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「ノンフィクションは死なない」佐野眞一 イースト新書 2014年 ②(後半) /「一人恐怖に強迫される若者たち-彼らは,ケータイを介して常時接続しあい,互いの存在を確認しあっている」②(後半) 土井隆義 筑波大学大学院人文社会科学研突科教授 『月刊少年育成』 2009.2【再掲載 2016.7】 [読書記録 一般]

今回は、8月29日に続いて、佐野眞一さんの
「ノンフィクションは死なない」2回目(後半)の紹介です。


佐野眞一さんの本を再び見られるようになってよかったと思った一冊です。



出版社の案内には、

「『週刊朝日』問題、盗用問題、そしてノンフィクションと出版業界の危機…
ジャーナリズム界の『巨人』が沈黙を破る!
2012年10月19日、『週刊朝日』の連載が初回で打ち切りという異常な事態
となった。絶大なる人気を誇り、権勢を振るっていた大阪市長・橋下徹の
人物像を通して、当時の未曽有の政治的停滞状況と、言論の置かれた危機
的状況を伝えたいという思いからスタートした連載だったが、その裏側で
は何が起こっていたのか。また、なぜ同じタイミングで当時の東京都知事
猪瀬直樹は、『盗用問題』を暴露したのか。このジャーナリズムの現状に
どう立ち向かうべきか。渦中のノンフィクション作家が重い口を開き、す
べての疑問に答える。」

とあります。






今回紹介分より強く印象に残った言葉は‥

・「紙の本は相変わらず売れないが、だからといって電子書籍が売れている
わけでもない。本は今静かに殺されようとしている。」


・「教育は理想がなければ知識の切り売りに過ぎない」


・「ツイッターやメール、ラインなどいわゆる電子信号系言語はなんと荒々
しい言語空間になってしまうのか。直接会い、また電話で話をすれば、
相手を殺すところまで究極にエスカレートすることは少ない」


・「猪瀬の背後に隠れて甘い汁を吸った巨悪」



もう一つ、再掲載となりますが、土井隆義さんの
「一人恐怖に強迫される若者たち…」②を載せます。
このごろの子どもたちを見ていると、文章の通りだなあとわたしは感じます。




<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。





☆「ノンフィクションは死なない」佐野眞一 イースト新書 2014年 ②(後半)

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◇ノンフィクション復活への提言 

 わたしが「だれが本を殺すのか」で伝えたかったこと
メディア大革命のまっただ中
 

 出版ビジネスの新しい流れ
ウェブサイト → SNS
 

 電子書籍の功罪
青空文庫主宰者 富田倫生
     「ノンフィクションは大道芸の投げ銭の世界」
紙の本は相変わらず売れないが、だからといって電子書籍が売れてい
  るわけでもない。本は今静かに殺されようとしている。
~ 国民的に本が売れた時代は「窓ぎわのトットちゃん」で極致?
 

 出版社の不在で劣化するコンテンツ
  「紙の本」がもつ信頼感


 孫正義の進める教育のIT化が本を殺す
   ◎教育は理想がなければ知識の切り売りに過ぎない 


SNSが抱える人類史的テーマ
 ◎ ツイッターやメール、ラインなどいわゆる電子信号系言語はなん
    と荒々しい言語空間になってしまうのか!?

◎ 直接会い、また電話で話をすれば、相手を殺すところまで究極に
    エスカレートすることは少ない
    - 電子書籍も   
 

「ネット検索」では見えてこないもの
インターネット 
   ←→ 人間が本来持っていた「対話」や「相手への想像力」がどんど
     ん減殺され、人間そのものが情報端末のごとき存在になっている  

     若者は、スマートフォンやインターネットでの表層的な文字にし
    か触れず、「読む」力が急速に衰えている
   → ピンポイントのみに  
 

 わたしがこれから書きたいこと
堤清二
    ~ 東大共産党人脈への○○?
  堤清二 氏家斉一郎 渡辺恒雄

北一輝 石原莞爾



◇「佐野眞一が殺したジャーナリズム」の指摘に答える

猪瀬直樹が火を点けた「盗用」問題
『ガジェット通信』の執拗な批判
       ↓
  『化域の人』の連載を中止させるねらい(創価学会)       
『ノンフィクションの巨人佐野眞一が殺したジャーナリズム』宝島社 2013
= 猪瀬による佐野批判


 「やつ」との因縁
橋下市長問題と創価学会問題


「佐野ちゃん、玉ができたよ」
  猪瀬の積極的すぎる性格
 

 猪瀬を駆り立てた「父性」の存在
  「一匹狼」の悲しさ
  猪瀬 1946(S21)年11月生 同学年
猪瀬の背後に隠れて甘い汁を吸った巨悪
 

 盗用に関するわたしの見解
 

 「旅する巨人」で盗用した石牟礼道子氏へのお詫び
口頭で謝罪


 これが盗用といえるのか?


 角を矯めて牛を殺す議論


フィクション化するフィクション
ノンフィクションノベルとノンフィクション









☆「一人恐怖に強迫される若者たち-彼らは,ケータイを介して常時接続しあい,互いの存在を確認しあっている」②(後半) 土井隆義 筑波大学大学院人文社会科学研突科教授 『月刊少年育成』 2009.2【再掲載 2016.7】

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2.多様性の時代における不安

 かつて、画一的な檻のなかへ若者たちを囲い込もうとする抑圧力を、社会
や学校の文化が強力にもっていた時代には,若者たちの側も、それに対抗す
るために自分たちで独自の文化を形成していた。


 十代の少年たちによる非行文化はその典型だが、このような対抗文化を共
有することで、彼らは互いの強い繋がりを保持していた。


 そこには、共通の敵に対抗して自分たちの立場を守るという共有された目
標があったから、自然と団結力も強まり、相互に繋がることそれ自体が関心
の中心に据えられることは少なかった。


 また、学校文化の下でも、非行文化の下でも、周囲の人びとから評価され
る者とされない者との基準は明白だった。


 学校文化に対する反動形成が非行文化だから、両者のあいだでは評価の基
準が反転しているにすぎず、基準の中身はどちらの文化においても明瞭だっ
た。


 その基準が安定した与件として君臨していたから、時々の人間関係によっ
て個々の評価が大きく揺らぐことは少なかった。


 ところが、1980年代の半ばあたりから、日本社会を支えてきた価値観は急
速に多元化しはじめる。


 それと平行して、人びとの欲望も大幅に多様化していく。


 いわゆる消費資本主義社会の到来である。


 そして、その影響の下で、政府による教育政策も大きな方針転換を迫ら
れることになった。


 画一化の弊害が指摘されはじめた従来の教育に代わって、「個性の重視」
が新たな教育理念として学校現場に取り入れられるようになったのである。


 教育の中心課題に個性のあり方が据えられるようになったのは、もはや社
会の求める人材が、画一的な大量生産を前提とした工場労働を担うような、
均質な人間ではなくなったからである。


 多種多様な欲望に基づいた商品ニーズに応えうるような、創造的な感性を
もった人材へと移ったからである。


 そのため、抑圧的な文化の下で多様性を否定され、画一的な檻のなかへ囲
い込まれていた往年の若者たちとは異なって、今日の若者たちは、むしろ多
様性が賞揚されるようになった新たな文化のなかを生きている。


 しかし、いくら多様性が賞揚されているといっても、あらゆる可能性がそ
こで受容されるわけではない。


 そもそも他者の期待にそうものでなければ、その個性が社会的な評価を受
けることはない。


 今日の若者たちは、かつてのように画一的で明確な評価基準を与件として
押し付けられなくなった代わりに、今度は、具体的で身近な他者から個別の
評価を逐一に受ける必要にさらされるようになったのである。




 多様な個性のあり方が賞揚される現代では普遍的で画一的な物差しによっ
てではなく、個々の場面で具体的な承認を他者から受けることによって、自
己の評価が定まることになる。


 平たく言えば、他者からのウケを狙えるか否かが、自己評価にあたって重
要な判断材料となる。


 しかも、そこに客観的な評価基準が存在するわけではないから、他者がど
のような反応を示すかは前もって予想しづらく、評価された結果を待って初
めて判断される。



 自己承認を得られるか否かは、その場になってみなければ分からないため、
具体的で身近な他者に対して、そして個別の人間関係に対して、自己の依存
度は高いものとなっていく。


 今日の若者たちが、一人でいることに強い不安を覚えるようになっている
としたら、それはこのような理由によるところが大きいと思われる。



 社会の側に普遍的な価値基準があった時代には、その基準を内在化して自
らの物差しとすることで、自己肯定感の安定した基盤を確保することができ
た。


 だから、周囲の人間による一時的な評価を過剰に気にかける必要もなく、
場合によっては「我が道を行く」と孤高にふるまうこともできた。


 社会的な正当性に裏付けられたジャイロスコープ(自転儀)が自分の内部
で回っていたから、それを支えにして一人で立っていることが容易だったの
である。



 しかし、価値観の多元化した今日の社会では、高感度の対人レーダーをつ
ねに作動させつづけて、場の空気を敏感に読み取り、自分に対する周囲の人
びとの反応を探っていかなければ、自己肯定のための根拠を確認できなくな
っている。


 昨今のナビゲーション装置は、内蔵されたジャイロスコープによってでは
なく、人工衛星からの電波を受信することで、自らの所在を割り出すシステ
ムヘと変わってきたが、それと同様に、昨今の若者たちも、社会的な正当性
という内在化された「抽象的な他者」からの評価を失ってしまったので、そ
の代わりに、身近にいる「具体的な他者」からの評価に寄りかかって、自分
を支えなければならなくなったのである。


 誤解のないように述べておくが、かつてのように絶対的な価値観の支配し
た時代が良かったと主張しているわけではない。


 当時は、画一な基準を強引に押し付けてくる抑圧的な時代でもあった。そ
の時代の若者たちは、社会の抑圧力の強さのなかで鬱積した生きづらさを抱
えていた。


 特定の生き方を強制されるうっとうしさから解放され、多様な生き方が承
認されるようになったという点では、現代のほうがはるかに生きやすい時代
だろう。


 今日では、生きづらさが増しているのではない。


 生きづらさの性質が、不自由さに由来するものから自由さに由来するもの
へと移行しているのである。

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