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「浜松古跡図絵」神谷昌志 明文出版社 1987年 ② /「第14回 討入り当夜の江戸の怪現象」童門冬二 (「歴史つれづれ噺」-『ラジオ深夜便』2021年5月号) [読書記録 郷土]

今回は2つ紹介します。


1つ目は、1月22日に続いて、神谷昌志さんの
「浜松古跡図絵」2回目の紹介です。


「浜松古跡図絵」について、元の要約は違うのですが、2度目の紹介とることは、
前回お知らせしました。なります。


郷土史家、浜松の総合雑誌『東海展望』の元記者神谷昌志さんは、
浜松ではよく知られた方です。


今回紹介分(戦国時代まで)より強く印象に残った言葉は…

・「浜松市中野町の名は、江戸時代道中記『中の町、江戸と京との間』より」


・「牓示杭 ②可美村増楽地先に 「従是東浜松領」 西は堀江陣屋の大沢領」
- 大沢家も吉良氏と同じように高家旗本でした。


・「鍋屋五郎兵衛と鋳物師太兵衛」




2つ目は、月刊『ラジオ深夜便』より童門冬二さんの
「討入り当夜の江戸の怪現象」(連載「歴史つれづれ噺」より)を載せます。
そのようなことは思ってもいなかった‥ わたしの恥ずかしさ。
推理するおもしろさを味わいました。

1つ目の記事「浜松古跡図絵」②の
- 「宿帳 元禄10年(1697)2月29日に『浅野内匠頭様、神崎与五郎様、大野有司様』」
とつながっていますね。

月刊『ラジオ深夜便』、おすすめです。




<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
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☆「浜松古跡図絵」神谷昌志 明文出版社 1987年 ②

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◇絵図に描かれた宿場町浜松 

□浜松宿 
  安藤広重「東海道五十三次」
     
 「東海道名所図絵」1797 

 「東街便覧図略」1764~1771
尾張藩家臣高力益固が描いた


□本陣が6軒 旅籠は100軒


□東は馬込橋、西は成子坂西の上新町(菅原町)
23町15間(2.5㎞) 1622戸 5964人(1843)



◇東海道一里塚と領境榜示杭
  
□東海道125里(約500㎞)の道中のほぼ真ん中
  
  中野町 = 江戸時代道中記「中の町、江戸と京との間」   


□江戸時代の東海道

  道幅 4間(7.2m)~2間(3.6m)


□浜松市内の一里塚 

 ① 安間 

 ② 向宿 

 ③ 篠原

 ④ 東若林


□この間に大名、旗本の領地の境を示す領境石(牓示杭)

 牓示杭

 ① 安間橋際
     「従是西浜松領」

② 可美村増楽地先
     「従是東浜松領」西は堀江陣屋の大沢領
高さ1.5mの石柱



◇「今昔懐丹録」にみるふるさとの風景

 天神町・大雄寺 
   住職・楚州 長崎遊学時の風景を『今昔懐丹録』



◇城下の仇討ちと藩主の姫の急死
  
□仇討ち 

 延宝3(1675)年 大厳寺 (成子町 → 伊場遺跡東側) 

  奥州白川藩の藤戸丈三郎が父大右衛門の仇、清水厳右衛門を追って、諸国を旅してい
 た途中、城下で巡り会い大厳寺前まで来たが、急病のため仇討ちできず21歳の生涯を
 終える

 → 大厳寺に大三郎の墓


□姫様の死 

 天神町・竜梅寺 吉田藩主松平伊豆守信視の姫



◇浅野内匠頭の止宿

□本陣格式
  ① 杉浦助右衛門本陣(伝馬町) 

  ② 梅谷市左衛門本陣(伝馬町)

  ③ 杉浦惣兵衛本陣(旅篭町)

  ④ 伊東平左衛門本陣(旅篭町)

  ⑤ 佐藤与左衛門本陣(連尺町)

  ⑥川口次郎兵衛本陣(伝馬町)


□宿帳  

 焼失多いが大旅籠杉浦助太夫の宿帳の一部が残存

 脇本陣の役割  → 平野家

 元禄10年(1697)2月29日
  「浅野内匠頭様、神崎与五郎様、大野有司様」



◇浜松の刀鍛冶と鍛冶師たち

□浜松市鍛冶町 

 発祥は伊場遺跡 

 鍛冶職人集団は室町末期より


□1818年 62人 

 花形は刀工


□鍛治町の氏神-金山神社
  
 「史跡刀工志津三郎兼吉」の碑 助信・新津の境界 備前長船の人



◇鍋屋五郎兵衛と鋳物師太兵衛
  
□名大国史研 鋳物師文書『真継家文書』 

 遠江 山田七郎左衛門 周智郡森金屋に居住 龍禅寺蔵の文化年間の大梵鐘

浜松支配下田中太兵衛(板屋町)鍋屋五郎兵衛(田町)



◇浜松藩領の大庄屋とその屋敷門
  
□浜松藩 2.5~7万石 平均6万石 

藩領:敷智郡、長上郡、豊田郡の一部 天保年間230か村
  

□「御目見独礼」大庄屋-村役
格別な式 「古独礼」

   有玉下村の高林家 - 高林芳朗

   万蔛村の鈴木家

   伊場村の岡部家  - 西、中、東(真淵)

   宇布見村の中村家 - 「源左衛門様」








☆「第14回 討入り当夜の江戸の怪現象」童門冬二 (「歴史つれづれ噺」-『ラジオ深夜便』2021年5月号)

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 歴史上の事件について、特にその発生について「なぜだろう?」と考え続けることがよ
くある。

 自問をコネくりまわしているうちに、ある時突然、自答が「思いつき」で応じてくるこ
とがある。

 それはかなり前から「じゃないかな」という仮説の芽が出て、時を経るうちに、「だよ」
という確信に成長したということだ。



 今回の話はそのケースです。



 私は長い間赤穂浪士の吉良邸討入りに疑問を持ってきた。

 討入りそのものにではなく、あの夜の幕府側の江戸市内の警備状況についてだ。

 江戸市中の夜の雪は、かなりそれぞれの街の責任に委ねられる。

 各町には自身番がいて、時刻の告知・火災の注意・見知らぬ人間への警戒等の仕事をす
る。

 夜には格納してあった柵を引出して出入りを塞ぐ。

 翌朝まで開けない(病人が出た時は別)。この柵を木戸と云い、自身番が木戸番を差配し
た。

 木戸は町ごとに設けられているので、夜の江戸は木戸だらけの自衛都市になる。

 空から見れば巨大な「檻の街」だ。

(その中を47人の武装した集団が、まるで木戸が無いかの如く、スイスイと本所まで行進し
て行った?)


 ウソオ!と云いたくなる出来事だ。

 しかも翌朝未明、本所で得た吉良上野介の首を槍の先に掲げて、今度は高輪の泉岳寺ま
で凱旋行進をして行く。

 「そんなのアリイ?」と疑問だった。


 そこでこの件についての疑問を落語の「浮世根問」式に並べ、一つ一つ妥当性のある解
答を用意して行った。まず、

「武裝集団が木戸だらけの夜の街を無人境を行くが如く進むのには、木戸が無いか、ある
にはあっても集団が通る時だけ木戸が開かれた」ということになる。


 が、こんなことは木戸番や自身番にはできない。そんな権限もない。


 権限があるのは町奉行だが、町奉行もそこまで大それたことはできない。

 町奉行にそういう指示を出せる老中級の重職の、体を張った決断が要る。



「誰だろう」。

 自問に対し「柳沢吉保だろう」と自答が返ってきた。

 時の将軍徳川綱吉(五代目)の寵をほしいままにしている幕府の重職である。


 かれなら町奉行や町役人にそういう指示を下せる。

 しかしそれにしてもなぜ?という疑問は残る。


 元禄14(1701)年3月に起った「播磨(兵庫県)赤穂城主・浅野長矩の江戸城内刃傷事件」
は、綱吉を激怒させた。

 浅野は即日切腹・浅野家は取潰し・藩士は全員失職ということになった。

 相手の吉良上野介には何の咎めもなかった。

 将軍が侍医を見舞に行かせたほどだ。

 この偏った処分に世論が騒ぎ出した。

「神君家康公は、理由は問わずケンカは両成敗だと云われた。この扱いは片成敗で不公平
 だ」

というのだ。

 これがどんどん大きな声になった。

 柳沢吉保は(煽動者はどうせ取潰された大名家の浪人だろう)と思う。


 が、かれは浅野の刃傷直後の処分は、少し苛酷だったと思っていた。

(神君のお言葉通り両成敗にすべきだった)と反省していた。

 丁度このころ江戸城内の居住者の選び直しをしていた。

 柳沢はこれを利用した。

 城内に住んでいた吉良家を城の外に出した。

 それも夜になると近くの川から、カワウソが「今晩は」と訪ねてくるような淋しい本所
の町である。

評判になった。

消息通は、「まるでお上(幕府)が、赤穂浪士よ、吉良を討て、と云っているようなものだ」

とウガった受け止め方をした。

 私の妄想はこの「吉良家の江戸城からの追い出し」によって火が点けられた。

 これが討入り当夜の、武装団隊の夜の檻の街の行進、翌朝の凱旋行進へつながつて行く。

 柳沢吉保は学問の深い文人だ。

 人情の機微をよく心得ている。

 しかも将軍綱吉への忠誠心は絶対た。
 

 この夜の思い切った処置は、綱吉の過剰な浅野家処分の修正であり、たるみ切った江戸
城(だけでなく地方の藩)の武士達への、警鐘になればいい、という柳沢の奇策だと思って
いる。


 普通、忠臣蔵の話は李題としては12月だ。

 それをなぜ初夏に扱うのか。

「おしえて!四千頭身」(北陸朝日放送ほか)という番組がある。

 四千頭身というお笑いグル-プが小学生の服装をしてニュースや雑学を伝える。

 いつも、「(このことを)学んで漫才にしょう。全部そうなる((ウケてブームが起る)」と
語り合っている。ネタに敏い。


 いま如上の話を書いたのも、そんな気持が私のどこかにあつたのかもしれない。

「おこもりぐらし」のせいだ。

□童門冬二 どうもん・ふゆじ
 歴史小説家。1927年東京生。1944年土浦海軍航空隊。戦後都庁に勤務。
 51歳で退職して以来40年作家活動。
 歴史上の人物を現代的な組織録・生き方論の視点で捉え、幅広い人気を得ている。

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