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大人のための修学旅行 京都の歴史」武光誠 河出書房新社 2002年 ⑬(最終) /「言葉の力」 内田樹 神戸女学院大学 『教師のチカラ』より 【再掲載 2019.5】 [読書記録 一般]

今回は、4月23日に続いて、武光誠さんの
「大人のための修学旅行 京都の歴史」13回目の紹介 最終です。


出版社の案内には、


「日本史の流れをしっかりふまえたうえでもう一度京都を巡ってみたいという願
 望をかなえる“読む修学旅行”の本。歴史的舞台となった名所旧跡から、日本
 史の実像が浮かびあがる。」


とあります。



わたしが京都を訪ねるときに持って行きたい本です。



今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「南北朝争乱と関係が深い嵯峨野」


・「南北朝ゆかりの深い地 真言宗大覚寺派」


・「南北朝時代は『ばさら(権威を破ること)の時代』」


・「天龍寺 
  吉野で亡くなった後醍醐天皇の供養のために尊氏が建てた」


・「京都の『禅文化』と『日本精神』『和』」




もう一つ、再掲載となりますが、内田樹さんの
「言葉の力」を載せます。
文科省のいう「言葉の力」とは…。




昨日は、帰宅してからすぐに苗床からサツマイモの苗を70本切り、
夕方、先日作った畝に挿しました。
その間に、畝を一本、管理機を使って作りました。
慌ただしい午後でしたが、充実していました。
雨がちょうどよい具合に降ってくれると助かるのですが。




<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。





☆「大人のための修学旅行 京都の歴史」武光誠 河出書房新社 2002年 ⑬(最終)

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◇南北朝争乱と武家が開花させた禅宗文化

□中世社会の大きな転換点

 王政復古を経た政権交代
長期にわたる南北朝の混迷

14世紀初期
      持明院統(北朝)
大覚寺統(南朝)

   大覚寺統の後醍醐天皇の不満が長期の動乱のきっかけを作った

元弘の変(1331年) 失敗

南北朝の対立 50年間
1392年 南朝の亀山天皇から北朝の後小松天皇に譲位


 武家による禅宗の文化  
   北山文化


 南北朝争乱と関係が深い嵯峨野


 嵯峨野が神聖な土地になったわけ
秦氏の勢力下 
     野宮の潔斎


 既存の権威を破る 「ばさら」
   南北朝時代は「ばさら(権威を破ること)の時代」

 


□大覚寺統(南朝)の本拠地 [大覚寺①]

 南北朝ゆかりの深い地
   真言宗大覚寺派


 両統対立の火種
   

 後宇多上皇の院政の本拠地
   

 
□南北朝講話の舞台(大覚寺②)

 前身は嵯峨天皇の離宮 


 南朝方から働きかけた和睦
   

 相次ぐ戦乱の歴史を経て


 野路井家

 

□南北朝争乱の英雄が眠る寺[宝筺院]

 楠木親子の「桜井の別れ」


 新田義貞首塚

 

□敵味方を越えた南北朝の縮図 [天龍寺]

 後醍醐天皇と足利尊氏の奇妙な関係
天龍寺 
      吉野で亡くなった後醍醐天皇の供養のために尊氏が建てた
(夢窓礎石がすすめた)


 室町幕府の保護下で繁栄を築く


 創建当時の面影を残す塔と庭園


 祇王寺
   「平家物語」白拍子祇王の物語にまつわる
    明治28(1895)年復興

 

□無窓礎石 一門相承の寺 [臨川寺]

 南朝ゆかりの禅宗寺院


 無窓礎石に帰依した尊氏による保護


 見所の多い中門と石庭


 小督塚

 

□庭園づくりの名手と自然の力との妙 [西芳寺]

 聖徳太子にかかわる伝説


 浄土宗寺院から臨済宗寺院へ
行基が聖徳太子の別邸を寺院化


 苔寺の異名をもつ美しい庭園


 地蔵院

 

□足利家の時代をしのばせる寺 [等持院]

 足利尊氏の葬儀の地


 足利家の菩提寺となる


 長く「悪玉」とされた足利家
「平家物語」「太平記」 
      勧善懲悪 - 善玉と悪玉の区別

※ 足利家の子孫は幕府の高家(朝廷相手の儀式を取り仕切
     る役目)として続いており、足利家にまつわる寺社も多い

◎ 今日では足利尊氏の役割を高く評価する意見もある
       - 人々の生活の安定


 真如寺




◇京都
「禅文化」―「日本精神」「和」










☆「言葉の力」 内田樹 神戸女学院大学 『教師のチカラ』より 【再掲載 2019.5】

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 もはや旧聞に属するが、数年前文科省が「ゆとり教育」の看板をおろ
したときに、それに代わって「言葉の力」を指導者の基本理念に置き換
える決定を下したことがある。


 直前の国際学力調査で、「学習や職業に対して無気力な子ども」が増
えつつあることを指摘されたことを受けての政策転換である。


 論理的思考力や表現力が足りないから、これを選択的に涵養しなけ
ればならないという文科省のねらいはわからないではない。


 だが、果たしてこのような政策を起案している当の官僚たちや政府
委員たちの「言葉の力」は適切に機能しているのかどうか、それがひ
どく不安になったことを覚えている。


 というのは、同時期に朝日新聞が「言葉のチカラ」についての奇妙
なキャンペーンを展開したからである。


そこにはこんなコピーが使われていた。



「音楽は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じて
 いる、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」



 私はこれを駅貼りポスターで一読したときに肌に粟を生じた。


 このようなコピーを平然と書く人間と、それを「気持ちが悪い」と
いうことを感じないで天下に告知するマスメディアの人間たちの「言
葉の力」の衰えに恐怖に近いものを感じたからである。


 この短い文のうちには、言葉についてのつよいイデオロギー的な予
断が含まれている。


 それは「言葉は道具だ」という言語観である。


 まず主体がいる。


 言語が発される以前にすでに言語運用の主体が権利上存在する。


 その主体には、言語以前にすでに感情があり、他者への害意があり、
権力意志がある。


 言語は、その主体の「すでに内在する感情」や「他者への害意」を
現勢化するヴィークルにすぎない。


 そして、言葉が「ときに無力である」という言い方から推論するに、
言語の力はどうやらそれがもたらす現実変成の成果によって考量され
るようである。


 発語者の意図のとおりに現実を変える言葉は「有力」であり、そう
でない言葉は「無力」である。


 何よりコピーライターがここで「力」ではなく「チカラ」というカ
タカナ表記をあえて選んだことに私はむしろ興味を惹かれた(本稿が
寄稿されている媒体も「チカラ」をカタカナ表記しているが、そこに
は共通する選好があるのかも知れない)。



 コピーライターはたぶん学習指導要領が用いる「論理的思考力」と
か「表現力」とかいうときの「力」では弱いと思ったのだろう。


 そういう「力」はふつう潜勢的なもの、内在する資質について用い
られる。


 だが、「チカラ」はそうではない。


 それは現勢化したもの、外にかたちを表したもの、その効果や価値
を数値的に考慮し、別の「チカラ」と強弱や優劣を比較できるもので
ある。


 たぶんそういう理解でよいと思う。


 「コノテーション」(言外の含意)をつよく指示する意図がなけれ
ば人間は表記を変えない。


 だが、人間のもつさまざまな「力」は、必ずしも外形的・数値的に
考量できる「チカラ」ばかりではない。


 むしろ、表に出ることなく、潜勢態のまま、発現される機会を待っ
ている「力」の方がずっと本質的なもののように私には思われる。


 たとえば「胆力」というのは、つよいストレスに遭遇したとき、そ
の危地を生き延びる上で死活的に重要な資質だが、それは危機的状況
にあっても「ふだんと変わらぬ悠揚迫らぬ構え」をとることができる
という仕方で発現される。


 つまり、外形的に何も変わらない、何も徴候化しないということが
胆力の手柄なのである。


 だから、「チカラ」をもっぱら外形的な数値化できる成果や達成に
よって計測することを望む人の眼に「胆力」はたぶん見えない。


 当然ながら、彼らは「胆力を練るための教育プロセス」というよう
なものについては考えない。


 そのようなものがありうるということさえ考えない。



 「生命力」も同じである。


 「生きる力」とは平たく言ってしまえば「何でも食える」「どこ
でも寝られる」「誰とでも友達になれる」というベーシックな三極
の能力にほぼ尽くされる。


 要するに、与えられた場に適応し、手持ちの有限のリソースを最
大限活用する能力である。



 無人島に漂着するとか、最前線に送られるとか、ぎりぎりの環境
を生き延びるためには必須のものだが、現代の学校教育には、その
ような能力を育てるための体系的プログラムは存在しない。




 「学力」も同じである。



 ほとんどの人はこれを「成績」と同義語で、点数化し、優劣を比
較できるものと思っいる。


 けれども、学力とは「学ぶ力」のことである。


 それはたまたま外形的に成績や評価として表示されることもある
が本来はかたちをもたないものだ。


 というのは、「学ぶ力」とは「自分の無知や非力を自覚できるこ
と」、「自分が学ぶべきことは何かを先駆的に知ること」、「自分を
教え導くはずの人(メンター)を探り当てることができること」
といった一連の能力のことだからだ。


 これらの力は成果や達成では示されない。


 学ぶ力は「欠性態」としてのみ存在する。


 何かが欠けているという自覚の強度のことを「学ぶ力」と呼ぶ
からである。


 「おのれの未熟の自覚」、「ある種の知識や技能についての欠落
感」、「師に承認されたいという欲望」といったものは存在する
とは別の仕方で私たちの生き方に深い影響を及ぼすのである。


 「学ぶ力」は欠性的にしか存在しない。


 だが、それを励起し、支援し、開発するための実践的プログラ
ムはもちろん存在する。


 経験を積んだ教師はそのことを知っている。


 悪い方の例だけを挙げるが、例えば「成績が悪いと社会下層に
格付けされる」という恐怖心は学習の動機づけとして間違いなく
有用である。


 この「恐怖心」は実際には「未来において自分が失うかもしれ
ないものについての欠落感の先取り」という複雑な心理操作を子
どもに要求している。


 そして、経験が教えるのは、恐怖心の強い子ともほど高い確率
で「ガリ勉」になるということである。


 この子どもの「学ぶ力」の中核にあるのは「恐怖心」である。


 「先取りされた喪失感」もまたある種の欠性態であることに違
いはない。


 ただ、それは同学齢集団内の競争で相対優位をめざす以上の目
標を持たない。
                                               

 だから、「恐怖心の強い子ども」は自分の成績を向上させるの
と同じ努力を(場合によってはそれ以上の努力を)競争相手の成
績を下げるためにも注ぐことになる。


 私はそのような努力を「学ぶ力」とは呼びたくない。


 「言葉の力」という本題に戻る。


 私が長い迂回を通じて言いたかったことはもうだいたいおわか
りいただけたと思う。


 私が言いたいのは、人間的な意味での「力」は、何を達成した
か、どのような成果を上げたか、どのような利益をもたらしたか
というような実定的基準によっては考量されないということであ
る。



 「言葉の力」も同じである。


 「言葉の力」はそれが達成した成果やそれが発語者にもたらし
た利益によって計測されるのではない。


 そうではなくて、「言葉の力」とは、私たちが現にそれを用い
て自分の思考や感情を述べているときの言葉の不正確さ、不適
切さを悲しむ能力のことを言うのである。


 言葉がつねに過剰であるか不足であるかして、どうしても「自
分が言いたいこと」に届かないことに苦しむ能力を言うのである。
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