「学びの復権―模倣と習熟」辻本雅史 角川書店 1999年 ② /江戸時代の「津波避難タワー」 磯田道史(『歴史の愉しみ方』中公新書 2012年 より)【再掲載 2019.1】 [読書記録 教育]
今回は、2月14日に続いて、辻本雅史さんの
「学びの復権-模倣と習熟」の紹介 2回目です。
出版社の案内には、
「近代教育が普及する以前、日本人はどのように学んでいたのか。江戸時代の寺子
屋、藩校、内弟子制度などにおける学びの実態と学習方法を具体的に解き明かし、
荒廃する現代教育社会の中で学ぶことの意味を問い直す。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「知的言語としての漢文。テキストが漢文。洋字さえ漢文=『漢訳洋書』」
・「学問塾とは師と弟子が共に学問を目指す教育」
・「儒子とは最初から最後まで経書を読む作業に終始する学問であり、『模倣と習
熟の学習法』の原則に則っている」
・「『自得』の重要性」
自問自答の大切さについていろいろな方が指摘していますね。
もう一つ、再掲載となりますが、磯田道史さんの『歴史の愉しみ方』より
「江戸時代の『津波避難タワー』」を載せます。
わたしの町は海の近くなのですが、一番高い建物は3階建て。
女子学生と同じ心配をもっています。
わたしの家から徒歩約30分の高塚駅のすぐ南にある高塚熊野神社。
毎週末妻と徒歩で参詣して週の安全を感謝しています。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「学びの復権―模倣と習熟」辻本雅史 角川書店 1999年 ②
◇儒学の学習
1 基礎教養としての儒学
知的言語としての漢文
テキストが漢文
洋字さえ漢文「漢訳洋書」
藩校の普及は近世後期
近世中期 ほぼ18世紀後半
2 学問塾とは
教育の場としての塾
咸宜園 - 広瀬淡窓 日田 3000人以上
学問塾 = 師と弟子が共に学問を目指す教育
「学問塾」と「手習い塾」
3 儒子の学習
忘れられた儒学の学習形態
経書を読む学習
四書五経 「大学」「論語」「孟子」「中庸」「孝経」
儒子とは最初から最後まで経書を読む作業に終始する学問
素読の学習
素読 - 講義 - 会業過程
個別学習の原則
「付け読み」オウム返しに師匠をなぞる
完全に暗唱できるまで自分で稽古「温習」
日頃から繰り返し「温習」
「模倣と習熟の学習法」の原則
1対1、1対3~4人まで
登校すると句読師のところに行く
水戸藩・青山塾の「朝読み」の情景
◎「朝読み」の素読の声で子どもの頭の善し悪しはだいたい分かったもの
で大勢の中で「あれは誰さんの声」などと言われるようにはっきりした
のは必ずしも大きな声ではなくても際だって出来のいい子にきまってい
たそうです。(山川菊江)
師弟関係
読書の順序
朱子学では「大学」「論語」「孟子」「中庸」
テキストの身体化
素読は真理が詰まっている経書を声を出して暗唱して、丸ごと覚え
てしまうこと
現代の読書
… 黙読
書物の内容を理解するための読書
◎「自得」の重要性
素読課程の修了
… 四書 10~14歳には終えられる
「自読」 大きな声を出す 看書
講義
読書のパフォーマンス
集団で行う会業
会業 = 学生が会集して集団で行う学習形態のこと
数人から10人ぐらいの同程度の学力グループ
会業 = 会読+論議
闇斎学派の学習法
「講釈」読書軽視 → 一斉講義スタイル
徂来学の「読書」主義
「講釈+害論」闇斎学派批判
☆江戸時代の「津波避難タワー」 磯田道史(『歴史の愉しみ方』中公新書 2012年 より)【再掲載 2019.1】
<出版社の案内>
忍者の子孫を訪ね歩き、東海道新幹線の車窓から関ケ原合戦を追体験する方法を編
み出し、龍馬暗殺の黒幕を探る―。著者は全国をめぐって埋もれた古文書を次々発
掘。そこから「本物の歴史像」を描き出し、その魅力を伝えてくれる。同時に、歴
史は厳しいものでもある。地震史研究にも取り組む著者は、公家の日記などから、
現代社会への警鐘を鳴らす。
高塚熊野神社の古木
<高塚 熊野神社 - 周りよりだいぶ高くなっています>
次に大津波のきそうなところで、しばらく歴史津波の古文書をさがそうと思っ
て、2012年4月から静岡文化芸術大学にうつり、歴史上の津波の講義をはじめ
たら、授業後、女子学生から悲痛な質問メールがきた。
「自分は海岸から2キロの場所に住んでいる。震災後、津波避難所ができたが、
たいてい2階建ての屋上です。想定される最大11メートルの津波が来た場合、
それに上がって 助かるものでしょうか。」
私には「武士の家計簿」やら「忍者の履歴書」やら発見困難な古文書をみつけ
る運があるらしい。
震災後ためしに地震津波の古文書をさがしてみたらいくつも新出史料がみつか
った。
平時なら忍者の古文書だけ研究して楽しく歴史に遊んでもいい。
しかし列島が地震活動期にはいってしまった以上、そうもしていられない。
「磯田さん。あんた古文書捜査がそんなに速いなら地震津波の古文書をみつけな
よ」
天に則ればその声が聞こえる。
それで津波常襲地の大学にうつることにした。
歴史事例から津波の怖さを学生にさんざん講義したら
「東海地震の怖さは小学生の頃からずっといわれてきたが、先生ほど具体的な話
をする人はいなかった」
と件の質問がきた。
内閣府の有識者会議が最大級の南海トラフ連動地震がおきたときの津波の高さ
を公表。
女子学生の住む町は11メートル超、私の住む浜松は14メートル超の津波が予
想されている。
人命のかかった質問だ。私はこう答えた。
「3月3日付の『日本経済新聞』(電子版)に『津波は対抗せずやり過ごせ』とい
う記事がある。浜松に地形がよく似た名取市閖上(ゆりあげ=宮城県)の事例だ。
閖上の海岸には8.5メートルの津波が襲来。沿岸から2キロ内陸にいた人は高さ
約 5メートルの歩道橋にあがってギリギリ助かった。しかしこれが11メート
ルの津波であったら助からなかったと考えるのが自然。貴君が心配するように2
階建ての屋上は6メートル前後。最大級の津波には最低でも高さ8メートル以上
の建物屋上への避難が必要ではないか」
いま、津波避難タワーの建設がさけばれている。
海岸ぞいで高台のない人口密集地ではまさに命綱だ。
ふと考えた。江戸時代に津波避難タワーはなかったのか。
ところが1か月もたたず、私は史料調査中にその現物をみつけてしまった。
浜松駅の西に高塚という駅がある。
近くの熊野神社に高い塚があるから高塚だ。
神社の案内板をみて驚いた。
「此の地の神主さんが高い丘を作って人びとを救えと云う不思議な夢を見たので、
村人とはかって神社の裏山に土を盛りあげた」。
それは最古かもしれない津波避難タワーだった。
高塚地区は海岸から2.2キロ。海抜約5メートル。巨大津波が来れば危ない。
だからだろう。周囲の地面から高さ8メートルの砂山を作っていた。
高塚の地名は江戸初期にはすでに見られる。
砂山の麓には樹齢500年のシイの大木があった。
「大津波のため住んでいた人達が殆ど死んでしまった。村人は津波の犠牲者を此
の地に葬り沢山の砂を浜から運んで高い塚を作った」。
これはおそらく明応の超巨大津波(1498)の時のことだろう。
明応津波は安政地震津波(1854年)の3~4倍の高さとされる。
巨大津波で高塚集落は一度壊滅したらしい。
しかし、
「安政の大地震が起り津波のため多くの死者が出たが、高塚の人達は此の丘に避
難して被害を免れた」。
このタワーは機能したのだ。
この集落は、神の声、神主の発案でこの避難タワーを作り「維新頃に至るまで
毎年正月元旦に氏子が土砂を盛っていた(『入野沿革誌』)。
しばらくして例の女子学生からメールがきた。
「近くに8メートル以上の4階建てがあるからそこに逃げるようにします」。
<熊野神社の由来書き>
<高塚駅と高塚駅から見た高塚熊野神社>
「学びの復権-模倣と習熟」の紹介 2回目です。
出版社の案内には、
「近代教育が普及する以前、日本人はどのように学んでいたのか。江戸時代の寺子
屋、藩校、内弟子制度などにおける学びの実態と学習方法を具体的に解き明かし、
荒廃する現代教育社会の中で学ぶことの意味を問い直す。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「知的言語としての漢文。テキストが漢文。洋字さえ漢文=『漢訳洋書』」
・「学問塾とは師と弟子が共に学問を目指す教育」
・「儒子とは最初から最後まで経書を読む作業に終始する学問であり、『模倣と習
熟の学習法』の原則に則っている」
・「『自得』の重要性」
自問自答の大切さについていろいろな方が指摘していますね。
もう一つ、再掲載となりますが、磯田道史さんの『歴史の愉しみ方』より
「江戸時代の『津波避難タワー』」を載せます。
わたしの町は海の近くなのですが、一番高い建物は3階建て。
女子学生と同じ心配をもっています。
わたしの家から徒歩約30分の高塚駅のすぐ南にある高塚熊野神社。
毎週末妻と徒歩で参詣して週の安全を感謝しています。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「学びの復権―模倣と習熟」辻本雅史 角川書店 1999年 ②
◇儒学の学習
1 基礎教養としての儒学
知的言語としての漢文
テキストが漢文
洋字さえ漢文「漢訳洋書」
藩校の普及は近世後期
近世中期 ほぼ18世紀後半
2 学問塾とは
教育の場としての塾
咸宜園 - 広瀬淡窓 日田 3000人以上
学問塾 = 師と弟子が共に学問を目指す教育
「学問塾」と「手習い塾」
3 儒子の学習
忘れられた儒学の学習形態
経書を読む学習
四書五経 「大学」「論語」「孟子」「中庸」「孝経」
儒子とは最初から最後まで経書を読む作業に終始する学問
素読の学習
素読 - 講義 - 会業過程
個別学習の原則
「付け読み」オウム返しに師匠をなぞる
完全に暗唱できるまで自分で稽古「温習」
日頃から繰り返し「温習」
「模倣と習熟の学習法」の原則
1対1、1対3~4人まで
登校すると句読師のところに行く
水戸藩・青山塾の「朝読み」の情景
◎「朝読み」の素読の声で子どもの頭の善し悪しはだいたい分かったもの
で大勢の中で「あれは誰さんの声」などと言われるようにはっきりした
のは必ずしも大きな声ではなくても際だって出来のいい子にきまってい
たそうです。(山川菊江)
師弟関係
読書の順序
朱子学では「大学」「論語」「孟子」「中庸」
テキストの身体化
素読は真理が詰まっている経書を声を出して暗唱して、丸ごと覚え
てしまうこと
現代の読書
… 黙読
書物の内容を理解するための読書
◎「自得」の重要性
素読課程の修了
… 四書 10~14歳には終えられる
「自読」 大きな声を出す 看書
講義
読書のパフォーマンス
集団で行う会業
会業 = 学生が会集して集団で行う学習形態のこと
数人から10人ぐらいの同程度の学力グループ
会業 = 会読+論議
闇斎学派の学習法
「講釈」読書軽視 → 一斉講義スタイル
徂来学の「読書」主義
「講釈+害論」闇斎学派批判
☆江戸時代の「津波避難タワー」 磯田道史(『歴史の愉しみ方』中公新書 2012年 より)【再掲載 2019.1】
<出版社の案内>
忍者の子孫を訪ね歩き、東海道新幹線の車窓から関ケ原合戦を追体験する方法を編
み出し、龍馬暗殺の黒幕を探る―。著者は全国をめぐって埋もれた古文書を次々発
掘。そこから「本物の歴史像」を描き出し、その魅力を伝えてくれる。同時に、歴
史は厳しいものでもある。地震史研究にも取り組む著者は、公家の日記などから、
現代社会への警鐘を鳴らす。
高塚熊野神社の古木
<高塚 熊野神社 - 周りよりだいぶ高くなっています>
次に大津波のきそうなところで、しばらく歴史津波の古文書をさがそうと思っ
て、2012年4月から静岡文化芸術大学にうつり、歴史上の津波の講義をはじめ
たら、授業後、女子学生から悲痛な質問メールがきた。
「自分は海岸から2キロの場所に住んでいる。震災後、津波避難所ができたが、
たいてい2階建ての屋上です。想定される最大11メートルの津波が来た場合、
それに上がって 助かるものでしょうか。」
私には「武士の家計簿」やら「忍者の履歴書」やら発見困難な古文書をみつけ
る運があるらしい。
震災後ためしに地震津波の古文書をさがしてみたらいくつも新出史料がみつか
った。
平時なら忍者の古文書だけ研究して楽しく歴史に遊んでもいい。
しかし列島が地震活動期にはいってしまった以上、そうもしていられない。
「磯田さん。あんた古文書捜査がそんなに速いなら地震津波の古文書をみつけな
よ」
天に則ればその声が聞こえる。
それで津波常襲地の大学にうつることにした。
歴史事例から津波の怖さを学生にさんざん講義したら
「東海地震の怖さは小学生の頃からずっといわれてきたが、先生ほど具体的な話
をする人はいなかった」
と件の質問がきた。
内閣府の有識者会議が最大級の南海トラフ連動地震がおきたときの津波の高さ
を公表。
女子学生の住む町は11メートル超、私の住む浜松は14メートル超の津波が予
想されている。
人命のかかった質問だ。私はこう答えた。
「3月3日付の『日本経済新聞』(電子版)に『津波は対抗せずやり過ごせ』とい
う記事がある。浜松に地形がよく似た名取市閖上(ゆりあげ=宮城県)の事例だ。
閖上の海岸には8.5メートルの津波が襲来。沿岸から2キロ内陸にいた人は高さ
約 5メートルの歩道橋にあがってギリギリ助かった。しかしこれが11メート
ルの津波であったら助からなかったと考えるのが自然。貴君が心配するように2
階建ての屋上は6メートル前後。最大級の津波には最低でも高さ8メートル以上
の建物屋上への避難が必要ではないか」
いま、津波避難タワーの建設がさけばれている。
海岸ぞいで高台のない人口密集地ではまさに命綱だ。
ふと考えた。江戸時代に津波避難タワーはなかったのか。
ところが1か月もたたず、私は史料調査中にその現物をみつけてしまった。
浜松駅の西に高塚という駅がある。
近くの熊野神社に高い塚があるから高塚だ。
神社の案内板をみて驚いた。
「此の地の神主さんが高い丘を作って人びとを救えと云う不思議な夢を見たので、
村人とはかって神社の裏山に土を盛りあげた」。
それは最古かもしれない津波避難タワーだった。
高塚地区は海岸から2.2キロ。海抜約5メートル。巨大津波が来れば危ない。
だからだろう。周囲の地面から高さ8メートルの砂山を作っていた。
高塚の地名は江戸初期にはすでに見られる。
砂山の麓には樹齢500年のシイの大木があった。
「大津波のため住んでいた人達が殆ど死んでしまった。村人は津波の犠牲者を此
の地に葬り沢山の砂を浜から運んで高い塚を作った」。
これはおそらく明応の超巨大津波(1498)の時のことだろう。
明応津波は安政地震津波(1854年)の3~4倍の高さとされる。
巨大津波で高塚集落は一度壊滅したらしい。
しかし、
「安政の大地震が起り津波のため多くの死者が出たが、高塚の人達は此の丘に避
難して被害を免れた」。
このタワーは機能したのだ。
この集落は、神の声、神主の発案でこの避難タワーを作り「維新頃に至るまで
毎年正月元旦に氏子が土砂を盛っていた(『入野沿革誌』)。
しばらくして例の女子学生からメールがきた。
「近くに8メートル以上の4階建てがあるからそこに逃げるようにします」。
<熊野神社の由来書き>
<高塚駅と高塚駅から見た高塚熊野神社>