子が作成された。」

とあります。



もう一つ、再掲載となりますが、布施鋼治さんの
「東京12チャンネル運動部の情熱」③を載せます。
系列局がなく、東京12チャンネルのほとんどの番組を観ることができませんでした。
「運動部の情熱」がぐっと迫ってくる本です。
10年も前に出版された本ですが、お薦めです。




<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。






☆「新津地区愛称標識の由来」 1989年 ⑤(最終)


◇愛称標識の由来(4)

31 かんのんみち[かんのんみち]     (田尻町)

 田尻町と神田町の境に権入橋(ごんいりばし)がある。

 ここから田園の中を北東へ向かう道である。大雨が降ると水たまりを渡って歩くような
低い道であり、中瀬・田代・畑田・十三石を経て、浅田町南端の埋葬墓地に至る。

 かつては、太子渕で知られている浄土真宗大谷派の光福寺(朝田幼堆園)前を通って、
新川の一番南の橋を渡ると龍禅寺の鐘楼が見えた。

 この龍禅寺に観音様が祭られていて、その参道だったため、かんのんみちと呼ばれた。
  
 龍禅寺は、例年8月の大祭には、広い境内が露店でいっぱいでて大にぎわいだった。ま
た、花火がこの辺りでは有名だったが、今は打上げる場所もない。
  
 道も、今は土地改良事業の完成に伴って姿を変え、昔をしのぶ跡もない。
(田尻橋近く)
<橋、道の大切さを改めて思います。>



32 幕免〔まこめん〕               (田尻町)
  
 昔、田尻町の南には、浜どい、中どい、幕免どいという3本の堤防があった。

 「どい」とは「どえ,土衛(どえい)」のことと思われる。
  
 幕免はこのあたりの地名で、およそ10軒位の住家があり、その家を含めて、中どいか
ら「はこばし(箱橋)」を挟んで幕免どいまでの10町歩をいう。
  
 地名の由来ははっきりしないが、昔の大名あるいは、代官、庄屋等に関係するのかも
しれない。いずれにせよ、郷愁をさそう名称である。
  
 今は土地改良のため、大きく様変りしている。「はこばし」は都市計画道路建設に伴
い改修され、面影を一新している。     (田尻橋南)

<「どい」、わたしが子どもの頃まで3本とも残っていましたが、今はわずかに一本残る
 のみです。「どい」という言葉を知っている人も少なくなりました。>

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【浜に近いどい(倉松町) 道整備の工事中】


33 前堤南方は根本明〔まんどえなんぽうはねんみょう〕 (法枝町)
  
「まんどえ」と言い慣らしたこの道は、周囲より少し高い、いかにもどっしりした道だっ
た。

 とんぼとりにかけっこに子どもたちには遊びの場だったし、大人たちには大切な農道で
あった。幹線でないこうした道に、その時その時の生活が展開され、いろいろな情感が染
み込むにちがいない。そんな期待をこめて標識をたてることにした。
  
 この道の南は見渡す限りの水田で根本明とよばれた。湧水や溜池が田をうるおし、夜ぼ
りなど,絶好の雑魚とり場だった。      (牧野石油 南)

<今の県立浜松南高校あたりでしょうか>



34 樋の口 (といのくち)      (法枝町)

 昔は、現在の馬込川が天竜川の本流であり、河口付近の白羽湊や田尻湊から、この辺り
まで舟で荷を運んだ。
  
 主に肥料にするための「まこも」が積荷だったという。法枝の入口ということからつい
た名前だが,北と南の境という生活意識もあったようだ。
(寿司正 近辺)

<江戸時代堤防をつくったため流れが変わり田尻湊がお上に訴えたという話もあります。
 田尻湊の正確な位置は分かっていないとのことですが、ぜひ見つけてほしい…見つけた
 い…>



35 サザンカ通り〔きざんかどおり〕   (卸本町)

「花のない時期に花を楽しんでもらおう」とする修景施設と、浜松まつり、凧揚げ会場へ
の観光客誘導道路の2つを目的として市道新橋江之島線の整備が行われており、リバテイ
・ライオンズクラブから寄付きれたサザンカを道路沿いに植え、通行する人々の目を楽し
ませている。
  
 地域でもこの通りを大切に守り育てようと、「サザンカ通り」の愛称標識を立てること
とした。 (米津海岸近くの通り)

<国道1号線の南側、それこそ海岸沿いの道です(土手があるため海を見ることはできま
 せんが)。信号が少なく、気持ちよく走れますが、スピードが出てしまうので気をつけ
 たい道です。>




36 薬師様〔やくしきま〕      (小沢渡町 =こざわたりちょう)

 掛舞線東小沢渡バス停の横に、遠江49薬師第16番薬師堂の碑が建っている。

 そこから北に入ると薬師堂がある。
  
 慶安4年(1651年)前浜で漁をしていた小沢渡の人達の地引網に小さい木の仏様がか
かった。持ち帰っててえらい人に調べてもらうと、尊い薬師如来の像とわかった。そのこ
ろは小沢渡には東・西・中と3つの寺があったが、東のお寺に堂を建て、薬師様を祭った。
 薬師様は病気を治す仏様として広く信仰されていたが、特に小沢渡の薬師様は目の病気
を治すと尊ばれてきた。
  
 戦前は8月12日に薬師様の縁日があり、参道にはアイスカクテルやカルメ焼を売る店
も並び、たいへんなにぎわいで、子どもたちの大きな楽しみの一つだった。現在のお堂は
昭和52年,原田住職・信者の方の骨折りで建てられたものである。 (小沢渡のお寺)

<子どもの頃、縁日は大きな楽しみでしたが、今は少し寂しくなっています。>



37 音羽の松〔おとわのまつ〕         (小沢渡町)
  
 この松は,大東院に住んでいた「音羽のばあさん」が、保元3年(1158年)鶴がくわ
えてきた小松を植えたことが始まりときれている。
  
 小沢渡町六所神社の入口、県道沿いに大正時代に建てられた高さ1.7mの碑があるが、
これは道路の向い側、音羽さん方にあった音羽の松を伝えているものである。
  
 この松はざざんざの松、小沢渡の松ともいわれ、遠州灘を航行する帆船が目標として
いた。

 また,永亨4年(1432年)駿河に下向きれた足利義教将軍が途中、この松をめでて、
松風の音はざざんざ…と歌われている。
  
 音羽の松は、枝張り約40mで、大枝が二つに別れ、そして地上をはい、盆栽のような
美しさであったといわれている。
  
 現在、六所神社入口に植えられている松は3代目のものである。




38 たかぶた山〔たかぶたやま〕       (小沢渡町)
  
 新津地区はほとんど起伏のない平坦な土地である。かつては、たかぶた山はこの地域で
一番高い所であり、その頂上は3m程もあったという。
  
 たかぶた山という名前の由来ははっきりしない。
 
 終戦の頃は本土防衛のため地下陣地がつくられ、おおげさに言えば地下要塞であった。 
 それも使われることもなく終戦を迎え.今は人家が建ち並んでいる。
(小沢渡町の旧公会堂近く)



39 日の本稲荷権左屋敷〔ひのもといなりごんざやしき〕 (小沢渡町)
  
 昭和の初めごろまで、小沢渡新田と篠原町の境の一角を権左屋敷といったそうである。
 
 そこには,遠く平安時代に貴人が住んでいたとの伝説もある。その近くにはお不動様も
あり、火渡り式がおこなわれたと聞いている。
  
 現在、その西に近所の人々が京都から稲荷様を迎え、日の本稲荷として近くの人のあつ
い信仰を集めている。      (篠原との境 掛舞線南)



40 八幡山〔はちまんやま]           (小沢渡町)
  
 小沢渡町六所神社のすぐ北に、八幡山と呼ばれた林があった。

 八幡山には、延喜式神名帳にある敷知郡六座の中の許部(こべ)神社があったと考えら
れ、それが浜松市八幡町に移り、八幡宮になったとの言い伝えがある,
  
 このことを裏付ける行事として、昭和30年ころまでは小沢渡町の人々が八幡宮のお祭
りに参加し、祭装束で神輿をかついだものである。 (小沢渡神社の北)

<音羽の松のある六所神社のすぐ北側。浜松八幡宮のサイトにも「当時は許部の里(南区
 小沢渡町付近)にお祀りされておりましたが、天慶元年(938)、神託によって現在の地へ
 と遷座されたと伝えられ、永承6年(1051)には源義家公(八幡太郎)により八幡二柱の神
 が勧請され、多くの武家庶民の崇敬を集めました。」と記されています。この八幡宮に
 は三方原合戦に敗走した徳川家康が八幡宮に逃れ、社前の楠の洞穴に隠れたとされる「雲
 立の楠」があります。>








☆「東京12チャンネル運動部の情熱」布施鋼治 集英社 2012年 ③【再掲載 2015.1】

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◇1970年の快進撃(昭和45~46年)

□メキシコワールドカップ全試合放送

 S45「ダイヤモンドサッカー」当時はマイナースポーツ

 グレート東郷(ロス)がプロレス映像交渉

    ◎ メキシコワールドカップ試合映像交渉へ成立    

 □大会終了後全32試合のビデオテープが送付

S45.9.28~ 22時から ワールドカップ編を放送

決勝戦 ブラジル対イタリア 1.7%

 52週にわたりカラー放送



□奇跡の独占中経  日本シリーズ「巨人対ロッテ」

 S45.10.27~「巨人 対 ロッテオリオンズ」
◎オーナー代理 中村長芳の男気


 1・2戦 巨人寄りの放送

     金子「俺はちゃんとオリオンズ側の実況を」


 3戦   解説 三原脩
      メインゲスト 森徹 広岡達朗 野村克也

三原「木樽は押さえに使うべき」


 4戦 NHKとの併映   
NHK解説  小西得郎 鶴岡一人 2人

12チャンネル 三原メイン 稲尾和久と平松政次



□モハメド・アリとニューラテンクォーター

 S46.1.11「KOボクシング」

金平ジム S46.2.28西城世界戦 34.9%



S46.3.9 カシヤス・クレイ対ジョー・フレージャー
    キョードー東京の永島達司(ビートルズ招聘で有名な呼び屋)
極東の権利

待ってもらう 12チャンネル初の衝撃

    実況 杉浦滋男アナ 海老原博幸

S46.3.9 14:00~15:26 平日昼間 15.4%

  3.11 ゴールデンタイム 18.6%


 日本で見たアリの素顔

S47.4.1武道館 アリ対マック・フォスター

田中 アリ担当
「マスコミの前ではプロレス調でぺらぺら喋っていたけど普段はおとなしかった」

   ◎公開練習前には猛練習  しかし、公開練習は10分間くらいでサッと

  ◎アリ自らがイメージ作り

◎マスコミ前ではワザとアルコール しかし朝5時起床猛トレーニング
23.6% 12時~
13.6% 19時~



□放送事故寸前 チャチャイ対花形

 S48.10.27 ケーブル断線

 9ラウンドになってから回復

チームワークで乗り切った 9.2%


 S49.10.18 花形が新チャンピオンに

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