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「さらば松竹新喜劇 天外・寛美と過ごした日々」藤井薫 情報センター出版局 1993年(後半) /「日本一の給食」佐々木十美 学研 2013年【再掲載 2015.3】 [読書記録 一般]

今回は、3月26日に続いて藤井薫さんの
「さらば松竹新喜劇 天外・寛美と過ごした日々」の紹介2回目 後半です。


おちょやんブームにのって読んだ本です。


出版社の案内には、


「ドーランと風呂が大嫌いだった天外。ひと晩で原稿100枚を書き上げ
 た花登筐。借金取りのヤクザを10分で追い返した寛美など…。座付作
 家だった著者だけが知っている『笑い』と『人情』の舞台裏。」


とあります。


「アットン婆さん」のDVDを図書館で借りて観ました。
松竹新喜劇らしさを愉しむことができました。



今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「北条秀司が認めた筆者の作品『乱れ友禅』を1か月掛けて書き換え、
  ハッピーエンドにした。4月の公演で使われるはずが、天外作品と
して日生劇場で使われることとなった。」


・「昭和40年9月に天外が倒れた後、昭和41年5月からミヤコ蝶々、南都
雄二が新加入し本来の芝居が漫才芝居になってしまった。蝶々らは半年
  後に劇団を去った。」


・「藤山寛美は借金地獄に陥った。その頃に寛美の精神的タフネスを見た。
借金を取り返しにドスを腹巻きに忍ばせてきた男と10分間ほどの間に完
璧に言いくるめてしまった話術のうまさ。」


・「劇団より自分の寛美。楽屋の外では気前よく金をばらまいたという話は
よく耳にした。しかし、楽屋では金銭には実にシビアな役者だった。天
外とは大違いだったが、それでも結局最後に残ったのは何億とふくれあ
  がった借金だけだった。」



わたしが子どもの頃、毎週のようにテレビで吉本新喜劇と松竹新喜劇が放送
されていました。
テレビ放送の地デジ化に伴い、名古屋方面の番組が観られないようになりま
した。
吉本新喜劇は深夜に放送されていますが、松竹新喜劇は放送されていません。
関西では放映されているのでしょうか。





もう一つ、再掲載となりますが、佐々木十美さんの
「日本一の給食」を載せます。
給食前の時間の子どもたちの表情はたいへん良いものです。
温かくて工夫された給食のおいしさは、皆が共通して思い出にもつことが
できるものだと思います。




わが家の桜も満開になりました。
河合塾からいただいた苗が毎年春を愉しませてくれます。
今年は咲き始めから満開になるまでが早いと感じました。
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<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。






☆「さらば松竹新喜劇 天外・寛美と過ごした日々」藤井薫 情報センター出版局 1993年(後半)

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◇裏切り裏切られ
 
 花登筐 
  「番頭はんと丁稚どん」

  「やりくりアパート」

  ↓(テレビ)

  松竹新喜劇  昭和30年代半ばから
 

 筆者が花登筐の脚本を清書
 
   ↓ S32.3 劇団「笑いの王国」主宰
 
  
 筆者が花登筐の家を訪問
夫人は元宝塚の由美あずさ

  1時間おきにアンプルの口を切ってはチュッチュッ
 
   翌朝9時までに3本目の「宵宮(?)」
 

 「宵宮(?)」上演は3時間30分 - 400字詰め原稿用紙100枚前後

  | 一晩に100枚
 

 劇団内での著者の評価は低下
「てっちゃん劇場」朝日テレビのみ




 花登筐が破格の条件で参入
   大村崑、芦屋雁之助が安価で出演
 

 2年目 
   「オール読物」 一幕物戯曲に再度応募
       
   筆者の作品『乱れ友禅』を北条秀司は認めた  

  ↓

1か月掛けて書き換え ハッピーエンドに



◇『乱れ友禅』の行方

 4月の公演のはずが日生劇場の脚本(天外名で=筆者の作品としてではなく)に!
     ↓
 

 8月の日生劇場 天外の演出助手として
   練習・稽古で井の中の蛙状況
   7/25 新橋演舞場公演楽日 8月は年に一度の休演日
           | 
天外とともに東京に残る 天外は東急ホテル 筆者は第一ホテル


 稽古13日間 
   8/2終了
  →8/3に初日 夜6時 大入り満員
   客席の最後尾で寺川知男(制作)と一緒に観る
   大成功 → 翌朝銀座の割烹大友で昼食



◇決別

 天外が筆者に
 「あんたが喋ったのに違いない。その証拠にあんたが以前勤めていた新聞
  社の記者がワシのところに問い合わせてきた。」

  → 筆者が否定すると…
 「いや、喋った。酒飲んであちこちで喋りまくったに違いない。」
     
    ↓

筆者は一年間干された
 

 昭和40年9月 京都南座公演
  13日の昼の部直後天外が倒れた 脳溢血

  ↓
 
  急遽 藤山寛美が代役 1時間遅れで開幕
 
    ↓ 


 昭和41年5月~
ミヤコ蝶々、南都雄二が新加入し本来の芝居が漫才芝居になってしまった
     
   → 半年後去る


 昭和39年~40年4月     
藤山寛美は借金地獄

寛美の精神的タフネス

※ ドスを腹巻きに忍ばせてきた男と10分間ほどの間に完璧に言いくるめて
   しまった話術のうまさ
  

 寛美は昭和41年3月の御園座後援を最後に劇団から追放されてしまう




 松竹新喜劇は閑古鳥
   昭和41年7月 五郎八が退団(→ミヤコ蝶々、南都雄二のところに)

   昭和41年10月 文芸部責任者星も身を引く


 日本ドリーム観光の大劇から誘い OSKと芝居
   昭和41年3月御園座公演の時辞表  

広田常務からOSKをふんだんに使った大劇公演の脚本を依頼される
     主演 高田浩吉  里見浩太郎  大友柳太朗

    |

   星に辞表  その足で聖天坂の天外宅へ

   
 天外は昭和42年1月 カムバック 
   昭和45年5月には曾我廼家十吾と南座で共演



◇「笑い」の終焉

 昭和58年初夏 藤山寛美から17,8年ぶりに電話

   ↓ プロ野球の記事 数字


 新作の依頼  
→ 昭和59年1月 中座 
      2本目狂言「子年の女」(「おいにょ」)
1時間30分
寛美主演 天笑(3代目天外) 御園芙美子
     
     昭和59年6月 「相合傘」


 「劇団より自分」の寛美

  ◎ 楽屋の外では気前よく金をばらまいたという話はよく耳にした。
   しかし、楽屋では金銭には実にシビアな役者だった。天外とは大違
   いだったが、それでも結局最後に残ったのは何億とふくれあがった借
   金だけだった。 



◇藤井薫
 1933 京都府生まれ 滋賀大学経済学部卒

 新聞記者を経て、1960年~松竹新喜劇学芸部に所属、脚本を執筆。

 1967年より新歌舞伎座、大劇の専属作家となる。

 その後フリーとなり、ノンフィクション小説の分野でも活躍。

 「天草男児マルカーノ」「ルポ・室町」等








☆「日本一の給食」佐々木十美 学研 2013年【再掲載 2015.3】

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◇日本一の給食

 北海道置戸町(おけと)の学校給食


 毎日違うメニュー 
   子ども用でない本当の味


 押しつけないけどあきらめない  
   旬にこだわる  
   調味料厳選


本物のおいしさは出汁から  
   器も地元産「オケクラフト」


 安心と安全を追求  
   手間暇は惜しまない



◇大人気の給食カレー

「からくておいしい」のもとは手作りカレー 
  19種類のスパイス
 

 ルーを作ってから三週間寝かせる



◇置戸町はこんなところ

 自然豊か 
   北見市の南西 常呂川と訓子府川
  「オケクラフト」知られる
 

 オケクラフトの町



◇給食で伝えたいこと 

 本物の味を伝えたい  
   いろいろなおいしさがある
 

 おいしく食べる楽しく食べる 
  ◎「おうちのごはんがいちばん」



◇「日本一の給食」になるまで

「こんなもの」から「変えよう」へ
 

「だめなものはだめ」


 子どもを見つめて  
   先生が教えてくれたこと  
   調理員さんたちへの感謝

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